人の業(下)



「―――その傷は、どうやってついた」

 おもむろに、信長は問うた。

 すると、襖の奥から鈴のような声がして、

「何の傷の、ことですか?」

 と、返した。

「その腕についた、九字を切ったような傷だ。それも、坊主にやられたものか」

「いいえ、これは生まれつきのものです」

 そう夕立は答えた。

「和尚様たちに見つけてもらったその時には、もうこの傷がついていたそうです。九字切りは魔を払うもので、仏さまが、信長を討つために私を使わしてくれたのだと聞かされてきました」

「智生和尚にか」

「明道(めいどう)さまという、私の名付け親の偉い和尚様がいて、その方が教えてくださったのです」

 心なしか、夕立が饒舌になった。苦しげではない。

 夕立の声のさまを聞いていると、その高僧と夕立には、確執はないようであった。

 ―――が、夕立が最も信頼していたと思われる智生和尚ですら、信長の聞く限りろくな男ではない。自分の信じる正義を人に押し付け、結果的に、夕立に泣き寝入りをさせることを選択したような坊主だ。

 どうせその明道とかいう高僧も、似たり寄ったりであろう。可愛がるふりをして、夕立を利用しようと考えていたに違いない。

 かくいう信長も、夕立を利用しようとしている身である。

 坊主への恨みはあれど、自分もまた同じ穴の狢なのだから、口には出さない。

(俺を殺すためか)

 信長は今一度、その言葉を噛み締める。

 時を同じくして、竈の中で静々と熱を帯びていた炭が、

 ぱちり、

 と、弾けた。紅く染まった炭の音に耳を傾けながら、信長は、延暦寺に火をかけた日の、その光景を思い起こしていた。

 この娘はこれまで、娘らしい人生など送ってこなかったのだろう。

 信長を殺すためだけに、信長の悪口だけを教わり、女として花盛りが始まれば、すぐに散らされる。まるでこの娘は、刀と同じだ。

 選択の余地などなく、他人にその道を決められ、他人に従いながら生きてくるなど、まるで物ではないか。ましてや、他人の基準で定められた正義に縛られ、劣等感に苛まれることになるなど、この娘の人としての生を蹂躙しているようなものだ。

 それを考えると余計に、仏の教えを破ったその身を、僧の着物で包まれた夕立の劣等感が想像できる。あの衣が夕立を縛り付け、傷つけているというのなら、なにが忌々しいものかは容易に想像できる。

「着替えたか」

 信長は訊いた。

 その問いかけに返答はなかったものの、夕立の細い手が襖の隙から伸び、襖を開ける。

 小豆色の小袖に枯茶のたっつけ袴と、いたって簡易な格好である。古着売りから買っただけにやや小汚いが、破れていないだけ、夕立の着ていた衣よりマシというものである。

 黒髪に色白の夕立が、黒白の色合いしかない僧兵衣装でいるのは見ていても味気ない。

 しかしこうしてみると、夕立には赤茶色がよく似合う。その上には、しっかりと深緑の衣も着ている。古着売りの売っている着物の多くが土佐衛門や自殺者の着物であるという。もとは法衣か何かだったのであろう物を、袖の部分を肩で切り落とし簡素なものにしてある。

「着替えました」

 のそのそと押し入れから這い出て、夕立は上目遣いに信長を見る。

「あの、脱いだ衣は」

「貸せ」

 信長は押し入れの中に手を突っ込み、僧兵衣装の塊をもぎ取る。

 もぎ取るや、すぐさま大股で竈まで歩み寄った。

「あっ!」

 夕立にも、今から信長が何をしようとしているかが分かったらしい。

 短く、甲高い声が上がるも、後の祭り。

 夕立が声を上げたすぐ後に、竈の中へと僧衣が放り込まれた。

 赤々と光っていた炭は僧衣を餌に勢力を増し、たちまち竈の中で焔が揺らめく。

 黒衣も、袴も、行人包も、坊主を彷彿とさせるものはすべて竈の中に棄て、焼き払った。

 赤々と燃ゆる竈を背に、愕然とした夕立の顔を、信長は見据える。

 驚愕とも、拒絶ともつかぬ顔で、眼を見開いた夕立の顔は、いまだかつて見たことがない。顔立ちこそ、吉乃の面影を残してはいるものの、もう夕立の顔を見たって、吉乃の姿が脳裏をよぎることはない。

 夕立は夕立としか、もうこの眼には映らぬ。

「―――僧衣は燃やした。もはやお前は、仏の教えに従うものではない」

 信長は夕立に歩み寄り、その揺れる瞳と対峙する。

「もしお前が地獄に落ちるというのなら、俺も共に落ちてやる。―――お前が誰もいない場所で、ひとり残されることは俺が許さん」

 信長の脳裏に映る光景はただ一つ、暗い部屋でひとり残され、痛む体を寒さに震わせて眠る夕立の姿であった。

 夕立は唇をかみしめ、震えている。

 深い川底の如く黒い瞳が、目に溜まった水を孕んで光を弾く。

 夕立の双眸からは、それでも、涙が流れることはない。

 荒い呼吸を繰り返しながら、夕立は“吉法”の懐に飛び込んだ。嗚咽も、悲痛な泣き声も聞こえなかったものの、代わりに、夕立の華奢な腕が、信長の胴を掻き抱く。

「――――」

 轟々と燃える竈の火の音に耳を傾けながら、信長は夕立に身を任せていた。

 小さな手が、着物を強く掴んでいるのが分かる。誰にも縋る術を持たなかった女は、こうやって人に縋るのか。その様はまるで、藁を掴むように必死なものであった。

「抱きしめてください」

 夕立は“吉法”の胸に顔を埋めながら、小さくうめいた。

「あと少しだけ、このままでいさせて」

 ねだるような語調であった。苦しげに声を絞り、鼓動が早まるのが伝わってくる。

「―――いまは、いまだけは、吉法さまが本物だと信じていたいのです―――」

 刹那、夕立が意味の分からないことを口走る。

 それはどういう意味だ―――。

 言い及ぼうとするも、夕立は小さな唇をすぼめ、固く口を閉ざしている。

 夕立が意味の分からぬことを言い出すのは、常なること。

 その場で無理に聞き出さずともよかろう。

 信長はあきらめて、童をあやすように夕立の頭に手を添える。子供というものに触れたことがなかっただけに、子供が安心する抱き方など分かりもしない。

 夕立がこれで安心するかもわからぬまま、信長は女を抱くように抱き留めた。

 十五年前の自分は、思ってもいなかったであろう。

 家臣の報復に走り残虐の限りを尽くした自分が、たった一人の小娘に惑わされ、深き業の道をつきすすむことになろうとは。




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