人の業(中)



 夕立に親がいないのをいいことに、頭が良くないのをいいことに、その無垢さに付け入って好き放題にするとは、許しがたい。さこそ、その愚か者が一人でなく、複数人で代わるがわる事に及んだというのなら、それはもう人の所業ではない。

 気が付けば、信長は静かに閉じた口の裏で、強く奥歯を噛み締めている。

 激しい怒りを感じていた。

 やはりあの坊主どもは、半端者である。金に目がくらみ、浅井家に加担して織田家に挑んだころから、何も変わっていない。あれほどの恐怖を刻まれてなお、愚か者は愚か者にしかなれぬことがよく分かった。

 あの智生とかいう和尚も、そうだ。

 夕立と“仲良し”だったというなら、夕立を連れて屋敷から逃げるなり、できたはずである。それをしなかったうえに、

「穢れを負うものは地獄に落ちる」

 などと、夕立を責め立てるような言葉を投げるなど、夕立を捨てたも同然ではないか。

 ―――しかし、激情を鎮め、客観的に考えてみれば、夕立が孤立した原因は坊主にはない。

 夕立に親がいないのも、坊主どもの世話になるしかなかったのも、その根を辿っていくと、行きつく先は『延暦寺の焼き討ち』である。

 つまるところ、信長の―――自分のせいに他ならぬ。

(知ったことか)

 信長はいちど、吐き捨てる。

 焼き討ちはなにも、悪意ばかりでしたことではない。半端者の僧が豪遊を繰り返し、京への進出の大きな妨げとなっていた。焼き討ちの必要性はあったのだ。

 それで残された子供がどうなろうと、信長の知ったことではない。 

 延暦寺に逃げ込んでいた女は、多くが遊女だった。僧との子供を懐妊した遊女もいたことだろう。信長が焼き討ちをせずとも、遊女の子供などろくなものにならない。自身も遊女にされるか、売り飛ばされるのがおちというものだ。どう転んでも、夕立に未来などない。

 ―――そう思ってはいても、夕立の背中を見ていると、せり上がるのは、激しい憤怒と、罪悪感であった。

「―――わかった。こっちを向かんでもいい」

 信長は背を向けた夕立に向けて、萎えた語調で語り掛けた。

「……お前はそう思っとるようだが、俺はお前を浅ましい女だと笑えるほど、大した男ではないぞ」

「―――」

「実をいうとな、お夕よ。俺は、ほんの少しだけ、偉い男だった」

 信長は少しだけ、己の本性を明かした。

 自分が、お前の仇の男だ―――。そう言えば、夕立は己の浅ましさなど忘れ、信長を罵倒し、殺しに来るだろう。落ちぶれた信長に、それを言うだけの覚悟は、ないのだった。

「俺の一声で、人間の十人や二十人を殺すことは容易かった。俺が命じるだけで、無実の人間どもを民家に押し込め、焼き殺すことだってできたのだ」

 実際、今言っていることは真である。

 伊勢長島の一向一揆の掃討では、城ごと籠城した民衆を焼き殺した。

 荒木一党の討伐においては、子供を抱えた女房衆をむやみやたらに殺させた。天の雲を突き上げるような悲鳴を聞いてなお、動かなかった自分の心というものが、なぜ、小娘ひとりの泣きざまを見ただけで張り裂けそうになってしまうのか。信長にすら、この時は己の心というものが分からなかった。

 とにかく、それほどのことをした。

 夕立を浅ましいなどと、責められる立場ではない。

「―――まるで、魔王のようですね」

 夕立がぼそりと、そんなことを言った。

「ああ、そうだな」

 夕立がそう思うのも無理はない。そこは肯定せず、信長は認めてやる。

「故にだ。お前の口からどのような言葉が出ようと、俺はお前を馬鹿にすることができん。―――己の手も汚れていては、他人のことをどうこう言うこともできんだろう」

 そう言い募ったとき、夕立が、おずおずと信長のほうを振り返った。

 破れた着物の裂け目から、華奢で白い腕が覗く。その腕に染みついていたのは、九字紋のような傷跡である。

 その妙な傷を見る、信長の視線に気が付いたのであろう。

 夕立はその裂け目をさっと手で覆い、赤い眼で対峙した。

「―――」

 審査を、している。

 自分を嘲けず、守ってくれる男かどうかを。

 夕立は弱弱しい顔をしていても、その実、夕立の中の「女」は、眼前にいる人物を、頼ることができるかどうかを見定めている。

「―――試してみたかったのです」

 語りだした夕立の声は、沈んでいる。

「吉法さまは、間違ったことを言いません。正しい人だと思います」

「正しい、か」

「だから、もし今宵、貴方が私をどうなりと好きにしていたなら、私は、自分のしていたことが正しいと思えたのです。和尚様たちが言っていたように、私は人のためになることをしてるって……」

 夕立はまっすぐに、信長と向き合うと、固唾を一つ飲んだ。

「でも、違いました。あなたも、智生さまと一緒の、正しい人だったのです」

「―――」

「私、ぜんぜん正しいことなんてしていませんでした。吉法さまを試そうとしたのも」

 言葉を紡ぐ夕立は、苦しげである。喉がつぶれたように、何度も深い呼吸を繰り返し、ようやく話せているのである。話そうとすればするほど、悲哀と羞恥で顔は赤くなり、鼻声になっていく。

「……私が、正しいって思いたかっただけ……智生さまの言う通り、私も咎を負っていたのです―――」

 それが、無知なうちから自己犠牲を是として叩き込まれた、少女の行きついた結論であった。

 夕立が、自分の非を認めたがらない性格であることは、なんとなく、分かってはいた。

 しかし、これは夕立に非があることではない。

 欲深な坊主が、自分の小さな娯楽のために、何も知らない少女に嘘を吹き込んで玩具に変えただけだ。

 否―――そもそも、夕立が嫌がるようなことを、正義として教え込み好き勝手にした男が悪い。このようなくだらない嘘の一つで、夕立が涙を流さなくてはならないのが、信長にはすこぶる腹立たしいのであった。

「智生さまは私に、坊様の服を着せてくださいました。けれど、こんなものを着れるほど、私は綺麗ではないのです」

 女犯に加担し、それを最後まで自白しなかった汚い自分に、敬虔な僧の服などに合わない―――夕立は、そういいたいようである。

 その力なく崩れるような語調が、信長の中にあった糸を、ぷつりと切った。

「お夕」

 信長は言うなり、夕立の着物の襟をつかむと、そのまま自分の眼前まで引き寄せる。

 鋭く目を見開き、夕立の泣き顔を―――その瞳の中に浮かぶ、狡猾な坊主どもの顔を、にらみつけた。

「ならばその衣、今すぐに脱げ」

 信長は鼻腔を膨らませ、隠し切れない怒りを見せる。

 醜悪な顔よりも、整った顔が怒りに染まるさまが、人には恐ろしい形相として映りやすいという。

 夕立は口こそ開けていたが、顔から熱が引き、言葉も出ぬようであった。

 信長はいちど夕立から手を離すと、自分の足元に置いていた古着を引っ掴み、勢いよく夕立の膝に置いてやる。

「これに着替えろ。今着ている着物は、脱いだら固めておいておけ」

 言い捨てるや、信長はぴしゃりと、押し入れの戸を閉めた。

 男の欲によって深く傷ついた夕立を、わざわざ自分の目の前で着替えさせるような、酷な真似はしない。光が入るようにわずかに隙を開け、信長は閉め切ってあるもう片方の押し入れの襖に背を預けた。

 襖の奥から、衣擦れの音がする。夕立はこの中で、いそいそと着替えているのだろう。

 襖の奥で脱いでいる夕立を思うと、不意に、夕立の腕に刻まれていた、あの九字紋の切り傷が、記憶の片隅に浮かび上がってくる。

 夕立は傷が早く治っても、傷跡までは消せない。あれも坊主が刻んだものだと思うと、なにもかも、坊主への怒りに支配されてしまいそうだった。

 夕立を手籠めにしただけでなく、あまつさえ、かつて母の土田御前が信長にしていたような暴力まで加えていたのではないかと考えると、腹の奥に燃え上がる焔がさらに炎上した。

 自分がもういちど天下に上り詰めたら、あと二回や三回、比叡山を焼いてやろうかとも思うほどであった。

(なんて馬鹿なことを)

 怒り狂う感情を、信長は己の理性をもって鎮める。

 凌辱など、僧に限らず、兵でも百姓でもやる。

 夕立が其れをされたからというだけで、腹を立てるのはおかしいのではないか。

 そう言い聞かせて、己をなだめる。

 第一、信長も夕立を利用し、捨てようとしている身である。

 ここで情が湧けば、きっとどこかで、自分が痛い目を見るに違いない。

 ―――そう思っていても、腹が立つものは腹が立つ。

 狡猾な理性と、激情が混ざり合う。信長の心の底に、後味の悪い淀みだけが残った。






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