人の業(前)



 *

 信長が小屋に戻ってきたのは、少年がすぐ裏の土中に銭を隠してから間もない時のことである。

 日もとっぷりと沈み、夕暮れの燃える山を背景に鳥が滑空していく。

「俺、今日は店の夜番があるから―――」

 だから、今日はこの家にはいられない。

 そう言いたいらしい。

「構わん。が―――誰ぞに喋れば、この小屋は消し炭になると思え」

 その気などさらさらないが、信長はあえて、威圧するような唸り声を出した。

 人のうわさというのは、千里を駆けるというもの―――。

 余計なことをしゃべられて、最悪、あの隠密の耳にでも入れば終いである。

「……わかったよ」

 少年は固唾を飲むや、泥まみれの手を隠して踵を返す。

 無論、心の奥底では、

「俺の家なのに」

 と、思っていることだろう。

 しかし、言い返せば何をされるかわからぬから、おずおずと従っているのであろう。

 それからは何も言うことなく、少年は家を去っていった。

 恐怖に押し殺された少年の背中に対し、信長は柄にもなく、

「世話になった」

 と、小声で礼を言った。

 閑散とした小屋の中で、信長は深く吐息をつく。

 いつだったか、母が女房に命じて、信長を蔵に閉じ込めさせたことがある。

 床すらないこの小屋のほうが、床付きの蔵よりもみすぼらしい。ただあの蔵は、格子窓もついていない、一切が闇に包まれた物置である。

 母は意地の悪い女だったのであろう。

「この蔵には霊が棲みついている」

 などと、大法螺を吹き込んだうえで、あの蔵に閉じ込めたのだ。

 あの程度で泣き叫んでいた自分の姿が、すぐ目の前によみがえるようであった。

(過ぎたことを)

 これまでも、敵将や家臣との確執を蒸し返しては、時のたったころに報復をしてきた信長であったが、両親も兄弟もいないこの地で、昔のことを蒸し返したって仕方がない。

 くだらぬ回想などさっさとやめて、信長は夕立の寝込む押し入れを覗き込んだ。

「気分はどうだ」

 声をかけられると、夕立は、待ち構えていたかのように、すっと目を開く。

「よくなりました」

 気分がよくなったという割に、夕立の声は消沈している。なにやら、疲れ果てているようだった。

 あたかも糸の切れた傀儡のように、動きに生気がない。

「―――」

 夕立は、うつむいていた。

 まともに信長と目を合わせようとしない。

 顔もやや青く、気分がよいどころか、具合が悪そうに見える。

「……あの」

 夕立の声は、震えている。

「夜、あの……」

 おずおずと夕立が口にした言葉に、信長は、昼の口約束を思い出す。

「魔物が出るという話か」

 先に言ってやると、夕立は、やはり青い顔でうなずいた。

――それが、人にものを頼むときの面かよ―――。

 信長は眉を顰める。

 たしかに、信長の立場を、その仕打ちの苛烈さを知る者であれば、信長に頼みごとをする際はこのような顔をしたであろう。

しかし、いま頼んでいるのは、夕立である。

無垢で、馬鹿正直で、世辞もろくに言えぬ小娘が、家臣と同じ顔で、自分にものを頼んでいる。

―――そのような顔色をしなくたって、いつものように何食わぬ無表情で、なんの遠慮もなしに頼めばよいではないか。そうしていれば、はいはいわかりましたと、呆れた顔で応じてやったものを。

―――なぜ、そのように怯えた顔をするのだ。まるで、隠し事でもしているように。

夕立の態度が、信長に不穏の影を落とした。

「おい」

 信長は一声かけるや、下から夕立の顔を覗き、目を合わせた。

「何を企んでいる」

 信長は鋭い目で、誰をも凍り付かせた眼力をもって睨んだ。

 夕立は黙った。

「企んでなんか……」

 その時、夕立の白い顔がみるみる紅潮した。

 信長の眼光に青ざめるよりも、恥辱を感じ恥に悶えるような顔である。

 なにか、後ろめたいことを考えている―――。

 信長がそう勘づくのに、時間はかからない。

「―――言っとくが、隣で寝たとて、俺はお前の思っとるようなことはせんぞ」

 頭の片隅にこびりついていた疑念を、口に出した。

 言葉が終わるなり、夕立の息が、「ひゅっ」―――と、詰まる。

 顔から冷や汗が吹き出、かっと黒い瞳孔が見開かれている。

 その反応は、やはり、なにか心当たりがあるらしい。

 皮肉もよく理解していない夕立であるが、いま信長の頭にあったことと、夕立の考えていたことは、一致している。ゆえに夕立は、あてずっぽうな言葉にもひどく動揺したのであろう。

 やはり、そうか。

 信長の予感は、おそらく的中している。的中したから、どうということもないが、その事実に少なからず信長自身も動揺している。

 ―――夕立が、隠密どもに剥かれかけて発狂する理由も、これで辻褄が合う。

 夜に魔物が出るなどと信憑性のない嘘を吹き込み、少女を大人しくさせるその理由に、まっとうな動機などおそらくないであろう。坊主が夕立に、「人のためになることこそ善」と吹き込んだのであれば、夕立がされることを善行と称して屈服させる。素直な夕立は、それが善だと言われれば、歯を食いしばり、涙を呑んで耐えただろう。

 夕立の口からは、「和尚様」以外の名称を聞かない。夕立とともに逃げ延びることができたのは、おそらく、夕立を除いて坊主たちだけであろう。半端者の坊主を多く抱えていた延暦寺で、まともな僧だけが生き残っているとは、考えにくい。逃げ延びた僧の中にも、半端者は混じっていた。―――そう考えれば、あとは想像に易い。男衆の中にひとりだけ、年盛りの娘がいるのだ。まともな坊主ならいざ知らず、半端者にとっては据え膳である。

 ―――夕立にもし、自分が何をされたかの自覚と、仏教における女犯の理解があれば、

「穢れた者は咎を負う」

 と、夕立が涙ながらに口にしたのも納得できる。

 仏教において、僧の異性との姦通は穢れ。

 しかし、夕立がそれを理解しているのならば、なぜ、する必要もないことを、自分に求めるのか。夕立にしてみれば、信長とは、吉法とは、得体のしれぬ男である。さこそ、隣で寝れば何をするかもわからない。少なくとも信長自身が女であれば、そのような危険も考える。

「お夕」

 信長は重苦しい空気の中で、沈黙を破る。

「なぜ、俺に隣で寝ろと言った」

「―――」

「お前にとって嫌なことを、なぜ進んでする」

 嫌なこと。

 それを聞くや、夕立が肩を跳ね上げた。図星であるらしい。

「それは……」

 答えようとした夕立の眼からは、涙が溢れた。 

 拒むように信長から背を向け、夕立は嗚咽を漏らす。

「……聞かないで……」

「なぜ」

「答えればきっと、吉法さまは私を浅ましく思います―――」

 夕立は顔を見せない。

 ただ頻繁に顔を拭っている様子から、涙が止め処なく溢れているのが分かる。

「俺が、お前を、か」

 信長は繰り返す。

 小さな娘が、ああして泣いている背中を見ると、哀れみを感じた。屋敷で育てられていたころは、悪事など一つも働いたことがなかったろう娘が、男の小さな娯楽ひとつで、ここまで壊されるのだ。

 無論、ものぐさ坊主の嘘に騙される、夕立にも非はある。少なくとも信長の中には、そういった思いはあった。

 しかし、その画を想像し、いま耳に流れ込んできているこの泣き声が、誰も味方のいない屋敷の中でこぼれていたと思うと、沸々と、

―――しかし、もとはといえば嘘をつくほうが悪い

 という、意見に変わった。

 その意見が言い知れぬ、信長の腹の底の怒りを孕み、最終的に、

―――夕立は少しも悪くない、坊主がいけない。

 ―――という、結論に変わった。

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