信長(上)



  *

 記憶の奥底で、母が甲高い声で叫んだ。

 ずる賢い信行か、意地の悪いお市が、母に告げ口でもしたのだろう。三郎に嫌なことをされた、と。

 三郎は、その実、二人に危害など加えてはいない。

 それでも、妹弟のどちらかが、母の愛を得る手段として三郎に無実の罪を着せようとするのは、いつものことであった。

「どうしてお前という子は、普通にできないのっ‼」

 母は弟や、妹の言うことを鵜呑みにした。

 高く手を振り上げると、時に平手で、時に拳で、三郎を嫌というほど殴った。

 違う、俺じゃない。

 そんなの嘘だ、あいつらが嘘を言っているんだ。

 そう訴えても、三郎の声は届かない。

 母―――土田御前の貌は、本来、凛とした吊り目の美貌である。息子の三郎もまた、その血を継いで美男子である。それでも、母は自分に良く似た三郎よりも、父に似てえらの張った顔をした弟を愛している。

 母は弟の言うことも、妹の言うこともよく聞く。

 それなのに、なぜか、三郎だけは愛してくれないのである。

「お前は育てにくい」

「お前はかわいくない」

「お前は産むのにさえ苦労した」

 母は口々に、そう言っている。

 母に痛めつけられている最中、目で助けを乞うてみても、目に映るのは卑屈な兄弟の笑みと、無関心な家臣下女どもの姿であった。

「お前など産まなければ!」

 かなぎり声が耳に突き刺さる。

 怒り狂う母の美貌が、そのとき、靄のように歪んだ。




 時が過ぎる。

 走馬灯のごとく、記憶の中で三郎は育ち、いつしかその名が「信長」になった。

 眼前の視界が晴れたその先にあったのは、戦場の光景である。

「あ……」

 若き信長の視界に映ったのは、乱戦の中で体勢を崩し、今にも敵兵に襲われんばかりの家臣の姿である。

 土田弥平次―――この時、思いを寄せていた女の夫であった。

 女は、生駒吉乃。

 癪の強い母や、帰蝶などと違い、穏やかで優しげな、誰にでも愛を与える女。

 初めて顔を合わせたその時、吉乃は女房や下男、父、誰にでも見せる優しげな微笑みで笑ってくれた。差別などなく、初対面の信長にさえ平等に愛を与える、優しい女であった。

 母から長らく忌み嫌われ、弟と比べられ、愛とは隔絶された男にとって、吉乃の優しい顔は甘美だった。若き信長は、慈愛に満ちたあの女が、欲しくてたまらなくなったのである。

 記憶の中でも、その刹那の激しい情念が、生々しくよみがえる。

 今にも殺されそうになっている弥平次を見たその瞬間、脳裏をよぎったのは女の―――吉乃の泣き顔などではない。

 弥平次が死ねば、吉乃を奪い取ることができる―――。

 信長の頭に浮かんだのは、想い女への愛などではなく、ただひたすらに、欲なのであった。

「助け……」

 救いを求めた弥平次に、信長は手を差し伸べなかった。

 斬殺されるのを見届けるや、信長はそそくさと戦場の中に消えてゆく。

 今すぐ全力で駆け抜け、剣を抜き放てば、助けられたであろう弥平次を、信長は欲に目がくらむあまり、見殺しにしたのである。



 ―――そのあと、どうしたのだ。

 記憶の片隅にいた、老いたる今の信長が、己に問うた。




 視界に映る光景は、乱戦状況から打って変わって、雪の降り積もる生駒屋敷と成る。

「いい加減、弥平次のことなど忘れろ」

 苛立ったように唸る信長の前には、吉乃がいる。

 濡れ縁に腰を掛け、弥平次によく似た茶髪の子どもを寝かしつけている。

「忘れることなどできませぬ。今は鬼籍の人と成れど、彼もわたくしの夫にございます」

「奇妙丸を見て、弥平次の話ばかりするのも、それか?」

 信長は問い詰める。

 去年に生まれた息子の奇妙丸は、お世辞にも、信長に似ているとは言えない。それどころか、吉乃によく似た大きな黒目に、弥平次のような薄い茶髪を持っている。―――弥平次が戦死した時期からほどなくして、信長は吉乃を側室としている。吉乃が身籠ったのは、それから間もないことである。息子―――奇妙丸が信長の子であると考えるには、あまりに早すぎる。

 残る可能性は、然るにひとつ。

 吉乃が身籠っていたのは、弥平次との間の子どもと考えるほかはなかった。

 それでも、息子のことを責めては吉乃が悲しむと思い、信長は言わずにいた。それなのに、吉乃は奇妙丸の顔を見るなり、

『弥平次さまによく似ている』

『弥平次さまも、このように優しき顔をしておりました』

 などと、口を開けば弥平次のことばかり言う。

 そして信長に言及された今ですら、弥平次のことを思い出している吉乃は優しげな顔をしていた。

「―――そうかも、しれませぬ」

 優しげな顔で見上げた吉乃の瞳には、信長自身の顔が映っている。

 女に好かれやすい美貌でありながら、その眼の奥は爛々と光っている。柔和な顔と物腰の弥平次とは、あまりに対照的であった。

 この時の信長は、老いたる信長よりも愛に飢えている。それでいて、攻撃され、捨てられることには異常に敏感であった。

「ご覧になってくださいませ。奇妙の顔は、実におだやかなものでございます」

 吉乃はまさしく、我が子を愛する美しい母の姿である。

 それでも、信長はまるで蚊帳の外にいるような気分でならない。

『張り詰めた貴方の顔と違って―――』

 吉乃の心が、そう囁いた風に聞こえた。

 ――お前まで、俺でない別の人間を深く愛しているのか。

 ――俺など、どうでもいいというのか。あの暴力的な、母のように。

 そう思い始めると、吉乃の顔が見る見るうちに黒い煙で覆われていく。その煙の奥から、母の鋭い目が覗き、鋼を擦り合わせたような甲高い声で叫んだ。

「どうしてお前は普通にできないの!勘十郎と違って!」

 その声に、全身の毛が泡立った。

 鼻と耳の奥が針で突かれたように痛み、歯が軋む。

 いまや家督を継ぎ、身の丈も高くなり、力も強くなった。母の暴力に屈するなどありえない。それでも、母のあの叫喚の声を思い起こすと、胸が苦しくなった。

 それが悔しくて、信長は煙の晴れた先にいる、優しげな吉乃の顔を睨みつけた。

「穏やか、か」

 赤く滾った眼で、信長は低い声を震わせた。

「戦場では、俺に助けを乞いながら死んでいったぞ―――穏和など所詮、生き残る術にはならぬゆえな」 

 とうとう、それを言った。

 荒ぶる感情に飲まれた、若き日の信長の姿を、老いたる虎は遠巻きに眺めている。

 ―――そうだった。この時まで、吉乃の顔はまだ活きていたのだ。

 五十路の信長がそう思いだすのと同時に、記憶の中で、吉乃の顔が青ざめた。

「―――助けを乞いながら……?」

 吉乃の声が、かすれた。

「あの人が助けを求めていたのに、見捨てたというの……?」

 吉乃の頭の中には、『信長が助けようとしたが、間に合わなかった』という仮定は存在しなかったらしい。『信長が見捨てた』―――その憶測ばかりが、吉乃の心に充満していたのであろう。

 自分は母や家臣はおろか、最愛の女からでさえ、これっぽちも信頼されていない。

 少しばかり、吉乃が弥平次に幻滅してくれることを信じていた―――そんな幻想が崩れ去る。

 吉乃が信長を悪と見たその瞬間に、ようやく信長は冷静になったのである。

―――やってしまった。

 己の阿呆さを自覚するよりも早く、吉乃の手が飛んだ。

 吉乃の華奢な手で、長身の男を殴り倒せるはずもない。

 それでも、吉乃が奇妙丸を肩腕に抱き、放ったその平手打ちは、信長の頬を鋭く打ったのである。

「なんて恐ろしい人!」

 激昂した吉乃は、我が子を鬼から守るように掻き抱いた。

 叩かれた信長であるが、その実、痛みなど微塵も感じない。

 吉乃の悲痛な声ばかりが耳に響き、自責と後悔が信長の心を乗っ取った。

 この時、若き信長は、自分に背を向けて去ってゆく側室を、追いかけることすらできない。

 ―――ああ、行ってしまう。

―――俺を愛してくれる女が、戻ってこなくなってしまう。

葛藤の中で、吉乃を引き留めようと足を踏み出しても、

「でも、もとはといえば誰のせいなのだ」

と、冷たい理性が信長を責め立てる。

無論、信長のせいである。

この先、吉乃が信長以外の男を愛したとして、信長は吉乃の好き勝手を責めることができないであろう。吉乃もまた、信長に報復をするように、信長以外の男と、我が子だけを愛して生きてゆくのだろう。



魂の抜けたようにうつむく信長を、老虎はただ見つめている。

―――そういえば、こんなことがあったな。

数え切れぬ修羅を見てきた老虎は、冷静に思い出す。

馬鹿な男だ。―――己の記憶を振り返り、老虎は若き日の自分をそう批判した。



吉乃は病に伏せ、心細くなった時でも、信長に心を許すことはなかった。

 信長が吉乃を労わり、小牧山城に住まわせても、奇妙丸を嫡男と認めて家臣に示しても、失った信頼を再構築することはできない。

「私は許しませぬぞ―――」

 吉乃の最後の言葉もまた、恨み言である。結局、信長は最後まで、最愛の女に赦してはもらえなかったのである。

 最愛の女を失ってからは、信長は本当に孤独になった。

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