夕立(後)

 ただ、無価値なものになった自分が空しくなった。

 夕立は虚空を眺めながら、浅く速い呼吸を繰り返す。

 その時、誰かが、戸をくぐってやってきた。

 吉法か、この家に住む青年であろう。

 夕立がそちらに鼻先を向けると、その姿は音もたてずに家の中へと踏み入った。

 ―――御影である。

「あなたは」

 夕立は頭の隅にも浮かばなかった男の姿に、瞠若する。

 名は、聞いたであろうが覚えていない。

 しかし、その顔だけは覚えている。今までに見たこともない、美しい顔だった。

 吉法もかなりの男前であったが、あの時出会った男の美しさはさながら“艶”のようなもの。

「やあ」

 商人のような小袖姿の上に、羽織をまとった御影は、絶世の美女も色あせる優しげな微笑みを浮かべた。

 その優美な微笑みを浮かべたまま、御影は夕立の寝ている押し入れへと歩み寄った。

「ずいぶん探したよ。しもべたちが君につけた傷のことを考えると、夜も眠れなくてね。君を夜通し探し続けた」

 御影の言うことは大層すぎるほどの豪語である。

 しかし、いつぞや見た時よりも、いささかやつれたように見えるのは、本当に昼夜問わず走りまわって、夕立を探していたからであろう。

 なぜ彼が、自分のためにそこまで己の時間と労力を費やすのか。

 夕立は御影に疑問を呈する。

 記憶の糸を手繰る間にも、御影は夕立の頬に触れる。

「おや―――」

 御影がふと、瞳を小さくした。

「どうしたことだろう―――まるで何事もなかったみたいに、傷が」

 御影は、夕立の人ならざる体のつくりを知らぬ。

 あまりの回復の速さに、目を瞠るのだった。

 その傍らで夕立は、言い知れぬもの悲しさを感じているのである。

 自分が斬り伏せ、殺した彼らは、この人の仲間だったのだ。

 このように優しく笑ってくれる男の仲間に手をかけてしまったと思うと、なおのこと、夕立の胸に罪悪感が募った。

「あの、私」

「しもべたちなら、もう息絶えているよ。安心して」

 美しい唇から零れ落ちたその言葉に、夕立は凍り付いた。

 小さな唇を震わせながら、御影の顔をうかがう。

 しかし、御影は、仲間が夕立によって殺されたというのに、まるで激昂する様子もない。それどころか、

「こんなに華奢なのに、一人で彼らをひとり残らず壊滅させてしまうとは、驚いたよ。ますます君を知りたくなった」

 話せば話すほどに、御影の顔は恍惚とし、頬を赤く染めてゆく。

 怒りによる紅潮とは、どこか違う。

 ほのかに桜色を孕んだ赤みは艶やかで、御影の白い肌によく馴染む。

 見たこともない、紅潮だった。

 見る見るうちに艶やかになっていく御影の美貌に目を奪われる一方で、夕立の腹の底は、今にも凍り付きそうだった。

 ―――なぜこの人は、仲間の死を悲しまないのか。

 ―――なぜこうも、嬉しそうな顔をしているのか。

 仲間の死に胸を痛める様子もない御影のさまに、夕立はわずかながら、戦慄を覚えたのだった。

「あの」

 夕立は御影の眼を見つめ返し、

「なぜ、私を……?」

 と、問うた。

「あの方々があなたのお仲間なら、どうして私を怒らないのですか?」

「君に怒るだって?」

 御影は大笑する。

 笑い声ですら穏やかな男であった。

「そんなわけはない。僕が君に、そんな感情を向けるなどありえない。今日は君を攫いに来たのさ」

 御影は夕立の手を取ると、その手のひらを自分の頬に摺り寄せる。

「信長の首を取って、君と結ばれる。ずっと待ち望んでいたんだ」

 御影は楽しげであった。

 しかし夕立には、御影の言っていることの意味が分からない。

 一度会ったきりの男と、結ばれる理由がわからなかった。

 男と女が結ばれるにふさわしい理由とは、互いに惚れることと、智生より聞いている。

 たしかに、御影が夕立に、

「君に惚れた」

 と言っていたことは、記憶に新しい。

 しかし、あの後すぐに、御影はどこかへ消えてしまった。

 ゆえに、彼の言う「惚れた」とは、夕立にとっては現実味も信憑性もない話であった。

 心の準備ができていない。

 そして何より、御影の最初の言葉が、強くその心に引っかかった。

「あなたも、信長の首を狙っているのですか?」

 はじめに聞いたのは、それだった。

 その刹那、御影の微笑みがやや薄くなる。

 心に燃え盛っていた熱が冷めていくようだった。

「あなたも―――というのは、どういうことかな」

 猫を撫でるような甘い声とは打って変わって、唸り声が出た。

「私は、延暦寺からやってまいりました。数々の非道を繰り返す信長を討つために、旅をしているのです」

「君は信長を殺したいのかい」

「はい」

 夕立は重い体を起こすと、御影に向き直り、そこに坐した。

「吉法さまという方が、私を安土まで連れて行ってくれるといいました」

「吉法さま―――?」

「私と一緒に旅をしてくれている、男の方です。きっと、もうすぐ戻るかと……」

「何を言っているんだい」

 御影の顔から、完全に微笑みが消えた。

 細筆を引いたような眉が疑問に歪んでいる。取り乱しているように、夕立には見えた。

 どうかしたのですか―――そう声をかけようと、夕立が声をかけた瞬間のことであった。

「君と一緒にいたのが、信長その人だろう」

 御影の言葉はあたかも、それが当然のことのような口ぶりであった。



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