影入り
御影には、夕立の言っている意味が分からなかった。
信長がなぜ夕立と行動をしているのか、その理由はさておき、御影には深手を負った夕立が気がかりでならなかった。煙の残滓が糸を引いたのは北の方角―――山のふもとにある町の方だった。
手負いの人間を背負ったまま走るのは、老いた虎には難しい。
ならば、どこかに身を隠すであろう。
そう考えられた。
町に降りてからは難航したが、寝ずに探し回ってようやく、この破れ屋のような家で夕立の姿を見つけたのだ。
想い人との感動的な再会に、御影の胸は躍っていた。
信長に散々逃げられ、こけにされたその怒りすらも凌駕するほどに、御影の愛の炎は燃え盛っていたのである。
しかしどうしたことであろうか。
御影を前にしても、夕立はちっとも嬉しそうではない。
それどころか、どこか青い顔で、御影を見ている。
挙句の果てには、
「信長を討つために旅をしている」
などと、突飛なことを言い出した。
夕立がいま、共に旅をしている男こそ、信長本人であろうに。
暫時混乱するも、すぐに、御影は察しがついた。
(たぶらかされているのか)
あの男は、このように混ざりけのない無垢な少女に、嘘を吹き込んだのだ。
どのような理由化はさておき、信長討伐を考える少女の望みにつけ込み、あの狡猾な男は味方のふりをして近づいてきたのであろう。
(何が目的だ)
信長の目論見を考えると、腹の底からまた憎悪が沸き上がった。
少女の力量のほどを知っていて、蘭丸の代わりに用心棒としたか。
はたまた、彼女を生きた盾にでもするつもりか。
考えを巡らせるほど、沸々と義憤が募ってゆく。
同時に、夕立を哀れに思った。
延暦寺の出自というからには、信長が焼き討ちを遂行した、かの寺で間違いないことであろう。
仇である男にまんまと騙され、利用され、の戦いに巻き込まれて傷を負った夕立のことを思うと、御影は心に無数の氷柱が突き刺さるような、辛さを感じるのだった。
(かわいそうなお夕さん)
御影は、自分で勝手に思いを巡らせて、泣きそうになった。
聞くに涙、語るに涙のような話であった。
それなのに、眼前に坐している夕立はというと、状況を飲み込めぬ様子で、小首をかしげている。
「え……」
その、かすかな声が漏れただけである。
無理もない。
今まで味方だと信じてきた男が、追い求めてきた仇その人なのだ。
何が何だか分からなくなるのも、然るべきである。
「でも、信長は安土にいると……」
「彼はもう安土にはいない。四年も前に、本能寺で謀反にあって、逃げだしている」
「四年も……」
「僕は彼の顔を知っている。だから、分かる。君と共に旅をしていた、彼がそうだ」
「――――」
夕立の顔は、呆然としていた。
物思いにふけっている風には見えない。
何を言えばよいのか。どうすればよいのか。何から考えればよいのか。
ただただ、戸惑っているようだった。
―――これでようやく、信長の呪縛も解けたであろう。
もう、あの男の姑息な嘘に、この少女が付き合わされることもない。
満を持して、御影は夕立の肩に手を置いた。
「お夕さん、僕と一緒においで」
術をかけるのと、同じだった。
優しく甘い声で、誘うように、夕立の耳に吹き込む。
男も、女も、甲高い声などよりは俄然、甘美な優しい声を好むというもの―――。
拠り所をなくした夕立を支えるように、御影はそばに寄り添う。
「僕はずうっと、君が好きだったんだよ。君を良いように利用する男なんかと違って」
「吉法様のことですか」
「そうさ。偽の名前なんか使って、過去の所業も何もかも嘘で塗り固めた彼を、君が庇う道理はない」
すべては夕立のためであるような口ぶりであった。
―――否。
それはまさしく、夕立が居場所をなくしたのをいいことに、自分の許へと移るように仕向けるための、卑劣な手段であった。
御影本人こそ、心からの善意でものを言っているものの、やはりやることは卑劣な忍びに他ならない。
「……私も、御影さまが吉法様を悪く言う道理が見つかりません」
夕立は、信長を信長と呼ばない。
己が最も信頼する男の名で呼び、いまだ、その男の幻影を信じ続けている。
隠密の一人も返り討ちにできぬような弱った虎の分際で、夕立に心の底から信頼されているさまが、御影は気に食わない。
「僕のほうが、彼より強い」
「―――」
「彼は君を守るつもりもなければ、守る力もない。僕には、彼にできないことができる」
「―――」
「僕なら、君にこんな辛いこともさせない。大切にする。こんなに良い話はないだろう?」
謀略と詐欺に長けた忍びも、この時は欲に目がくらんだ。
口から出たのは紛れもない本音である。
男女問わずからその美貌と物腰を高く評されたがために、「僕と彼女は結ばれない」という可能性は、頭の片隅にもない。
自分より少しでも劣るものを徹底的に貶め、自分を少しでも良く見せる。これは、だれもが使う手段である。忍びに限らず、そこらの商人だって使っている手だ。
現に御影には、何の邪念もない。夕立を信長の間の手から解放し、自分と結ばれることで平和な生活を手に入れることこそが、御影の最大の望みであり欲望である。
御影にしてみれば、殺戮を愛し、女を犯すのを好む、下卑た武者や忍びなどよりもはるかにましというものだった。
が、
「―――やっぱり、あなたについていくことはできません」
夕立は首を振ると、悲しげな面差しで御影の手を払う。
手を払われた刹那、御影がそれまで張り付けていた不動の笑みが、凍り付いた。
凍り付いた微笑みは次第に消えてゆき、最後には驚愕の表情が浮かぶ。その顔はやがて蒼白に彩られ、拒絶の感情が、揺れる瞳に滲んだ。
「なぜ?」
御影の貌は、かつてないほどに引きつっていた。
御影には、自分の拒まれる様など想定もできない。
ただ頭にもなかった事態に、狼狽していた。
「僕の何が嫌だったの?」
御影には思い当たる欠点がない。
夕立に拒まれる理由が、御影には何一つ考えつかぬのであった。
「本当に吉法さまが魔王なのであれば、吉法さまに直接聞きたいのです」
夕立の言葉は弱弱しいが、それでも澄んでいる。
川のせせらぎのような声であった。それでも、その柔らかな言葉は、御影の五臓六腑を引き裂くように鋭い。
「そんな……」
正体を隠して生きる信長が、「あなたが信長ですか」と問われて、素直に答えるはずがない。
彼に聞けばわかるなど、夕立の考え方はあまりに愚直だった。
「彼のどこが、そんなに信用できるんだい」
やり場のない、怒りとも悲しみともつかぬものは、やはり信長に向いた。
御影に言わせれば、男としても、人としても、信長にはいいところが一つもない。
卑劣で、冷酷で、虐殺を好む狂った男。
かつては美男だったのであろうが、鋭利な美貌も、老け入れば炯々と目を光らす山犬のようになる。ましてや天下人の座から引きずり降ろされた信長には、何の価値もない。
今や天下は豊臣のものになりつつある。秀吉に仕え、気に入られている御影こそ、価値のある人間だった。殺しの仕事でも入らぬ限り、理由もなく女に手を上げたこともない。もし夕立が、この先一生、女に手をかけるなというのなら、御影はどのような無茶をしてでも従う心構えである。
それなのに、夕立に拒まれた。
狼狽のあまりに足元がおぼつかず、一歩退いた御影に、夕立は小さな口から言葉を紡ぎ出す。
「私の知っている吉法様は、嘘をおっしゃらない方です。気に障ったことには怒って、吃驚すると言葉が出なくなります」
彼は正直だから、信用できる。
夕立はそう言いたいらしい。
「それに、私は」
夕立はその時、きゅう、と、何かをためらった。
しかしそれもつかの間のことで、御影をまっすぐに見据えるや、
「もし、吉法様が本当に嘘をついているなら、本当のことを知りたい。吉法様が私のことを知っている分だけ、私も吉法様のことを知りたいのです」
と、言い募った。
この少女はあくまで、本人の口から真実を聞かねば気が済まないらしい。
しかしそれ以上に、夕立の欲求の全てが、信長に向けられていることが、言葉の中から読み取れた。それほどに、夕立の信頼というものは深いらしい。
一目会っただけの御影など、もはや蚊帳の外の存在も同然であった。
「―――ごめんなさい」
静かにそう告げると、夕立は深く、眼前にいる御影に平伏し、頭を下げた。
無論、頭を下げられても、御影は何一つ満たされやしない。
夕立が手に入らなければ意味がないというのに、拒まれたうえに謝られては、立つ瀬がない。
何かを妄信した人間が、第三者の説得で考えを変えるのは稀なこと―――。
多くは、その説得をせせら笑い、結局は一蹴してしまうものだ。
明智光秀の忠義を信じた信長も、光秀の異変を感じた蘭丸の忠告を聞き入れなかった。それと同じである。いちど何かを深く信じ込んだ人間を、元に戻すのは容易ではない。
御影自身も、そういった類の者は嫌というほど見てきた。いんちきな山伏に騙された民衆は、誰かがその嘘を見破るまでは、山伏のいんちきを本物の法力と信じ込む。
ゆえに、もう夕立の耳には、もう自分の声が届かないことを、御影は察した。
それでもなお、御影は夕立を殺すことも、この場から立ち去ることもできない。
「そんな……顔を上げてよ……」
御影の声は、震えている。
まるで悪夢のようだった。
御影の懇願も夕立には届かず、夕立は、深く下げた頭を上げることはしない。
夕立が平伏して詫びる時間が長くなるほど、御影はどんどんみすぼらしい気持ちになった。
「お願い……」
御影はまるで、端女のような嘆き声で頼んだ。
しかしそれも、夕立は聞き入れない。
頭を上げれば、また何かを言われるとでも思っているのか。
頑として頭を上げない夕立に、御影はとうとう折れた。
夕立の髪に手を入れ、顔を手で触るや、半ば強引に顔を上げさせた。
「……」
夕立の瞳は、揺れている。
まるで水面に浮かぶ月の如くに。
「―――わかったよ……」
夕立の瞳孔を目の当たりにした御影は、夕立の顎に手を添えたまま夕立の耳元で囁いた。
「もし彼が、信長だと思ったら、僕の言葉が正しいと思ったら―――『明るい場所に来たね』―――そう言って。その時は、僕が君のために手を汚そう」
それだけ言い残すと、御影は踵を返す。
夕立の目は、本気だった。
信長に真実を問いただし、信じぬくつもりでいる。
―――だが、まだいささか、戸惑いがあるように見えた。
彼女の心は、きっと揺らぐ―――。
御影は名残惜しげに夕立の姿を目に焼き付けると、音もなく小屋の戸口をくぐった。
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