夕立




 うっすらと開いた視界から、暗がりに浮かぶ僧侶の顔が浮かんだのを覚えている。

 貌がいびつに歪み、歯と歯の間から銀糸が引き、臭い荒息を立てるその様は、まるで鬼のようだった。

 燭台のともる夜に魔物が出る。

 目をつむっていなければ、食い殺される。

 それが真っ赤な嘘であることは、最初の僧が嘘をついたその夜から知っていた。

 なぜなら、夕立は、細めた瞼の間からすべてを見ていたからである。

 その“男”が自分に何をしたのかも、己の身に何が起こっていたのかも、夕立は理解していた。

 それが、仏教でいうところの女犯であるということも。

 まぐわいという行為の意義を知らなくとも、わかるのだった。

 女犯が何なのかを、智生は詳しく教えてくれなかったが、その僧は、

「智生には内緒だよ」

 と、言った。

 彼にばれてはならない、いけないことをしている―――。

 賢くないなりにも、夕立には察しがついた。

 いけなくて、気持ち悪くて、痛くて、恥ずかしいことをしている。

 それでいて、汚いことだったからこそ、智生は教えてくれなかったのだ。

 それでも夕立が、男の間の手を拒まなかったのにも、それなりの訳があった。

 死んだ高僧や、智生のほかに、夕立を愛しているものはほとんどいなかった。

 目が合っても軽い挨拶しかせず、最低限の関りしかもっていない。

 彼らが陰で、「魔の化身ではないか」と話しているのも、小耳にはさんでいる。

 そんな彼らが、初めて、自分を褒めて優しくしてくれる機会が、罪を犯すその時だったのだ。

 自分に痛みを与える男の数が増えても、体の一部がひりりと痛む夜が続いても、

「お前のおかげだよ」

「お前のおかげで救われているよ」

 とささやかれるのは、嬉しかった。

 しかし、それがほんのひと時ばかりの虚言であるとわかるのに、時間はかからない。

 昼に彼らに声をかけても、軽薄な会釈であしらわれる。

 その上、回数を重ねるごとに、抱いた後の優しさは潰えていった。しまいには、用が済むや夕立を部屋に置いて、さっさと出て行ってしまうようになった。

 それでも、「人のためになっている」という感覚だけが、夕立の支えであった。

 智生にすべてを話そうとした折にも、

「けれど、話せばきっと、あの和尚様たちが責められてしまう」

 そんな危惧が、夕立の足枷となった。

 何より、彼らがしたことを邪とすれば、自分が今までしてきた苦労も、邪なものになってしまう。善意と、保身が、夕立の邪魔をしていた。

 しかし、それも最後には見破られてしまったようだった。

 旅に出されたその日、智生が鬼のような形相で、自分のもとへ駈け込んできたのは覚えている。

 咎を負うもの、穢れた者は地獄に落ちる。

 それは殺生に並ぶ大罪である。

 智生の口から語られたその刹那、すべてがばれたことは分かった。

 あの日、夕立が旅立った瞬間は、決して感動的な別れではない。

 慕った者からの軽蔑を受け、これまでの全ての苦痛を無価値とみなされた絶望の末の、追放だった。

 その絶望の深さは、夕立がひとりで受け入れるにはあまりに深すぎたのである。

「誰かのためになる」

「私は間違っていない」

 己にそう言い聞かせねば、夕立の心の臓はたちまち、薄い氷塊を落としたようにはかなく壊れてしまうことであったろう。

 もうあの屋敷のどこにも、自分の味方になってくれるものはいない―――。

 そうなれば夕立には、もう、人間の味方はどこにもいないであろう。

 獣や鳥は夕立を襲うことはなく、泣いて縋ればそれを受け止め、寄り添ってくれた。夕立にしてみれば親切だったが、それでも智生にまで見捨てられた傷心まではいやせなかった。

 ―――清州吉法という男に、出会うまでは。

 旅の途中で出会ったその男は、優しげな顔の智生とは似ても似つかない。

 釣り目で、背が高く、引き締まっていて隙がない。

 まるでこの世の全ての修羅を見た、山犬のような男だった。

 そのくせ短気で口が悪く、何事も上からものをいう。

 智生とすべてが真逆の人物がいるとすれば、まさしく彼である。

 それでも、吉法は信長を討つ旅をする夕立にとっては、この上なく有益な人物だった。

 博学で信長にも詳しく、訊けば訊いただけ多くの知識を教えてくれる。

 何より、

『勘違いするな、ただの連れだ』

 低く、落ち着いたその声が、夕立の耳の奥でいつまでも響き渡っている。

 女郎屋の前を通りかかったその時、格子戸の向こうに座る女の空虚な姿の女が、自分の姿と重なっていたことがあった。すぐ後に、自分を抱いた僧と同じ目をした男がやってきたことも覚えている。

 しかし、吉法は智生のように、夕立を責めることはなかった。

 ただ男だけをきっと睨み据え、自分を助けたその背中は、口に出さずとも忘れはしない。たった数日の短いときの中でありながら、なぜ、彼はこんなにも自分に良くしてくれるのか。

 夕立が戸惑うほどに、親切だったのだ。

 それを思うと、彼にも何かしてあげなければ―――そんな思いが、夕立の中に芽吹くように沸いたのである。

 持っている銭も少なく、額のない夕立ができそうなことは、少ない。

 真っ先に脳裏をよぎったのは、屋敷でさんざん体に刻まれた“それ”でたあ。

 抱かれることは、夕立にとっては激しい苦痛を伴う。できるのなら、もう二度としたくはなかった。

 それでも、痛みを伴っても、吉法が喜ぶのならそれでいいと思えたのでる。

 ―――しかし、いざ隣で寝ていても、吉法は何もしてこなかった。

 いつもなら、そこに寝転がっていれば、あとは勝手に僧が事を進めた。ゆえに、夕立には、自分が何をすればいいのかわからないのである。

 結局、その日は知らないうちに説教をされて終わってしまった。

 今から自分がされることを思い起こし、恐怖に震えている間、吉法がしていたことは、ただ夕立の肩を軽くったくことのみ。

 まるで、そうして据え膳を食わぬまま過ごすのが、さも当たり前であるかのように、吉法は夕立に手尾w出してこなかった。その吉法の姿はまさしく、

「こうやって手を出さないでいるほうが正しいんだぞ」

 と、言っているように、夕立には見えたのである。

「……間違って、いたのでしょうか」

 どこかへと出かけてしまった吉法の姿を思い浮かべながら、夕立は押し入れの中で横たわったまま、格子戸で羽を休める雀に語り掛けた。

「私が、汚くて、悪い人だったのでしょうか」

 夕立は涙の滲む視界を閉じた。

 いま、身にまとっているこの衣さえ、僧侶を連想させる。

 連想の果てから、陽気な僧たちの笑い声が聞こえてくるようだった。

 私を好き勝手にしたあの人たちは、きっと、今の私の苦労も知らず談笑していることだろう。

 それを思うと、頭の片隅が締め付けられるような感覚を感じた。

 涙は出ない。

 ただ、無価値なものになった自分が空しくなった。








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