【或る坊主の話】
夕立の夢枕に仏とやらが立ち、刀を与えた騒動から幾年。
その髪は艶やかに伸び、着ているものも合わなくなった。成長につれて胸も膨らみ、幼い顔ながらに女の体であった。その時はやはり、智生には、夕立に信長を殺しに行かせるのにためらいを覚えていた。
夕立はどこからどう見ても、華奢な乙女である。
いかに人ならざる体を持っていようと、心は少女である。信長を殺すことが、高僧の言う通り夕立の命運出るというのなら、智生としては、その命運から背いてほしかった。
智生は僧兵として戦っていた経験もあり、夕立にできる限りの戦い方を教えたが、その実、信長討伐には、心底賛同していない。
ゆくゆくはこの山を下り、どこかで善き男と結ばれ、子にも友にも恵まれた幸せな生活を送ることこそ、夕立にとって最もよい未来なのではないか。
少なくともそれが、親代わりであった智生の主張である。
それでも、夕立を地獄へと誘う命運は、智生の願いすら一蹴する。
夕立の名付け親でもある高僧が天寿を迎えると、高僧は死に際に夕立の手を握り、
「おお夕立。人ならざる武辺の申し子よ。必ずや、あの信長を討ち果たしておくれ」
最後まで、夕立に報復を託したまま、高僧はこの世を去った。
幸いだったのは、夕立に信長討伐を本気で任せようとしていたのが、鬼籍の人となった高僧ただひとりであるということである。
骸を埋葬し弔うと、後に残ったのは、面倒そうに息をつく坊主たちの後ろ姿であった。―――否、その時にはすでに髪も生え、多くが浪人のようなざんばら髪になっている。
これまでにも、炎に消えた延暦寺の復活を諦めた者が、僧をやめ、山を下りて行った例はある。
報復に取りつかれた高僧が死に、別邸の中はもはや、頭を失った状態にある。坊主どもの中には、埋葬が終わるなり、山を下りる身支度をする者までいた。
ただひとり、いまだ小仏の像の前で経を読み、剃髪を続けていた智生ですら、山を下りることを万番考えていたのである。
もう夕立を、過酷な道に縛り付ける男はいない。
ならばいっそ、夕立を連れて、京にでも降りてしまおうか。
そんな心さえ、芽生えていたのである。
何も、延暦寺という場所にこだわることはない。その時の智生にとって、仏よりも大切なのが、娘も同然の夕立なのだった。
―――そんな男が、夕立を信長討伐の旅へと放り出したのにも、訳がある。
高僧が死してから日がたったある日、夕立の様子がおかしくなった。
「智生さま、あのう」
一度は、なにかもの言いたげに口を切った。
「夜は、魔物が出るのですか?」
突飛な質問だった。
「魔物が出る夜は、一人で寝てはいけないという話を聞きました。もし本当なら、智生さまに一緒に寝てもらいたいのです」
それはまるで、子どもに言い聞かせる迷信のような話である。
嘘も皮肉も分からぬ夕立には、それが本当のことに思えてならぬのだろう。
「そんなものは出ないよ。安心して眠りなさい」
素直な夕立に、智生はいつものように、優しく真実を伝えた。
しかし、夕立の表情はやや曇ったままで、それは変わらぬまま幾日も続いたのである。何度も空模様を眺めながら夜の訪れを気にし、ひとりで黄昏を眺めることが多くなった。
どこかおかしいのではないか―――夕立に対して、そのような疑惑を感じたことは言うまでもなかった。
その異変の根元が分かったのは、降り積もった如月の雪が解け始めたころのこと。
「それは本当か」
京に降り、炭を買って戻ってきた智生が、たまたま耳にした第一声が、それであった。
まだまだ寒さの強い如月の末のこと。囲炉裏に入れる炭がもう尽きるということで、智生は京に降りていたのである。―――その傍ら、娘でも働けそうな場所を探していた。
坊主の中でも若年とはいえ、智生もすでに四十路を過ぎている。夕立より先に死ぬであろうことは目に見えていた。夕立が一人になったとき、生きていける道筋を作っておく必要がある。
智生はこのころ、すでに剃髪をやめている。比叡山を離れ、俗世にて食べていくための準備をしていた。
もうこの別邸とも離れることとなるが―――どうしてだか、濡れ縁に腰を掛けた智生の耳には、濡れ縁に面した囲炉裏の間にいる、坊主たちの声が鮮明に聞こえたのだった。
「ああ、どうせ己も、明日には山を下りるだろう。一度くらい味わっておけ」
「夕立、顔はまだ幼子のようだが、体は出来上がっておるわ」
「ならばいちどは、抱いておかねばな。女の肌なぞ、京に降りねば買えぬと思っていたが―――」
「信長を討つことなぞより断然、役に立つ娘よ。このひと月は女に困っておらぬ」
「もうじき夜になる。今宵に夕立のもとへ行ってみるがよい」
「暴れはせぬか」
「じゅうぶんに躾けてあるわ」
「それはよい、ならば―――」
耳を澄ませていた智生の耳には、すべて聞こえていた。
何の話をしているのかは、考えるまでもない。
京の売女の話などではない。囲炉裏の間で話す坊主たちの指す「女」というのが、夕立であることは冷えおみるより明らかだった。
話の全てを理解するころには、智生の顔は蒼白となっていた。
聞くにおぞましい、まるで畜生の所業である。
全身から力が抜け、何も考えられなくなった。ただ暫時呆然と時を過ごすと、次第に果てのない怒りが沸き上がる。豪雨で川が奔流するように、激情の波が智生の身の内に押し寄せた。
そして気が付くと、智生は地鳴りのような足音を立てて、屋敷の廓を歩いて行った。
「夕立」
そのときばかりは、智生は穏やかな声で、夕立に声をかける。
夕立は寒い板の間の隅で、しずしずと、使いもしない刀の手入れをしていた。
「智生さま、お帰りなさいませ」
智生の姿を目にした夕立は、刀を鞘に納めて立ち上がった。
斯様に無垢な少女を、あの連中は売女のごとく、好き放題に犯したというのか。
智生の顔には影が差し、その穏やかな声色もまさしく、嵐の前の静けさそのものであった。
「……智生さま……?」
その形相のすさまじさが、夕立にも分かったのであろう。夕立の薄い表情の中からでも、わずかに、おびえた色が見えた。
「―――今から、これに着替えなさい。荷物も、路銀も、用意した」
智生はそういうと、夕立の目の前に、黒い衣や草履を置いた。その傍らには、わずかな椀と箸、後は襤褸の手拭が入っただけで、あとは路銀の詰められた巾着ひとつ。
智生が用意した着物は、ここに逃げ込んだ僧兵の服だった。防具も、着物も一式そろっている。
僧兵の衣を着たことのない夕立には、智生が着せてやった。白い薄衣を着たその上から下腹巻をつけてやり、その上に裳付衣を着せ、女とわからぬように髪を結いあげ、その上に行人包を巻いた。
「今すぐに、ここを去りなさい」
「えっ」
「信長を討ちに出るのだ」
夕立が僧兵に扮したその時に、智生はそう命じた。
織田信長は、本能寺の変で死したと聞いている。もはや、この世にはいまい。
それでも、智生はこれ以上、夕立をこの屋敷に留めておくわけにはいかなかった。
―――ならば、夕立を連れて京にでも降りればよい。
智生の中には少なからず、その選択肢も存在していた。しかし、智生の中に渦巻く激情は、怒りにくるっていた。
お前はそのまま、夕立に泣き寝入りをさせるつもりなのか―――。
怨念とも、士気ともつかぬものが、智生を突き動かした。
その傍ら、この時の智生は夕立すら憎かったのである。
卑劣な男のいいようにされ、持てる才覚を生かさず男を受け入れていた、弱い夕立にも腹が立っていた。
どんな嘘を吹き込まれたかは定かでなかったが、智生はこの激情の言うなりになれば、夕立すらたたいてしまいそうだった。
「信長は安土城にいる。ここから南に進めば、いつかたどり着けるであろう」
「あの、智生さま」
「もし見つけられなかったときは、そこで諦めなさい。好きになった者と添い遂げ、平穏に暮らすのだ」
智生は夕立の言葉を聞かない。
逃げられぬように両肩を強く掴み、一方的に言い聞かせた。
夕立よりも一回り背の高い智生の影が、夕立を覆う。
一瞬、夕立は固く目をつむった。なにかから目を逸らすように、固く閉目し、体を震わせている。その様を見るや、智生は愕然として一歩退いた。
―――もはや自分ですら、夕立の恐怖の対象になっているのではないか。
そんな憶測が、智生を支配した。
手塩にかけ、愛情を注いだ時間と、築き上げた信頼を、あの物臭どもの手が嘲笑うように壊していくようであった。夕立に手を出されたこともあったが、それ以上に、第三者の愚かな行動によって、同じ坊主である自分までもが、第三者の影と重ねられることとなったのが、智生の怒りを助長させた。
「―――……っ」
たまらず、智生は夕立を抱きしめた。
夕立にすら向けられた憎しみの熱は、徐々にその熱を失いながら、智生の心に届いた。あとには無念ばかりが残り、智生の眼から涙が零れ落ちた。
夕立は何も悪くない。そんなことは分かっている。
それでも、夕立すら憎く思えた自分に、智生は失望していた。
「―――もし、これから先、お前に痛みを与えようとする男が現れたら、その時は殺しなさい」
「―――」
「お前を脅かす男は、生かしておかなくていい」
行人包みにくるまれた夕立の頭を抱きながら、智生は刷り込むように言った。
「お前が嫌だと思うようなことを、強要するような男は、殺して構わない。仏も文句は言わないだろう」
「でも、それは……」
その時、夕立はわずかに反論した。
「……第六天魔王と、同じになってしまいます」
「同じではない。あの男は、女子どもであろうと殺す。お前は、ちがうだろう?」
「―――」
夕立は二の句も告げず、口を引き結んだ。
高僧からも、よく話を聞いていたのだろう。
「さあ、路銀は十分に持たせた。早く行きなさい」
半ば無理やりに、話を切った。
南にいけばよい―――そんな断片的な情報で、安土になどたどり着けはしない。夕立が信長の討伐を断念する可能性のほうが圧倒的に大きかった。
それでも、智生はむしろ、夕立が断念する前提でものを言っているのである。
あ頭こそ良くなくとも、夕立には力がある。抵抗しようと思えば容易いであろう。あわよくば、どこぞの村や町で世話になり、良い男と添い遂げて暮らしてくれることを、望んでのことだった。
屋敷中からかき集めた路銀も、簡単に尽きることはないであろう。
智生は一刻も早く、夕立をこの屋敷から追い出したかった。
夕立は口をつぐんだまま、智生を凝視している。
出て行けと言われているのは分かる。それでもなぜ、こうも唐突に、追い出すように旅に出されねばならぬのか―――夕立なりに、解せぬところはあったのだろう。
それを知っていてなお、智生は黙殺する。
眼で、我が子同然の娘を睨みつける。
夕立の眼が充血して、潤んでいくのが、智生の視界に映った。
「……お世話になりました」
夕立は蚊の鳴くような声で、そう告げると、影のさす背中を智生に向けた。
これで、夕立はこの屋敷から解放される。ひとまず、それは安心できることだった。
しかし、このまま、女犯が罪でないと知らぬまま、あの連中が夕立の中で「無罪の者」として生き続けるのは、智生にとっては悔しいことであった。
「―――最後に一つだけ、聞いてくれまいか」
智生の声に、夕立は足を止めて振り返る。
行人包みの奥からのぞく可愛らしい目が、やけに懐かしい。
「―――あの坊主たちがお前にしたことは、なにも正しいことなどではない。あれは僧にとって、折衝に並ぶ立派な罪だ」
「罪……?」
「咎を負うもの、汚らわしいものは、地獄に落ちる。それだけを、心得ておいておくれ」
智生は言いつのった。
夕立の大きな眼から、涙が零れ落ちるのが見える。
智生はこれで幾分か、夕立が救われるような気になったのである。
夕立は双眸から涙を流しながら踵を返すと、そのまま障子戸を開き、濡れ縁を飛び越えて去っていった。
―――夕立が森の奥に消えていったのを確認すると、智生はゆらりと揺れながら、蔵へと足を運んだ。あの蔵には、僧兵だった者たちの武器や、書物がしまってある。
「―――私はどうやら、仏の道はゆけぬらしい」
智生はあきらめたように吐息を溢すと、まっすぐに蔵を目指した。夕立に刀に振り方を教えていただけに、素人よりはよく戦える自信があった。
智生は、己が愚かな男になったことを、たったいま自覚した。
思えば高僧が死んだ時より、夕立の様子がおかしかった。夕立が言いよどんだ時、何かを言いたげにしていた時、きっと助けを求めていたのであろう。
それを能天気に受け流していた、自分もまた、悪である。
何も悪くない夕立のせいにして、自分は追い出した夕立の背中を見て、ひとり晴れやかな気分でいたのだ。まるで、飼いきれなくなった犬を「自由」の名目で捨てるように。
「せめて、これくらいのことをせねば……」
智生の手はすでに、刃を血で濡らすつもりでいた。
せめて夕立を汚したあの卑怯者たちを、この手で地獄に叩き落さねば、胸の奥に沈んだ怒りは収まらない。
さくさくと雪を踏みしめる智生の耳には、坊主どもの愉快な笑い声が流れ込んでいた。
*
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