不信



 夕立の眼は、花開くように開けられた。

「お夕」

 夕立が目を覚ますのと同時に、小屋の戸をくぐって信長が戻ってきた。

 起き上がったその姿を見るや、驚嘆の声を上げて夕立の貌を覗き込む。

 顔についていた大きな痣は、一晩にして跡形もなく消え去っている。

 その姿はまるで何事もなかったかのように元通りで、相も変わらう人形のようである。それでも、その眼は潤み、貌そのものが不安と、漠然とした恐怖に染め上げられていた。

「―――ここは?」

 不安が滲んだままの顔で、夕立は己のいる場所を問う。

 隠密衆の骸が散っていたあの血だまりの中で、夕立は気を失っていた。そこからの記憶がなくて然るべきである「朝に通った町の外れだ。連中に見つからぬよう、身を隠しておる」

「連中……」

 信長の簡潔な説明を受け、夕立はしばし、空虚な顔で何かを思い出していた。

 が、

「――――――」

 すぐに、何かを思い出したようだった。

 白い顔が青ざめ、抽象的な不安が確固たる恐怖に変わる。夕立は小さな口を閉じることもせず、浅く速い呼吸を繰り返すばかりである。

 そのうち、大きな眼からとめどなく涙が流れ落ちた。

「ごめんなさい……」

 奔流する涙を拭うことなく、夕立はその顔を伏せると、うめくように泣いた。

「ごめんなさい、許して……和尚様……」

 何を罪に思っているのか、なぜ謝っているのか。

 信長には何一つわからぬままであったが、遠巻きに、母・土田御前の甲高い怒鳴り声が聞こえてくるような気がした。

 泣きながら訳も分からず謝る、幼い己の弱弱しい声とともに。


 








 

「―――女子どもに手を出す人に、ろくなものはいないと、和尚様が言っていたのです」

 暫時背を震わせてすすり泣いていた夕立が、ようやく口を開いた。

「和尚様の言いつけを破ってしまいました。女の人を斬ってしまうなんて……」

 夕立の口ぶりはまるで、故意に斬ったのではない―――そう言いたげである。

「斬る必要があったのなら、仕方があるまい。気に病むな」

 信長は躊躇わず言ってやる。

 夕立が受けた傷は、信長のかすり傷などよりもずっと多く、深い。隠密どもが本気で殺しにかかっていたことは間違いないであろう。

 ともすれば、因果応報である。

 殺す気で敵に向かってなら、己も殺される覚悟をせねばならない。

しかし、傷心の夕立がそのような言葉一つで立ち直るはずもなかった。

 信長に言わせれば、夕立はただ、防御のために攻撃を用いたまでである。非があるとすれば、攻撃を仕掛けたくせに防御もできず、むざむざ殺された隠密衆にあるだろう。

 その手練れの隠密の中にひとり、女が混ざっていた。ただそれだけにすぎない。

 夕立が涙を流してまで、そのことを悔やむ理由が、信長には理解できなかった。

「頭が真っ白になってしまったのです……怖くて……」

 夕立の口から、慎んだような小さな声が漏れる。

 先ほどの後悔とは打って変わって、言い訳がましい言葉であった。

 これくらいの年の娘が、恐怖を前に我を忘れてしまうのも、無理はない。それでも夕立の言いようは、我を忘れて人を殺した罪を、己が感じた“恐怖”になすりつけようとしている風であった。

(こいつは)

 信長はその時初めて、夕立の本性を知ったような気になった。

 夕立は邪気がない、純粋で無垢な娘だと思っていた。

 しかしどうやら、存外、己の非から目を逸らそうとする傾向にあるらしい。

 和尚の言いつけを破り、“弱きもの”を殺めた罪悪感と、己の非を認めたくない心が、夕立の胸の中で葛藤しているのだろう。

「―――」

 信長はわずかながらに、腹が立った。

 防衛と殺戮の区別もつかぬ夕立に―――と、いうよりも、このような小娘に「女子どもは殺すな、などという無茶な言いつけを課した坊主に腹が立つ。

 夕立がここまで取り乱すのだから、どうせあの、智生とかいう夕立と親しかった坊主が吹き込んだのであろう。自分の言うことは耳に入らないが、坊主の言うことは聞く―――夕立のその姿勢に、信長はいささか不満があった。

 世の中の悪が、必ずしも男だけとは限らぬ。人さらいや身売りの斡旋に、女が就くことだってある。男の富を吸い上げる女、同じ女を騙して不幸に落とす女、我が子を平気で殴る女。

 信長にしてみれば、女も男も変わらぬ。男が自分より弱い女子どもに手を上げるのと同じように、女も、自分より弱いものには苛烈になるのだ。

 他人の善悪すら見極められない夕立に一方的な弱者像を押し付け、あまつさえ夕立が自身の身を守ろうとする心に枷をつけるなど、無責任もいいところである。

「女のひとりやふたりを殺したとして、それをその坊主は咎めるのか」

 唾を吐くような冷徹な口ぶりで、信長は言ってやる。

「己を守るための殺生すら許さぬほど、お前の慕う坊主は度量のない男かよ」

「そんなことは」

「智生とやら以外に、お前の味方をするものなど、本当はおらんのではないか。智生とやらに見捨てられたら、しまいなのであろう」

「そんな、ほかの和尚様だって……」

 その時、夕立は明らかに言いよどんだ。

「生まれたばかりの私を別邸に運び込んでくれて……」

「赤子のお前にだれが乳を与えた。誰が言葉を教え、服をよこし、寝物語を聞かせた。一度でもお前に、第六点魔王のことを詳しく教えたか」

「―――」

「天魔の住処も方角も分からぬお前を旅に放り出し、世の危険さも教えぬまま全てを丸投げにした坊主どもが、そんなにも信用におけるか」

 信長の言及は厳しい。

 夕立の心が見えてくるほどに、その無表情の裏に隠された綻びが露になるようだった。夕立の口から最初に聞いていた坊主どもは、生き残りであり天魔を倒す希望ともなりうる夕立を手厚く育ててきたように聞こえた。

 だが実際は、そうでもないらしい。

 ことのほか智生という坊主には世話になっていたが、それ以外の坊主からは、ほったらかしにされていたのだろう。

 夕立の語る思い出や、信頼の基盤として挙がる坊主の名が、智生しかいないのがその証拠である。

「―――だって」

 刹那、夕立の声が低くなった。

 反論の意を孕んだ、唸り声である。

「人は仏門の戒めを破り、人の道を外れた時、その身に穢れを負い、地獄に落ちるといいます」

「―――」

「仏門に入ったものが、穢れを負うなんて許されるものではないのだから……」

 また一筋、夕立の頬を涙が伝った。

 大男の賊どもは殺せて、女の忍びを殺してはならぬ―――そんな道理があるものか。

 信長はやはり、夕立の思想を理解できはしない。心に募るのは反論ばかりであった。

 しかしその実、夕立はいまだに、何かを隠蔽しようとしているようだった。












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