手が迫ってくる。

 咫尺も弁ぜぬ濃厚な暗闇から、いくつもの手が伸びてくる。 

 それが自分の体に差し掛かると、劣情をもって舐めまわす。

 あるものが首を絞め、あるものが腕を固定し、あるものは柔らかな肉を掴んだ。

『闇の中で、一人で寝てはいけないよ―――』

 いつぞや聞いた僧の声が、闇の中でもがく夕立の耳にこだました。

『目を開けてはいけないよ―――目を開ければ、魔物はもっと酷いことをする』

 刹那、体を突き破るような激痛が走った。 

 短い悲鳴を上げる。

 ぞくぞくと背筋を悪寒が走りぬけ、全身を圧迫するような息苦しさが襲ってきた。

 わずかに目を開けて見れば、自分の体は布切れ一枚にくるまれた、裸体同然である。それが余計に、言い知れぬ気持の悪さを助長した。

 その瞬間、頬をひっぱたかれるような痛みが走った。

『目を開けてはならぬと言ったろう―――そなたは言いつけを守れぬはしたない娘だったか』

 そんなことはない。

 夢枕に立った仏から、剣を賜ってからというもの。受け取った刀は毎日のように手入れをし、少なからず、軽々と扱えるように、僧兵として戦っていた智生より剣を習った。仏のため、世のため人のためになればと励んできた。

 私がはしたないわけない―――そんな意地と、はたかれたことへの恐怖が混同して、夕立の唇は動かない。苦痛に耐え忍ぶが如く唇を引き結び、再び目をつむった。

 絶えず繰り返される激痛、肉ののしかかる圧迫感、そして嫌悪感と恐怖。

『そうだ、よい子だね―――そなたはよい子だ―――そなたが耐えているこの痛みで、癒される者がいる―――そなたは人のためになることをしている―――仏もきっと、浄土で褒めてくださるだろう―――』

 響くようなその言葉だけが、夕立を支えた。

 人のためになっている。

 自分は立派な人間なのだ。

 それでも、耐えがたい苦痛には涙がにじんだ。

 苦しい、助けてと、身の内で本心が叫ぶ。

 刹那、耳元で、ごう―――と、聞いたこともない音が轟いた。

 思わず目を開けると、延々と続く暗闇が、あたり一面の焼け野原で照らされている。焔の壁が夕立ひとりを囲い、そばにいたはずの僧の姿もない。

 たったひとり、炎の中で夕立は立ち尽くしていた。

 布をかぶって体を隠し、轟音を立てて燃え盛る炎を眺めている。

 燃えているのは、見たこともない建物だった。

 見上げるほどに高い天井に、豪奢な漆塗りの柱。燃え盛る炎の中には、大小さまざまな仏像や、山積みの経典が散乱している。

 自分の育った、延暦寺の別邸に似ている―――夕立はそう感じたのだった。

 燃えた木の柱や、装飾が、見る見るうちに焼け落ちてゆく。

 夕立を助けに来る者はおらず、鮮烈な熱風だけが、夕立の長い髪を舞い上げるのだった。

『だから言ったろう、夕立』

 どこからともなく、智生の声がする。

『咎を負うもの、汚らわしいものは、地獄に落ちるであろうと―――』

 その言葉は厳格で、焼け落ちた柱とともに降り注ぐのである。

『お前は私を二度も失望させた。もう、ここへは戻ってくるな』

 待って、ごめんなさい、許して。

 せがもうとして息を吸えば、熱風が喉を焼いた。

 声が出ない。

 弁解の余地も辞さぬ智生の声は、建物が焼け崩れる音にかき消される。

 襲い来る炎の波は、夕立を飲み込まんばかりに迫ってきた。

 ―――誰も助けに来ない。

 それがわかると、夕立の体から、熱が引いていった。

 最も親しい智生にまで見放されたら、もはや夕立に味方はいない。

 が、智生に見放されても、夕立の中にはどことなく、よりどころとなる人の心当たりがあった。

 爛れて痛む喉に鞭を討ち、夕立はかすれた声で叫ぶ。

 夕立に心のままの言葉を投げ、叱り、励まし、世のことを教えてくれる大人が、もう一人いるのだった。

「よ、し、のり、さま」

 決死の思いで叫んだ声は、もう声にもならぬ。かすんだ息の根ばかりが、夕立の耳に届いていた。









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