魘
*
手が迫ってくる。
咫尺も弁ぜぬ濃厚な暗闇から、いくつもの手が伸びてくる。
それが自分の体に差し掛かると、劣情をもって舐めまわす。
あるものが首を絞め、あるものが腕を固定し、あるものは柔らかな肉を掴んだ。
『闇の中で、一人で寝てはいけないよ―――』
いつぞや聞いた僧の声が、闇の中でもがく夕立の耳にこだました。
『目を開けてはいけないよ―――目を開ければ、魔物はもっと酷いことをする』
刹那、体を突き破るような激痛が走った。
短い悲鳴を上げる。
ぞくぞくと背筋を悪寒が走りぬけ、全身を圧迫するような息苦しさが襲ってきた。
わずかに目を開けて見れば、自分の体は布切れ一枚にくるまれた、裸体同然である。それが余計に、言い知れぬ気持の悪さを助長した。
その瞬間、頬をひっぱたかれるような痛みが走った。
『目を開けてはならぬと言ったろう―――そなたは言いつけを守れぬはしたない娘だったか』
そんなことはない。
夢枕に立った仏から、剣を賜ってからというもの。受け取った刀は毎日のように手入れをし、少なからず、軽々と扱えるように、僧兵として戦っていた智生より剣を習った。仏のため、世のため人のためになればと励んできた。
私がはしたないわけない―――そんな意地と、はたかれたことへの恐怖が混同して、夕立の唇は動かない。苦痛に耐え忍ぶが如く唇を引き結び、再び目をつむった。
絶えず繰り返される激痛、肉ののしかかる圧迫感、そして嫌悪感と恐怖。
『そうだ、よい子だね―――そなたはよい子だ―――そなたが耐えているこの痛みで、癒される者がいる―――そなたは人のためになることをしている―――仏もきっと、浄土で褒めてくださるだろう―――』
響くようなその言葉だけが、夕立を支えた。
人のためになっている。
自分は立派な人間なのだ。
それでも、耐えがたい苦痛には涙がにじんだ。
苦しい、助けてと、身の内で本心が叫ぶ。
刹那、耳元で、ごう―――と、聞いたこともない音が轟いた。
思わず目を開けると、延々と続く暗闇が、あたり一面の焼け野原で照らされている。焔の壁が夕立ひとりを囲い、そばにいたはずの僧の姿もない。
たったひとり、炎の中で夕立は立ち尽くしていた。
布をかぶって体を隠し、轟音を立てて燃え盛る炎を眺めている。
燃えているのは、見たこともない建物だった。
見上げるほどに高い天井に、豪奢な漆塗りの柱。燃え盛る炎の中には、大小さまざまな仏像や、山積みの経典が散乱している。
自分の育った、延暦寺の別邸に似ている―――夕立はそう感じたのだった。
燃えた木の柱や、装飾が、見る見るうちに焼け落ちてゆく。
夕立を助けに来る者はおらず、鮮烈な熱風だけが、夕立の長い髪を舞い上げるのだった。
『だから言ったろう、夕立』
どこからともなく、智生の声がする。
『咎を負うもの、汚らわしいものは、地獄に落ちるであろうと―――』
その言葉は厳格で、焼け落ちた柱とともに降り注ぐのである。
『お前は私を二度も失望させた。もう、ここへは戻ってくるな』
待って、ごめんなさい、許して。
せがもうとして息を吸えば、熱風が喉を焼いた。
声が出ない。
弁解の余地も辞さぬ智生の声は、建物が焼け崩れる音にかき消される。
襲い来る炎の波は、夕立を飲み込まんばかりに迫ってきた。
―――誰も助けに来ない。
それがわかると、夕立の体から、熱が引いていった。
最も親しい智生にまで見放されたら、もはや夕立に味方はいない。
が、智生に見放されても、夕立の中にはどことなく、よりどころとなる人の心当たりがあった。
爛れて痛む喉に鞭を討ち、夕立はかすれた声で叫ぶ。
夕立に心のままの言葉を投げ、叱り、励まし、世のことを教えてくれる大人が、もう一人いるのだった。
「よ、し、のり、さま」
決死の思いで叫んだ声は、もう声にもならぬ。かすんだ息の根ばかりが、夕立の耳に届いていた。
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