愚かな男(前)


 美濃の町が夕焼け色に染まる。

 煌々と照る夕陽が西の山へと沈み始め、影は東に傾き長く伸びた。

 町の隅にある、山麓の家がある。小さく、息を潜めるような、破れ屋の如き家であった。

 飯屋の下働きを終えた少年が、親亡きあとの我が家に帰ってきた。

 稼いだ日銭を竃の奥に隠した壺に収め、いそいそと元の場所に戻す。

 酷使した己の体を労わりながら、少年は柄杓と小桶を携えると、足を引きずらんばかりに家の外へと歩み出でた。家の裏には、ここら一帯に住む者たちが共有する井戸がある。

 少年は、井戸の縁に立てかけられた水桶を、井戸の中へと落す。すぐに、瑞々しい波音が井戸にこだました。

 屋根から吊るされた荒縄を引くと、空の水桶にはなかった重みを感じる。水の手ごたえがあった。

 桶を引き上げて見れば、桶の中で水が揺れている。

 桶を手の取るや、少年はそれを引き寄せ、地面に下ろす。自分の持ってきた柄杓で、少しずつ小桶に水を移せば、僅かに水粒が跳ねた。

 必要な分だけの水を移し終えると、少年は小桶と柄杓を両手に持ち、自分の家の戸をくぐった。

 少年が小桶を土間に置いたその刹那。

 真横の夕闇から手が伸びる。

 無駄な肉のない締まった腕が、少年を夕闇へと引きずり込んだ。

「ひっ」

 成す術もなく引き込まれると、少年は何かが首に巻き付くのを感じた。

 おそらく、人の腕であろう。

 人の腕が少年を締め上げ、細い首を拘束している。

「声を立てるな」

 低い唸り声と共に、少年は己の背が温かくなるのを感じる。

 男の胸板が、当たっているような感覚であった。

 見上げれば、すぐ上に男の顔がある。刃で切れ込みを入れたような、鋭利な目つきの男だった。

「―――一晩でよい。宿を貸してくれんか」

 男の声は、脅迫である。

 それでも落ち着いた様子はなく、息は密かながら荒んでいる。

 男の身体から、生臭い血の臭いがする。

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