人でなし
以前から、隠密衆の連中が、御影を良く思っていなかったことは、御影本人も存じている。しかし、ここまで言いつけを守れない下部とあっては、もう御影にとっては必要もない。
(どうしようもない連中だ)
御影は冷ややかに、かつての仲間を横目に見ると、そのまま夕立を抱き上げた。
信長の首などよりも価値のある夕立が、腕の中にいる。御影の心は、充実で満たされていた。
鍛錬を積んでいない信長など、居場所さえ分かれば何処に逃げようと追いつける。このまま夕立を掻き抱き、先に攫ってしまおうか―――そんな下心さえ湧く。
その、瞬間。
ずだん―――と、銃声が天を突いた。
何処からともなく放たれた弾は、御影の額のすぐ脇を掠める。御影が首だけを動かし、頭を左横にずらしていなければ、その銃弾は御影の脳天に穴を開けていた。
「―――小鹿が自分からやってくるなんてね」
御影は夕立を下ろすと、銃弾の放たれた茂みに歩み寄る。
己の危険を冒してまで夕立を救いに来たのであれば、なおのこと御影は信長が憎くなった。
御影は茂みの直前までやってくると、生い茂る葉の群れを睥睨する。
「出てきなよ」
御影の言葉は重い。
鉛のような低い言葉に対して、茂みからの返答はない。
だが、間一髪おいて、御影の鼻孔を異臭が突いた。
火の臭いである。
次の弾が来る―――そう分かるなり、御影は咄嗟に脇へと飛び退いた。
一つと数える間もなく、御影の残像を鉄砲玉が突き破る。
御影が体勢を立て直す間もなく、茂みから長身の男が姿を現す。
茂みを破って飛び出した信長は、手にしていた鉄砲を投げ捨てると、そのまま大股で走った。駆け寄った先は、やはり夕立である。
そうはさせるものか。
御影はすぐに、曲げていた膝を伸ばして駈け出す。
駆け出しながら、手裏剣を打った。
びょうと風を切った手裏剣は、迷いもなく、長身の背中に襲い掛かる。
瞬く間に、手裏剣の刃がその背を切りつける。切り裂かれた肉溝からは血が溢れ、その血が着物を湿らせる。
しかし、修行も積んでいない者にとっては壮絶であろうその痛みを受けても、信長の悲鳴は上がらない。ぐっと振り向き、鋭利な眼光で御影を睨み据えると、
「蛮族の忍びめが、欲に目がくらんだかよ」
と、吐き捨てた。
御影が足を踏み出した時、既に信長は夕立を抱きかかえている。信長は御影に向かって捨て台詞を吐くと、颯爽と目先の藪に飛び込んだ。
「待て!」
御影が甲高い声で叫ぶや、一足飛びで藪に駆け寄る。
その刹那、御影の視界が霧に覆われた。
否。
霧ではない。白煙―――煙幕である。
幾層もの濃霧が重なったように、一寸先も見えぬ。
(下部の煙玉を―――)
御影は煙幕の正体が、隠密衆の持っていた煙玉であると察する。
そこらに散らばった隠密衆の骸から、信長が抜き取ったのであろう。それがわかると、御影はなおのこと腹が立った。
(どっちが蛮族だ)
御影は唇をかみしめ、悪態をついた。
忍びを蛮族をいうのなら、その忍びの遺物を使ってまで逃げようとする信長はそれ以下である。そのくせ高みからものを言ったような口ぶりで嘲られ、腸が煮えくり返る。
しかし煙の中を突っ切って追いかけても、煙と藪を掻き分けた先にあるのは緑ばかり。葉擦れの音を頼りに突き進むも、その先の藪に分け入って見れば、傾斜面の岩肌が伸びるばかりであった。
傾斜面を下った先にも、森の草木と茂みが広がっている。
煙はいまだ朧げにそこらを漂ってはいるが、逃げた信長の体には、わずかな煙の残滓も残ってはいないであろう。
老いた虎に、まんまと逃げられた。まるで兎が駆け足で亀に負けたような、滑稽な話ではないか。
「……あの男」
夕立を奪われただけでなく、二度も信長に逃げられた。
その屈辱が、御影を駆り立てる。
先ほどの銃声を聞いてなのか、あちらこちらを鳥たちが混乱した様子で飛び交っている。
「―――次こそは、必ず……」
御影は唇を強く噛み締めると、短刀を己の手の甲に突き立てた。
己の甘さを呪う。
信長という男を甘く見ていた。下部を失ったことよりも、信長に負かされたことが何よりも悔しい。
騒々しい森を見据えながら、御影は己の血を、ぞるりと啜った。
己の血は、憎悪の味がした。
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