愚かな男(中)

  


 家の押し入れに羽織を敷き、信長はその上に夕立を寝かせた。

 少年の汲んできた水に手拭いを浸し、絞る。

 はたはたと水が滴り落ちるのを見届けると、湿った手拭いを夕立の顔に当てた。

 血の海の中に寝そべっていたからであろう。

 夕立の白い顔は隙間なく血で覆われ、乾いている。着物も同じく血に汚れ、まともに外も出歩けぬ様であった。

 信長は夕立の顔よりも先に、衣の下を確認した。

 ためらいもなく襟を分けるや、引きはがすように衣を剥ぐ。

 わかるだけでも五人はいたであろう隠密を相手に、生きて帰ってきたことはもちろん奇跡的である。夕立が人に優れた武辺を持っていても、である。

 しかし、相当痛めつけられたことは明白だった。

 掠り傷が付いたのであろう、頬や腕に無数の線が走っている。

 夕立の言う、

「傷を負ってもすぐに治る」

 という話は、真であるらしい。

 だが、それでも直しきれぬ傷もあるようだった。

 華奢な腹を抉るような、深い傷跡がある。

 夕立を連れ去った時と比べれば、出血量も減ったように思われたが、それでも塞ぎきれない小さな傷跡から、血が流れていた。

 それはまるで、陶器の上を紅が伝っていくような様であった。

 それ以上に、打撲の跡が痛々しい。

 濡れた布で血を拭ってやると、夕立の白い顔が露わになる。しかし、顔や身体のいたるところに、青い痣がぽつぽつと残っている。

 どれほどの目に遭ったかは容易に想起できる。

 女子どもにも情けをかけぬ天下の第六天魔王でも、心にちくりと刺さるものを感じた。

 このような凄惨な顔を、見慣れぬわけではない。それでも、優しげなその顔が苦痛にゆがみ、今にも泣きださんばかりの様を見せられると、おのずと心に波が立った。

 いまさら良心など持っても遅い身であるが、信長の腹の底を掻き立てるそれを、「平常心」とは呼べない。

「お夕」

 かつては甲高く癪の強い声も出してみせた信長が、弱った野良犬のように囁いた。

 夕立からの返事はない。

 深い息の音が、静々と繰り返されるのみである。

「ふっ……」

 一瞬、夕立がすすり泣くように鼻を吸った。

 敷いた羽織を強く握りしめ、苦しげに身をよじる。

 悪夢に見るほどの地獄を見たであろうことは、言うまでもない。

 夕立の衣の下を見れば、胸に巻かれたいたさらしが緩んでいる。それを目にして、信長は、己の肝が冷えるのを感じる。ぞうっと、己の臓物が氷に変わっていくさまが目に浮かぶ。

 ―――いいや、それならば。

 信長は己の頭に浮かんだそれを、自身の考察をもって消し去る。

 もしあの数の隠密どもに嬲られたとすれば、夕立が袴の帯を固く結んでいるのはおかしい。服を脱がし切られる前に、夕立が殺したに違いない。未遂、と考えるのが妥当であろう。

 あの美貌の隠密が返り血ひとつ浴びていなかったのだから、おそらく、隠密どもを惨殺せしめ血の海を作ったのは、返り血をたっぷりと浴びた夕立に他ならない。

 波一つ立たぬ水面のようなこの娘が、疲弊しきるほどに暴れる地獄とは何か。想像が出来ぬほど、信長も阿呆ではない。

「まだ壊れるなよ。俺では、隠密ひとりにだって敵わぬ」

 信長は囁いた。










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