残滓

 木の上から、女は夕立の様子を窺っている。

 この娘にはまだ、気付かれていない。それでも、手負いのままでは、女の存在が近くにいることに、娘が勘付くのは時間の問題だった。

 夕立よりもはるかに優位に立っていた先刻。

 もっとも夕立の近くにいた隠密の、首が飛んだのはすぐ後の事であった。

 目にも留まらぬ刃。

 殺しの鍛錬を積んだ隠密衆ですら、その動きを見切れなかった。

―――あれは、本当に人か―――。

 女の頭には疑問が浮かぶばかりである。

 鯉口を抜いた夕立に、初めは勝機などないように感じられた。しかし、その佇まいは異様なほどに気味が悪い。まるで亡霊が骸から姿を現したように、その姿は禍々しい。

 それを察したからこそ、あの瞬間、隠密たちはいっせいに、夕立を亡きものにしようと襲い掛かったのである。

 しかし、五人がかりでもっても、夕立には傷一つ付けることが出来なかった。

 聞こえるのは風切りの音と、男の悲鳴。辺りには血と臓物の雨が降り、夕立の白い肌を彩ってゆく。

 その様に、女は戦慄した。

 夕立の刃圏に踏み入った者が皆、斬り伏せられている。

 先刻の弱々しい娘の面影はどこにもない。

 ゆえに、女は逃げ出したのである。

 そして、今に至るのだ。

 女が固唾を飲んだその刹那、下にいる夕立と目が合った。

 眼が黒い。

 それは白目がほとんど確認できないほどに―――否、まるで白目と黒目が入れ替わったように黒い。僅かな森の光を受けた眼が、てらてらと艶めく。

 凄まじい形相であった。

 たまらず、女は夕立に背を向ける。木の枝を踏みしめるや、急ぎ足で別の木に飛び移る。

 しかし、逃げても逃げても、殺気は追ってくる。

 女が飛び移ってきた木々の間隙を、影のように夕立が付いてくる。背中の柔らかな毛が逆立つのを感じた。

 死に物狂いで逃げ回る女は、どこを走っているのかもわからない。女が木の影から飛び出したその刹那、絵中に激痛が走った。

「うっ」

 苦痛に顔を歪めたその時、地についたはずの女の足が、ずるりと滑った。

 足先がぬめり、擦った胸や顔に水気のあるものが飛ぶ。

 自分の背中に刺さっていたのは、おそらく娘が隠密から奪い取ったのであろう、手裏剣である。しかしそれ以上に、女には戦慄するものがあった。

 眼前に広がっていたのは、血の海である。

 四散した仲間の手足が、そこかしこに浮かんでいる。女が滑ったのは、辺り一面が血で濡れ、ため池のようになっていたからに他ならなかった。

 ―――冗談じゃないわよ、こんな―――。

 女の脳裏には、いつかの伊賀攻めが甦る。

 幾万もの軍勢を引き連れた織田軍が、伊賀に踏み入ったあの日。

 伊賀の住人の半分が見境なく殺され、滅ぼされた。そのときに流れた血の川こそまさに、今のようであった。

 女が踏み込んだのは、先ほどまで仲間たちが立っていた場所である。

 無我夢中で、右も左も分からず走るあまり戻ってきてしまった。

 その怖気に、全身から熱が引く。

 首筋がひやりとした瞬間には、既に女の意識は途切れていた。

 血潮を噴き出す女の身体を無視して、夕立は血の海の中に立つ。心ここに在らずとばかりの、虚しい無表情である。

 隠密どもの悲鳴も聞こえなくなると、後には何も残らない。

 獣の足音すら、その場には聞こえなかった。

 音もなく、夕立の持つ打刀から血脂が滴ったその時、

 ぴちゃり―――と、静寂の中に水音が生まれる。

 夕立が勢いよく、血の波紋が生まれた先を睨み付けた。

「これは―――」

 涼やかながら、動揺の色を隠せない男の声である。

 御影である。

 御影を眼に移す夕立の瞳は、御影を見ているようで見ていない。しかし、どこを見るとも知れぬ目をしていながらも、夕立はおびただしい瘴気を放っているのだった。

 お前も殺す―――先ほどの隠密どもと同じ黒衣をまとった御影に、夕立の瘴気は語りかける。

「……」

 これは、己の脳裏に焼き付いた、あの心優しい娘ではない。

 それが分かると、御影の貌から動揺が消える。切れ長の眼は刃のように研ぎ澄まされ、穏やかな微笑みを浮かべる唇は、真摯に引き結ばれた。

「何をされたかは知らないけれど、危ないね」

 端正な唇から、澄んだ水のような優しげな声が零れ落ちる。

 その声を聞かず、夕立が動いた。

 血脂を纏った刃を滑らせ、軽々と血の海に波紋を立てると、夕立の姿が消えた。

 朝霧の如くに消えた夕立の姿は、瞬く間に御影に眼前へと姿を現した。

 しかし、一閃を描いて光ったその刃は、御影の喉笛には届かない。

 その喉に届く寸前に、刃は御影の手に握られた短刀と噛みあっていた。きりきりと金切りの音を立て、鋭利な刃が交差する。

 凄まじい力の衝突であろうに、御影はその顔に、皺ひとつ浮かべていない。

「まるで鬼だ」

 御影は悲しげに言うや、打刀と噛みあう短刀を勢いよく前に押し出した。

 短刀に押し出された夕立の身体は、わずかな間だけ、その勢いに体をよろめかせた。

 その瞬間、御影が一歩を踏み出した。

 煙を巻くようにゆらりと体を傾けると、瞬く間に夕立の背後を取る。

「少し眠ってもらうよ」

 その言葉と共に、夕立は崩れ落ちるようにその場に倒れ込んだ。

 御影の細い手が、夕立のうなじを強く打ったのである。

 気を失った夕立を、御影は絹を扱うように柔らかく抱きとめる。

「可哀想に、彼らにやられたんだね」

 血の海の中に浮かぶ仲間の亡骸を一瞥すると、御影は破顔して、夕立の頬に手を這わせる。

 力尽きたように倒れる夕立の顔はやはり、愛らしい。やはりこの顔に、鬼の形相は似合わなかった。

「僕の仲間が大変な失礼をした」

 優美な微笑みを浮かべる御影だったが、その微笑む口元は、徐々に歪にゆがむ。

 着崩れて露わになった少女の肩口は、そそるものがあった。

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