嫉み
*
信長は常に、森の音に耳を澄ましている。
草むらからも、木の上からも、岩かげからも、果ては土の中からも、あの美貌がほくそ笑む声がする。
(くそっ)
相手は、俺を弄んでいる―――。
そう分かるのに、時間はかからない。首だけが狙いならば、さっさと首を狩ればよい。
兜も付けていない首を狩る最高の瞬間は、少なからずあったはずだった。
美貌の隠密が、信長を組み敷いたその刹那。
その首に突き立てられるはずだったその刃は、首を動かした信長の影のみを射貫き、地へと突き刺さった。
あの時、もし御影が本気で信長を殺すつもりであったなら、地に突き立てた刃を引き抜き、すぐにでも第二の刃を放ったであろう。
第二の策に移るまでの間、わずかにでも、信長が御影を押しのける暇ができたのは、予想外の事態に御影が怯んだからに他ならない。
地面に突き刺さった刃を見た瞬間、御影の眼が動揺に揺れていた。
嫉妬と殺意に目が眩み、本来、忍びが持つ軽薄な死生観と冷静さを失っていたのである。
少しでもひどい死に方をさせてやろう―――そんな思いも、あったに違いない。
獲った魚を捌くような思いでいれば、早急に仕事が済んだであろうに、この男はあえて標的を嬲り殺しにしようとした。
ゆえに、刃の動きが鈍ったのである。
信長に跳ね除けられた御影は、軽々と跳躍すると、木の陰に姿を消していった。
それでも、信長の周囲には濃密な殺気が漂い、かえって御影がどこに居るのか掴めない。
そして、いまに至るのである。
御影はいつでも、信長を殺す準備が整っている。
嫉妬などと言うものに惑わされ、御影は冷静さを欠いているようだった。それでも、悪意というものは人を怪物に変える。嫉妬という憎悪がある分、御影は信長を楽に殺す気などないようだった。
そうでなければ、信長は御影に出会ったその瞬間に殺されている。
やはり御影としては、じっくりと恐怖を味合わせ、痛めつけ、命乞いでもさせてから殺したいのだろう。
(楽に殺されるものか)
信長は歯の奥を軋ませる。
侮られながら死んでゆくなど、謀反による死をもはるかに上回る恥である。
刺し違えてでも、御影に傷一つは負わせてやる覚悟だった。
が、間髪置かず、
―――ざざっ……と、何の前触れもなく、御影が木の上から地へと降り立つ。
(くるか)
信長は脇差の柄に手を置き、御影を睨み据える。
しかし、当の御影はと言えば、驚いたふうに目を見開き、信長のすぐ後ろを漠然と見つめている。
「―――その首、いちど預けておくよ」
御影は信長の肩を透かした先を見据えながら、悔しげに言う。そして言うなり、吹き抜ける風のように、信長の横を通り過ぎた。
去り際に、
「お夕さん―――」
不安と焦燥を孕んだ声が、御影の口からぼそりと漏れた。
お夕、とは夕立のことであろう。
先ほどから信長を助けにくる気配すらない夕立が、御影の行く先にいるらしい。
夕立の存在がなかったことに気付くや、信長の脳裏にもう一つ、浮かび上がる存在がいる。
先刻、町の中で追いかけてきた、追手の隠密どもの姿が見当たらない。御影の援護をするでもなく、信長を狙う様子もない。
となると、彼らはどこへ消えたか。
考えた刹那、信長は大きく一歩踏み出した。
心を蝕むような緊張が、信長の臓をきりりと締めた。
*
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