嫉み


 信長は常に、森の音に耳を澄ましている。

 草むらからも、木の上からも、岩かげからも、果ては土の中からも、あの美貌がほくそ笑む声がする。

(くそっ)

 相手は、俺を弄んでいる―――。

 そう分かるのに、時間はかからない。首だけが狙いならば、さっさと首を狩ればよい。

 兜も付けていない首を狩る最高の瞬間は、少なからずあったはずだった。

 美貌の隠密が、信長を組み敷いたその刹那。

 その首に突き立てられるはずだったその刃は、首を動かした信長の影のみを射貫き、地へと突き刺さった。

 あの時、もし御影が本気で信長を殺すつもりであったなら、地に突き立てた刃を引き抜き、すぐにでも第二の刃を放ったであろう。

 第二の策に移るまでの間、わずかにでも、信長が御影を押しのける暇ができたのは、予想外の事態に御影が怯んだからに他ならない。

 地面に突き刺さった刃を見た瞬間、御影の眼が動揺に揺れていた。

 嫉妬と殺意に目が眩み、本来、忍びが持つ軽薄な死生観と冷静さを失っていたのである。

 少しでもひどい死に方をさせてやろう―――そんな思いも、あったに違いない。

 獲った魚を捌くような思いでいれば、早急に仕事が済んだであろうに、この男はあえて標的を嬲り殺しにしようとした。

 ゆえに、刃の動きが鈍ったのである。

 信長に跳ね除けられた御影は、軽々と跳躍すると、木の陰に姿を消していった。

 それでも、信長の周囲には濃密な殺気が漂い、かえって御影がどこに居るのか掴めない。

 そして、いまに至るのである。

 御影はいつでも、信長を殺す準備が整っている。

 嫉妬などと言うものに惑わされ、御影は冷静さを欠いているようだった。それでも、悪意というものは人を怪物に変える。嫉妬という憎悪がある分、御影は信長を楽に殺す気などないようだった。

 そうでなければ、信長は御影に出会ったその瞬間に殺されている。

 やはり御影としては、じっくりと恐怖を味合わせ、痛めつけ、命乞いでもさせてから殺したいのだろう。

(楽に殺されるものか)

 信長は歯の奥を軋ませる。

 侮られながら死んでゆくなど、謀反による死をもはるかに上回る恥である。

 刺し違えてでも、御影に傷一つは負わせてやる覚悟だった。

 が、間髪置かず、

 ―――ざざっ……と、何の前触れもなく、御影が木の上から地へと降り立つ。

(くるか)

 信長は脇差の柄に手を置き、御影を睨み据える。

 しかし、当の御影はと言えば、驚いたふうに目を見開き、信長のすぐ後ろを漠然と見つめている。

「―――その首、いちど預けておくよ」

 御影は信長の肩を透かした先を見据えながら、悔しげに言う。そして言うなり、吹き抜ける風のように、信長の横を通り過ぎた。

 去り際に、

「お夕さん―――」

 不安と焦燥を孕んだ声が、御影の口からぼそりと漏れた。

 お夕、とは夕立のことであろう。

 先ほどから信長を助けにくる気配すらない夕立が、御影の行く先にいるらしい。

 夕立の存在がなかったことに気付くや、信長の脳裏にもう一つ、浮かび上がる存在がいる。

 先刻、町の中で追いかけてきた、追手の隠密どもの姿が見当たらない。御影の援護をするでもなく、信長を狙う様子もない。

 となると、彼らはどこへ消えたか。

 考えた刹那、信長は大きく一歩踏み出した。

 心を蝕むような緊張が、信長の臓をきりりと締めた。



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