嬲
*
いちはやく夕立に追いついたのは、隠密の女だった。
手裏剣と吹き矢に仕込んだ毒が効いてきたのであろう。僧の恰好をした小娘は立ち止ってうつむいている。
鳥兜(ぶす)の毒でも仕込んでおけば、娘を即座に殺すことができたであろう。しかしあの時、娘の身体に流れ込んだのは、ただ身体の動きを封じる程度の毒にすぎない。
体の自由の利かない夕立めがけて、女は脇差を鞘に収めたまま振りかぶった。
ごっ―――と、鈍い音が天を突きあげる。
予期せぬ打撃を受けた華奢な身体は、そのまま力なく吹き飛んだ。
「ううっ……」
右腕を折らんばかりの強烈な鈍痛に、倒れ込んだ夕立は呻いた。
骨の髄まで響くような痛みは、感じたことがない。頭が朦朧としていても、痛みばかりは鮮烈に感じるのだった。
夕立が顔を上げれば、女を筆頭とした隠密衆が、うずくまる夕立を見下ろしている。
その視線を受けて、夕立の顔が青ざめた。突き刺さるような殺気を向けられているのが分かる。
隠密のひとりが、苦無を手にゆらりと動いた。
襲い掛かってくる。
夕立は震える腕で打ち刀の柄を握った。しかし、利き腕である右の腕は鈍痛で言うことを訊かない。脚も震えて、思うように動かない。
斬られる―――。
ぞっと肝が冷えた刹那、夕立は一歩後ろに退く。
夕立をざくりと切り下げていたであろう刃が、眼前を掠める。しかし避けて直後に、脇腹に痛みが走った。
見れば男は、苦無を握っていた手とは別に、もう片方の手で脇差を操っている。脇差の刃は夕立の黒い衣を斬り裂き、皮膚を破いて、細い腹に食い込んでいた。
夕立が声を上げる暇もない。食い込ませた刃を離すや、その傷口を蹴りつける。
男の太い足で蹴飛ばされれば、華奢な身体はひとたまりもない。
地を踏みしめて耐える事も出来ず、夕立は無抵抗に転がった。
逃げようと立ち上がれば、投げられた苦無が頬や太腿を斬り裂く。
「―――っ」
痛みを耐えようとするほど、歯が軋む。
激痛で涙がにじんだ。
体が震え、呼吸が荒くなる。
涙で揺れる視界の先で、女がまた脇差を構えるのが見えた。
避けなければ、また痛い目にあう。
しかし、そう考えているその瞬間に、脇差の柄が夕立のこめかみにたたきつけられた。
ぷつり、と、何かの糸が途切れたようだった。
夕立の身体は軸を失ったようによろめき、すぐ後ろの木へと倒れ込んだ。
少女の身体が倒れ込むと、地から生い茂った葉が擦れ、小虫が我先にと飛びたつ。
木を失ったのであろう、身動き一つしない少女を、女はしげしげと見おろした。
「まだ小娘じゃないの」
女の口から、低い声が零れ落ちる。
隠密頭である御影が、
「信長と行動している女の子がいる。彼女は殺すな」
と釘を刺すほどなのだから、よほどの美女か、屈強な武者かと思っていた。
だが見てみれば、齢が十三、十四ばかりの小娘ではないか。
顔だって、大して美しくもない。
たしかに身のこなしや剣の腕は達者なようであったが、所詮は経験の浅い子どもにすぎぬ。
御影が心を酔わすような人物とは到底思えなかった。
そんな小娘風情に刃を向けられたことが、腹立たしくないと言えば嘘になる。しかしそれ以上に、女の腹の底には煮えたぎるような思いがある。
女の脳裏を、御影の顔がよぎった。
美しく、物腰柔らか。伊賀の地侍のように、下部を人とも思わぬわけでもない。現に彼は、下部の隠密に対してきつく当たったことがない。
隠密衆の誰もが、以前の隠密頭を討ち取り、若くしてその座に就いた御影を嫉んでいる。見目麗しく、実質的に秀吉に贔屓されているも同然の御影には、反意を抱く者もいる。―――否、いま御影に付いてきている隠密の誰もが、あの若い頭を嫌っている。
それでも、女の中には確かに、嫌悪感とは違う慕情のようなものがあった。
ゆえに、今まで誰にも揺らぐことがなかったであろう御影の心を、大きく揺さぶったこの娘が憎い。
あれほど穏やかだった御影が、この娘を欲するあまり、はじめて人を憎み、唇を噛んでいた。彼女を手に入れることができるなら、ここから先を生きるのも楽しいと、御影は口にしていた。
それほどに、彼に想われたこの娘が憎い。
それでいて、自分よりもこのような小娘に心を奪われた、浅はかな御影も憎い。
女は冷静な面差しの裏で、焼き尽くすような憎悪を抱えていた。
「―――長旅で溜まっているでしょう。どうせ殺すなら、たっぷりと楽しんでからになさい」
女は、仲間の男連中にそう促した。
木の幹にもたれかかる娘は、浅い呼吸を繰り返しながら力尽きている。
充分に痛めつけ、動きを封じた。もう立ち上がる力も、残ってはいまい。
もとより、他の隠密と結託して、御影を亡きものにする予定だった。
誰もかれもが、御影を『顔だけの若輩者』とみなしている。
此度の仕事で御影を殺し、信長の首も奪う手はずだった。昨晩の時点で、信長も、この娘も、御影も、殺すことが決まっていたのだった。
どのみち、娘が死んだと分かれば、御影も黙ってはいないだろう。この娘を先に殺し、数人がかりで御影ひとりを殺すつもりでいる。
―――手に入らないのなら、いっそこの手で―――。
女はすでに腹を決めている。
今からこの娘を嬲り殺しにできると思うと、言いようのない高揚感を感じた。
「―――ふ」
不思議と、女の唇が弓なりに吊り上がった。
あの御影が心を奪われた娘を、今から存分に慰みものにするのである。他の隠密がどうであるかはさておき、女にとっては、信長の首を獲るよりも、娘を壊すことに集中を注いでいた。
女に促された男どもは、仄かに口元を緩める。
ひとりが娘の前に躍り出て、その顎を持ち上げた。
陶器のような白い肌は、吸いつくように柔らかい。そして作り物のような大きな眼。絶世の美女とは言えぬものの、決して醜い貌ではなかった。
次にやってきた男が、娘の衣に手をかける。襟を掻き分けて開いてみれば、娘は幼い顔に似合わず、体つきはよく育っていた。期待以上のそれが、なおのこと男どもを喜ばせる。
次々と伸びた手が、娘の腕や髪、袴にかかる。
このまま犯し、殺し、最後には汚泥のごとく野に棄てるのだ。
女は実に、晴れやかな気持であった。
「ぎゃあっ!」
仲間の悲鳴が上がるその瞬間まで、女は浮かれていた。
浮かれていて、気が付かなかったのである。
男の悲鳴に、女は我に返った。
見れば、とっくに娘を犯しているであろう仲間たちが、娘から一歩二歩と引き下がっている。
先頭にいた男は、なにをされたのか、娘の前でうつ伏せに倒れている。
「なにが」
何が起こったの。
そう声をかけようとした刹那、男の背中から何かが突出しているのが見えた。
―――棒手裏剣である。
それはまさしく、自分たち隠密が使っている武具に他ならなかった。
その瞬間、女は背筋も凍るような怖気を感じた。
刃を突き立てられたような恐怖に駆られ、少女から逃げるように後ろへと飛び退く。
緊迫の波紋が広がる中、娘は亡霊のように、ゆらりと立ち上がった。
その眼に、先ほどの焦りや弱さはない。
かっと見開き、怒りとも恐怖ともつかぬ何かに、震えている。
「―――汚れてなんかいない……」
娘の口から、鈴の音のような声が零れた。
「―――間違ったことなんてしてない……痛いのも怖いのも、受け入れたのに……どうして……」
少女の口から零れた言葉は、恨み言のようであった。
その眼には、何も映っていない。見ているようで、何も見えていない様子である。
その刹那―――ぐるり―――と、娘の首が動いた。
殺気を滾らせた眼で、収めた刀に手をかける。
鯉口を切る音がした。
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