いちはやく夕立に追いついたのは、隠密の女だった。

 手裏剣と吹き矢に仕込んだ毒が効いてきたのであろう。僧の恰好をした小娘は立ち止ってうつむいている。

 鳥兜(ぶす)の毒でも仕込んでおけば、娘を即座に殺すことができたであろう。しかしあの時、娘の身体に流れ込んだのは、ただ身体の動きを封じる程度の毒にすぎない。

 体の自由の利かない夕立めがけて、女は脇差を鞘に収めたまま振りかぶった。

 ごっ―――と、鈍い音が天を突きあげる。

 予期せぬ打撃を受けた華奢な身体は、そのまま力なく吹き飛んだ。

「ううっ……」

 右腕を折らんばかりの強烈な鈍痛に、倒れ込んだ夕立は呻いた。

 骨の髄まで響くような痛みは、感じたことがない。頭が朦朧としていても、痛みばかりは鮮烈に感じるのだった。

 夕立が顔を上げれば、女を筆頭とした隠密衆が、うずくまる夕立を見下ろしている。

 その視線を受けて、夕立の顔が青ざめた。突き刺さるような殺気を向けられているのが分かる。

 隠密のひとりが、苦無を手にゆらりと動いた。

 襲い掛かってくる。

 夕立は震える腕で打ち刀の柄を握った。しかし、利き腕である右の腕は鈍痛で言うことを訊かない。脚も震えて、思うように動かない。

 斬られる―――。

 ぞっと肝が冷えた刹那、夕立は一歩後ろに退く。

 夕立をざくりと切り下げていたであろう刃が、眼前を掠める。しかし避けて直後に、脇腹に痛みが走った。

 見れば男は、苦無を握っていた手とは別に、もう片方の手で脇差を操っている。脇差の刃は夕立の黒い衣を斬り裂き、皮膚を破いて、細い腹に食い込んでいた。

 夕立が声を上げる暇もない。食い込ませた刃を離すや、その傷口を蹴りつける。

 男の太い足で蹴飛ばされれば、華奢な身体はひとたまりもない。

 地を踏みしめて耐える事も出来ず、夕立は無抵抗に転がった。

 逃げようと立ち上がれば、投げられた苦無が頬や太腿を斬り裂く。

「―――っ」

 痛みを耐えようとするほど、歯が軋む。

 激痛で涙がにじんだ。

 体が震え、呼吸が荒くなる。

 涙で揺れる視界の先で、女がまた脇差を構えるのが見えた。

 避けなければ、また痛い目にあう。

 しかし、そう考えているその瞬間に、脇差の柄が夕立のこめかみにたたきつけられた。

 ぷつり、と、何かの糸が途切れたようだった。

 夕立の身体は軸を失ったようによろめき、すぐ後ろの木へと倒れ込んだ。

 少女の身体が倒れ込むと、地から生い茂った葉が擦れ、小虫が我先にと飛びたつ。

 木を失ったのであろう、身動き一つしない少女を、女はしげしげと見おろした。

「まだ小娘じゃないの」

 女の口から、低い声が零れ落ちる。

 隠密頭である御影が、

「信長と行動している女の子がいる。彼女は殺すな」

 と釘を刺すほどなのだから、よほどの美女か、屈強な武者かと思っていた。

 だが見てみれば、齢が十三、十四ばかりの小娘ではないか。

 顔だって、大して美しくもない。

 たしかに身のこなしや剣の腕は達者なようであったが、所詮は経験の浅い子どもにすぎぬ。

 御影が心を酔わすような人物とは到底思えなかった。

 そんな小娘風情に刃を向けられたことが、腹立たしくないと言えば嘘になる。しかしそれ以上に、女の腹の底には煮えたぎるような思いがある。

 女の脳裏を、御影の顔がよぎった。

 美しく、物腰柔らか。伊賀の地侍のように、下部を人とも思わぬわけでもない。現に彼は、下部の隠密に対してきつく当たったことがない。

 隠密衆の誰もが、以前の隠密頭を討ち取り、若くしてその座に就いた御影を嫉んでいる。見目麗しく、実質的に秀吉に贔屓されているも同然の御影には、反意を抱く者もいる。―――否、いま御影に付いてきている隠密の誰もが、あの若い頭を嫌っている。

 それでも、女の中には確かに、嫌悪感とは違う慕情のようなものがあった。

 ゆえに、今まで誰にも揺らぐことがなかったであろう御影の心を、大きく揺さぶったこの娘が憎い。

 あれほど穏やかだった御影が、この娘を欲するあまり、はじめて人を憎み、唇を噛んでいた。彼女を手に入れることができるなら、ここから先を生きるのも楽しいと、御影は口にしていた。

 それほどに、彼に想われたこの娘が憎い。

 それでいて、自分よりもこのような小娘に心を奪われた、浅はかな御影も憎い。

 女は冷静な面差しの裏で、焼き尽くすような憎悪を抱えていた。

「―――長旅で溜まっているでしょう。どうせ殺すなら、たっぷりと楽しんでからになさい」

 女は、仲間の男連中にそう促した。

 木の幹にもたれかかる娘は、浅い呼吸を繰り返しながら力尽きている。

 充分に痛めつけ、動きを封じた。もう立ち上がる力も、残ってはいまい。

 もとより、他の隠密と結託して、御影を亡きものにする予定だった。

 誰もかれもが、御影を『顔だけの若輩者』とみなしている。

 此度の仕事で御影を殺し、信長の首も奪う手はずだった。昨晩の時点で、信長も、この娘も、御影も、殺すことが決まっていたのだった。

 どのみち、娘が死んだと分かれば、御影も黙ってはいないだろう。この娘を先に殺し、数人がかりで御影ひとりを殺すつもりでいる。

―――手に入らないのなら、いっそこの手で―――。

 女はすでに腹を決めている。

 今からこの娘を嬲り殺しにできると思うと、言いようのない高揚感を感じた。

「―――ふ」

 不思議と、女の唇が弓なりに吊り上がった。

 あの御影が心を奪われた娘を、今から存分に慰みものにするのである。他の隠密がどうであるかはさておき、女にとっては、信長の首を獲るよりも、娘を壊すことに集中を注いでいた。

 女に促された男どもは、仄かに口元を緩める。

 ひとりが娘の前に躍り出て、その顎を持ち上げた。

 陶器のような白い肌は、吸いつくように柔らかい。そして作り物のような大きな眼。絶世の美女とは言えぬものの、決して醜い貌ではなかった。

 次にやってきた男が、娘の衣に手をかける。襟を掻き分けて開いてみれば、娘は幼い顔に似合わず、体つきはよく育っていた。期待以上のそれが、なおのこと男どもを喜ばせる。

 次々と伸びた手が、娘の腕や髪、袴にかかる。

 このまま犯し、殺し、最後には汚泥のごとく野に棄てるのだ。

 女は実に、晴れやかな気持であった。

「ぎゃあっ!」

 仲間の悲鳴が上がるその瞬間まで、女は浮かれていた。

 浮かれていて、気が付かなかったのである。

 男の悲鳴に、女は我に返った。

 見れば、とっくに娘を犯しているであろう仲間たちが、娘から一歩二歩と引き下がっている。

 先頭にいた男は、なにをされたのか、娘の前でうつ伏せに倒れている。

「なにが」

 何が起こったの。

 そう声をかけようとした刹那、男の背中から何かが突出しているのが見えた。

 ―――棒手裏剣である。

 それはまさしく、自分たち隠密が使っている武具に他ならなかった。

 その瞬間、女は背筋も凍るような怖気を感じた。

 刃を突き立てられたような恐怖に駆られ、少女から逃げるように後ろへと飛び退く。

 緊迫の波紋が広がる中、娘は亡霊のように、ゆらりと立ち上がった。

 その眼に、先ほどの焦りや弱さはない。

 かっと見開き、怒りとも恐怖ともつかぬ何かに、震えている。

「―――汚れてなんかいない……」

 娘の口から、鈴の音のような声が零れた。

「―――間違ったことなんてしてない……痛いのも怖いのも、受け入れたのに……どうして……」

 少女の口から零れた言葉は、恨み言のようであった。

 その眼には、何も映っていない。見ているようで、何も見えていない様子である。

 その刹那―――ぐるり―――と、娘の首が動いた。

 殺気を滾らせた眼で、収めた刀に手をかける。

 鯉口を切る音がした。


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