夕立
【夕立】
*
『この先もし、お前を傷つけようとする男がいたら、その時はすぐに殺しなさい』
逃げる夕立の脳裏では、ヤマビコのように、智生和尚の声がこだましている。
旅立つ前に、彼は夕立を抱き締めて、何度も刷り込むように教えてくれた。
『お前を脅かす男は、生かしておかなくていい』
『お前を痛めつけようとする男に、容赦などしなくて良い』
何度も教えられたその言いつけを、夕立はしかと肝に銘じている。
和尚が言うのだから、間違いはない。自分がしたことは間違ってはいないと、夕立は自信を持っていた。
しかし今は、そんな自信も安心も感じない。
ただただ、心の臓を引き裂かれるような胸の苦しさを感じていた。先ほど襲って来た盗人連中は、たしかに、夕立の命をも狙っているようだった。―――それでも、夕立以外の誰かに、何かに、危害を加えてはいない。
おのれの命を伸ばすために、自分は、まだ見ぬ誰かにとって、大切な人かもしれない人間の命を奪った。
そんな憶測が、夕立の心の臓を冷やし、ぎりりと締め付けた。
あの第六天魔王にも、息子がいるのだ。襲い掛かってきている彼らにも、恋人や友人、家族がいるに違いない。そう思うと、とても清々しい気持ちにはなれなかった。
(和尚様……)
夕立は心の奥底で、いちばん親しくしていた智生に助けを求める。
(私は、どうしたら―――)
心で語りかけても、遠くの比叡山にいる智正には届かない。
まだ襲撃を受けた場所から遠くないというのに、逃げ出してから間もないうちに、足が動かなくなってきた。脚に力が入らない。視界も朧になり、朦朧とする。心なしか体は熱く、息が苦しく感じた。
女子どもに手を上げる人間に、ろくな者はいない。
幼い日に、寝かしつけてくれた高僧が聞かせてくれた話である。
第六天魔王は、女にも子どもにも、年寄りにも慈悲の心を持たない。魔王は心が石のように冷え切り、あらん限りの残虐を尽くす。
『お前は強く優しい娘になりなさい』
そう言い聞かされたのも、夕立は鮮明に覚えている。
しかし、いま襲い掛かってきている連中の中には、確かに女もひとり混ざっていた。
―――女の人に、手を上げてはいけない。
―――否、できるなら、あの中の誰の命も、もう奪いたくはない。
恐怖とも、罪悪感とも、偽善ともつかぬものが、夕立の中で渦巻いている。その葛藤が、本来優れているはずの夕立の耳を悪くした。
葛藤に気を取られた夕立の耳には、隠密の足音も、風切りの音も聞こえない。
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