袋鼠
*
信長――もとい清州吉法が人影に突き飛ばされ、藪に突っ込んだのを、夕立は見ていた。
ほんの一瞬の出来事だけに、その瞬間の夕立は、
「吉法さま」
と、呼ぶ暇しかない。
それでも名前を呼んですぐ、吉法のもとへ駆けつけようと夕立は踏みだしていた。
が、
「いかせませぬ」
涼しげな女の声と共に、夕立の視界を黒い一閃が駆け抜ける。
竹を割ったような音を立て、夕立のすぐ横に生えていた木に、見たことの無いものが刺さる。
手のひらほどの大きさで、鉄製の円盤に刃を生やしたようなものだった。どうやら武具らしいことは、言うまでもない。唐突に武具を投げつけられては、夕立も無表情ではいられない。
「え」
小さく息を呑み、僅かに瞠目する。
武具の飛来した方向を見やれば、その先には先刻に尾行してきた追手たちである。
「今度こそは、鼠のように逃げられはいたしませぬ」
先頭に立つ紺の着物の女が、厳格な貌で夕立を威嚇する。
「なぜ私たちを追いかけるのです。私たちは、泥棒さんの欲しいものは持っていないのです」
夕立はいまだに、隠密衆を泥棒と勘違いしている。
それでも、緊迫した状況の中でさえ、表情の薄さゆえに怯えた様子が伺えない夕立が、女の気に障ったらしい。
「盗人と一緒にされては、我らの名も地に落ちまするな」
刹那、女の唸り声と共に、女の背後にいた男連中が飛び出した。
脇差や両刃の短刀を手に、一直線に夕立に襲い掛かる。その様に迷いはない。
迫りくる男の長身と、放たれる異様な殺気に、夕立も気づいたようであった。
地を強く踏みしめるや、軽々と跳躍する。
「なっ」
城壁をも易々と超える忍びさえ、驚愕した。
常人ならぬ業で追手どもを飛び越えると、吉法が吹き飛ばされた方は逆の茂みに身を投じる。
「追いなさい」
逃げる夕立の背後で、女が涼やかに命じた。
背後から、茂みを掻き分ける音がする。
石を蹴飛ばし、蛇を踏みつけ、刃を抜き放つ鋭利な音が、夕立の後ろをついてくる。
走るたびに、ひとつ、またひとつと、突き刺さるような怖気が迸る。顔には出なくとも、夕立の首筋には、ぞくぞくと鳥肌が立った。
夕立が、放たれる殺気に固唾を飲んだその瞬間。
疾走に揺れる黒髪を斬り裂き、夕立の横を黒い一閃が駆け抜けた。
夕立の髪を掠めた手裏剣が、眼前の木の幹へと突き刺さる。
「また」
また飛んで来た。
立ちはだかるが如く飛来した見慣れぬ武具を見て、夕立は咄嗟に立ち止る。
その立ち止った僅かな時間さえ、隠密衆は無駄にしない。餌を撒かれた鯉のように、幾人もの隠密が夕立を取り囲む。
「―――」
夕立は刀の鍔に手をかける。
それを見た隠密の一人が、袂に忍ばせていた苦無を手に取った。いち早く刃を光らせるや、夕立の喉元めがけて凶刃を突き伸ばした。
が、
「ぎゃっ」
男の凶刃が、切り離された腕と共に落ちる。
間髪置かず、一瞬の苦痛にゆがんだ首が宙を舞った。
刀の鍔を触っていただけの夕立はといえば、既に抜刀し、その刀からは新鮮な血が滴っている。目にも留まらぬ業であった。
しかし、切った当人である夕立はと言えば、切り揃えた前髪の奥で、厳めしく眉をしかめている。
そんな夕立のことも、死んだ仲間の事も構わず、隠密衆は次の一手にでる。
無数のミミズが伸びるように、武器を構えた隠密の手が、夕立に向かって伸びた。
四方八方から伸びる刃を、夕立は僅かな時間でも早く伸ばされたものを見極め、刀で弾く。
それでも、キリがなかった。
次から次へと、休む間もなく刃が放たれるのである。
苦無を弾いても、すぐに短刀の刃が伸びてくる。刀を振り回す暇もない。そういったときには、避ける以外にはないのである。しかし、避ければ体勢が崩れ、不利になる。
敵の首を落とす暇など、群れた隠密衆は雀の涙ほどだって与えやしない。
横殴りの斬撃を見切ると、夕立は咄嗟にしゃがみ込み、銀の一閃を回避する。しかし、そのしゃがみ込んだ刹那に、頭上で風を切る音が鳴った。
その音を聞くや、夕立は地に手をつき、転がるように左へ飛び退いた。夕立が立っていた場所を、女の脇差が斬り裂く。毛ほどの時間差もないほどに、夕立も隠密衆もすばしっこい。
消えた夕立に驚くこともなく、たちどころに、また手裏剣が飛来した。弧を描いて襲い来る飛び道具は、逃げ回る子鼠のような夕立にも容赦をしない。
体勢を立て直し、刃の付いた円盤を刀で跳ね返す。
それでも、一斉に放たれたそれを悉く打ち返すことはできない。
「あっ」
口から小さな驚嘆の声が漏れた瞬間、夕立の左腕がかっと熱くなった。
弾ききれなかった手裏剣の刃が、夕立の左腕を掠めたのである。
激痛に歯を食いしばった直後、夕立に耳は、ふっ、と息を吹くような音を捉えた。音と共に、肩口がちくりと痛んだ。
夕立の肩口には、針が刺さっている。
見れば、隠密衆のなかにいた女が、笛をこちらに構えている。針は、あの笛の穴から放たれたのであろう。
夕立を見据えるその眼は、獣のように鋭い。敵を屠ることのみを考えた目である。
その異質な眼は、いかな夕立でも恐怖を覚えたはずだった。
小さな唇をきゅっと結ぶと、夕立は隠密衆に背を向けて韋駄天の如く駆けた。
なぜ金目の物を持っていないのに狙われるのか。
夕立は、血の滲む左腕を押さえて、森の奥へと飛び込んでいった。
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