襲撃
*
山中を必死で逃げるのは、浅井に騙されたとき以来であろうか。
越前の朝倉義景の討伐に向かう折、妹・お市の夫である浅井長政が反旗を翻した。浅井は同盟関係にある織田ではなく朝倉に寝返り、木ノ目峠にて織田軍を挟み撃ちにした。
道が狭く、岩壁に囲まれた峠の中での乱闘である。逃げ延びるのもほうほうの体だった。馬を失い、草鞋が擦り切れてなお、山中を駆けずり回ったことは、何十年を経ても記憶に新しい。
大きな石を踏み越え、小さな石はなるたけ蹴り飛ばす。逃げるのに差し支えぬ程度の障害物は避けようともしない。
「―――」
どこまで来たのかは、覚えていない。朝になってまだ時間が浅いだけに、山中の整備された道は閑散としている。昼にもなれば商人や旅人が行き交うのだろうが、今は兎一匹だっていやしない。
信長はようやく、酷使してきた脚を休ませる。
耳を澄ましてみても、茂みの揺れる葉音は聞こえない。殺気も感じない。
奇跡的に撒くことができたか、それとも、追手の連中が他に優先すべきことでも見つけたか。どちらにせよ、信長の傍には、連中は迫ってきていないようである。
息を切らして歩く信長の後ろでは、汗ひとつかいていない夕立が、涼しげな顔で付いてきている。
「あの方々は誰なのでしょう」
夕立は静々と呟いた。
息の荒れた信長は、答える余裕もない。その実、深い呼吸を繰り返しながら、夕立にどう設営すべきかを考えている。
ただの野盗だ、気にすることはない。そう言うのか。
それとも、「魔王の手先だ」と吹きこめば、夕立は躊躇いもなく連中を斬り殺すだろうか。
如何にすれば夕立の心を操ることができるかを、考えている。
「あれはな―――」
「この間いらっしゃった方のお仲間でしょうか」
信長が口を開いて間もなく、夕立の言葉が割って入る。
「この間、だと」
荒らぐ呼吸を整えながら、信長は問う。
「いつのことだ」
「山の中で火を焚いた時、妙なものをこちらに投げた、泥棒の方がいらっしゃいましたでしょう」
夕立は言いながら、懐から何かを取り出した。
その小さな手に握られていたのは、五寸ばかりの釘のようなものだった。よく見れば黒い鋼の棒は、半分の割合で柄と刃に分かれている。釘というよりも、細長い短刀のようにも見えた。
(棒手手裏剣か)
信長は神妙な顔つきになる。
撒き菱の代用品ともなる平たい手裏剣とは違い、殺傷の目的で苦無や担当に次ぎ使用される、忍びの武具である。
いつぞや、得体の知れぬものが、夜闇に紛れて襲撃してきた、あの日の事を言っているのであろう。後を追いかけようとしたところを、夕立が邪魔をして取り逃がしたのである。
「あの人がお仲間を連れてきたのでしょうか」
夕立の声が、妙に落ちている。
あの日、自分が信長を止めたことを悔いているのか。温情で逃がした者が、再び襲撃に来たことへの悲しみか。
(だから逃がしてはならぬと言ったろうに)
思わずそう言いかける。
それでも、喉から出かかった言葉を、信長は呑みこんだ。
過ぎたことをぶり返して、いつまでもねちねちと怒っていては、それこそ度量の低い年寄りになってしまう。なにより、悲しげな声を聞いていると、柄にもなく、追い打ちをかけて怒ってはならぬと思えてくるのだった。
天下の武将たるものが小娘を相手に折れるなど、面目丸つぶれもいいところである。
それでも、かの織田信長とはいえ、今は落ちぶれた身でしかない。不本意な妥協と許容も、一種の生きる術である。
「見せてみろ」
信長は夕立から、棒手手裏剣を受け取る。
まじまじと顔を近づけて凝視するが、これといって臭いはしない。忍びのものはが使う武具は、その多くが、より確実に相手を死に至らしめるため、猛毒が施されている。
信長の育った清州の野山にも、根から強力な毒が取れる花が自生していた。旅をしていても毒はかんたんに手に入るのだろう。
忍の武具を音も立てす、真っすぐに投げてくるということは、相手もそんじょそこらの安い下人ではないと見える。
あの日の曲者が、追手の連中の仲間であるとすれば、信長の存在は、数日前から確認されていたということになる。
自分がいつ、寝首を掻き斬られてもおかしくない状況だった―――。
十年も二十年も前に遡れば、信長は下女に化けた隠密にも気づいて斬り殺すほど、敏感であった。今では隠密が自分の傍に来るまでは気が付けないほど、劣化している。
隠密の存在よりも、自分が衰えていくことに、恐怖を感じたのは言うまでもない。
信長は手にした棒手裏剣を夕立に渡しながら、
「どちらにせよ、斯様なものを投げてくるのならば、ただの盗人ではない。用心して構えろ」
と、言った。
「ただの泥棒でなければ、何なのでしょう」
信長の言葉に、夕立は追及する。
夕立の中には、突然襲ってくる人物に該当する者が『泥棒』以外にいないらしい。
「あのな夕立、あの連中は」
盗人とは違うのだ。
そう言いかけた刹那、信長の長身が横殴りに吹き飛んだ。
「っ」
右半身の、特に脇腹にかけて、強い衝撃が走る。
何者かが、当て身を食らわせたのである。
茂みを突き破って、信長の長い身体が車輪のように転がった。目が回る。ほどなくして、叩きつけられた体に鈍痛が滲む。
「吉法さま」
遠くで、夕立の声がする。
しかし、夕立がこちらへ向かってくる足音はしなかった。
(何をしておる)
ちっとも助けに来ない夕立に、信長は痺れを切らして上体を起こした。
瞬間、その視界を、黒い影が掠める。間髪入れず、ふたつの手が信長の肩を掴み、強く地面に押し倒した。
「うっ」
地面に叩きつけられ、頭を打つ。
その痛みに目を強く瞑る。再び瞼を開けた時には、目と鼻の先に女の顔があった。
否―――女の顔のようだったが、その首には喉仏がある。女のような美貌だが、れっきとした男であった。
「気が付かなかったろう。僕ほどになると、忍びというものは殺気をも消す」
信長に覆いかぶさった男は、不敵に花唇を吊り上げる。
「あんた、信長でしょう」
確認よりも確定の色を孕んだ言葉が降り注ぐ。
「本能寺の変から四年間、ずっと探し回っていたよ。会えてうれしい」
自らを忍びと名乗るその男は、忍びの癖に顔を隠していない。そのくせ、
「あんたを殺すまでの四年間、時間も金もかかったよ。それでも、主があんたの首にかけた褒美の高は、それを凌駕するほどに素晴らしい」
「―――」
「僕らからしてみれば、軍も持たない年寄り一人殺せばいい。城でお館の傍に居なくていいし、銭もたんと入る、おいしい仕事さ」
本来の寡黙な印象のとはかけ離れて、この忍びはよく喋る。
信長ひとり殺すためだけに四年間も働いていた隠密なのだから、さぞや主への忠義に篤いのかと思いきや、そういうわけでもないらしい。美しい口から零れ落ちるのは、人命をも凌駕する金への価値観と、主への薄情な言葉であった。
「誰の差し向けだ」
信長は隠密の眼を睨み据え、問う。
「それを言っちゃあ、さすがの僕でも怒られちゃうよ」
忍びは花開くような微笑みを見せる。
「けれど、名前だけは教えてあげる。僕は御影という」
忍びはそう名乗った。
悠々と腰帯から提げていた短刀を抜き放つや、その切っ先を信長の目先にちらつかせる。
「本当は、僕の下部の手によって、無様に散らせてあげたかったけど、今の僕にはそんな余裕もない。今すぐに、あんたを消さなければ収まらない」
「忍びのものと言うのは、金に汚い銭阿呆だというな。一刻も早く万金を手にしたいと、自ら俺を殺しに来たか」
信長が言ってやると、隠密の御影はしばし、口をつぐんだ。
「―――万金なんてものは、その実、あんたを殺さなくたっていくらでも手に入る。お館はお金持ちだからね」
言い募ると、途端に、御影の顔から笑顔が消えた。
優し気だった眼の中に、刃先のように研ぎ澄まされた殺気が宿る。
「金はあくまで二の次さ。僕があんたを殺したいのには、仕事でもあり、私情でもある」
「なに」
「僕の愛する人と、親しいあんたが許せない」
「何を言っている」
「彼女の中で、僕より高位の存在として、あんたが君臨しているのが憎たらしい」
意味の分からぬ事をぬかす忍びである。
しかし、蘭丸が消えてからというもの、共に行動をしていたのは夕立しかいない。彼女、とは、夕立のことを指しているのであろう。
「夕立の知り合いか」
「ああ、そうとも」
いつから顔見知りであったかは定かでないにしろ、この男は夕立と顔見知りであるらしい。
この御影という男の、眼に浮かんだ憎悪は、今まで感じたことがなかった。
轟々と燃え盛る炎というよりも、渦巻く沼の底のように重く、粘りつく怖気を感じる。
「そうやって呼び捨てにできることでさえ、僕があんたを妬ましく思う材料になる。僕は、あんたを殺して彼女を取り戻す」
御影は言うや、その短刀を振り下ろした。
嫉妬に狂った凶刃が、風を切って走り抜ける。
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