襲撃



 山中を必死で逃げるのは、浅井に騙されたとき以来であろうか。

 越前の朝倉義景の討伐に向かう折、妹・お市の夫である浅井長政が反旗を翻した。浅井は同盟関係にある織田ではなく朝倉に寝返り、木ノ目峠にて織田軍を挟み撃ちにした。

 道が狭く、岩壁に囲まれた峠の中での乱闘である。逃げ延びるのもほうほうの体だった。馬を失い、草鞋が擦り切れてなお、山中を駆けずり回ったことは、何十年を経ても記憶に新しい。

 大きな石を踏み越え、小さな石はなるたけ蹴り飛ばす。逃げるのに差し支えぬ程度の障害物は避けようともしない。

「―――」

 どこまで来たのかは、覚えていない。朝になってまだ時間が浅いだけに、山中の整備された道は閑散としている。昼にもなれば商人や旅人が行き交うのだろうが、今は兎一匹だっていやしない。

 信長はようやく、酷使してきた脚を休ませる。

 耳を澄ましてみても、茂みの揺れる葉音は聞こえない。殺気も感じない。

 奇跡的に撒くことができたか、それとも、追手の連中が他に優先すべきことでも見つけたか。どちらにせよ、信長の傍には、連中は迫ってきていないようである。

 息を切らして歩く信長の後ろでは、汗ひとつかいていない夕立が、涼しげな顔で付いてきている。

「あの方々は誰なのでしょう」

 夕立は静々と呟いた。

 息の荒れた信長は、答える余裕もない。その実、深い呼吸を繰り返しながら、夕立にどう設営すべきかを考えている。

 ただの野盗だ、気にすることはない。そう言うのか。

 それとも、「魔王の手先だ」と吹きこめば、夕立は躊躇いもなく連中を斬り殺すだろうか。

 如何にすれば夕立の心を操ることができるかを、考えている。

「あれはな―――」

「この間いらっしゃった方のお仲間でしょうか」

 信長が口を開いて間もなく、夕立の言葉が割って入る。

「この間、だと」

 荒らぐ呼吸を整えながら、信長は問う。

「いつのことだ」

「山の中で火を焚いた時、妙なものをこちらに投げた、泥棒の方がいらっしゃいましたでしょう」

 夕立は言いながら、懐から何かを取り出した。

 その小さな手に握られていたのは、五寸ばかりの釘のようなものだった。よく見れば黒い鋼の棒は、半分の割合で柄と刃に分かれている。釘というよりも、細長い短刀のようにも見えた。

(棒手手裏剣か)

 信長は神妙な顔つきになる。

 撒き菱の代用品ともなる平たい手裏剣とは違い、殺傷の目的で苦無や担当に次ぎ使用される、忍びの武具である。

 いつぞや、得体の知れぬものが、夜闇に紛れて襲撃してきた、あの日の事を言っているのであろう。後を追いかけようとしたところを、夕立が邪魔をして取り逃がしたのである。

「あの人がお仲間を連れてきたのでしょうか」

 夕立の声が、妙に落ちている。

 あの日、自分が信長を止めたことを悔いているのか。温情で逃がした者が、再び襲撃に来たことへの悲しみか。

(だから逃がしてはならぬと言ったろうに)

 思わずそう言いかける。

 それでも、喉から出かかった言葉を、信長は呑みこんだ。

 過ぎたことをぶり返して、いつまでもねちねちと怒っていては、それこそ度量の低い年寄りになってしまう。なにより、悲しげな声を聞いていると、柄にもなく、追い打ちをかけて怒ってはならぬと思えてくるのだった。

 天下の武将たるものが小娘を相手に折れるなど、面目丸つぶれもいいところである。

 それでも、かの織田信長とはいえ、今は落ちぶれた身でしかない。不本意な妥協と許容も、一種の生きる術である。

「見せてみろ」

 信長は夕立から、棒手手裏剣を受け取る。

 まじまじと顔を近づけて凝視するが、これといって臭いはしない。忍びのものはが使う武具は、その多くが、より確実に相手を死に至らしめるため、猛毒が施されている。

 信長の育った清州の野山にも、根から強力な毒が取れる花が自生していた。旅をしていても毒はかんたんに手に入るのだろう。

 忍の武具を音も立てす、真っすぐに投げてくるということは、相手もそんじょそこらの安い下人ではないと見える。

 あの日の曲者が、追手の連中の仲間であるとすれば、信長の存在は、数日前から確認されていたということになる。

 自分がいつ、寝首を掻き斬られてもおかしくない状況だった―――。

 十年も二十年も前に遡れば、信長は下女に化けた隠密にも気づいて斬り殺すほど、敏感であった。今では隠密が自分の傍に来るまでは気が付けないほど、劣化している。

 隠密の存在よりも、自分が衰えていくことに、恐怖を感じたのは言うまでもない。

 信長は手にした棒手裏剣を夕立に渡しながら、

「どちらにせよ、斯様なものを投げてくるのならば、ただの盗人ではない。用心して構えろ」

 と、言った。

「ただの泥棒でなければ、何なのでしょう」

 信長の言葉に、夕立は追及する。

 夕立の中には、突然襲ってくる人物に該当する者が『泥棒』以外にいないらしい。

「あのな夕立、あの連中は」

 盗人とは違うのだ。

 そう言いかけた刹那、信長の長身が横殴りに吹き飛んだ。

「っ」

 右半身の、特に脇腹にかけて、強い衝撃が走る。

 何者かが、当て身を食らわせたのである。

 茂みを突き破って、信長の長い身体が車輪のように転がった。目が回る。ほどなくして、叩きつけられた体に鈍痛が滲む。

「吉法さま」

 遠くで、夕立の声がする。

 しかし、夕立がこちらへ向かってくる足音はしなかった。

(何をしておる)

 ちっとも助けに来ない夕立に、信長は痺れを切らして上体を起こした。

 瞬間、その視界を、黒い影が掠める。間髪入れず、ふたつの手が信長の肩を掴み、強く地面に押し倒した。

「うっ」

 地面に叩きつけられ、頭を打つ。

 その痛みに目を強く瞑る。再び瞼を開けた時には、目と鼻の先に女の顔があった。

 否―――女の顔のようだったが、その首には喉仏がある。女のような美貌だが、れっきとした男であった。

「気が付かなかったろう。僕ほどになると、忍びというものは殺気をも消す」

信長に覆いかぶさった男は、不敵に花唇を吊り上げる。

「あんた、信長でしょう」

 確認よりも確定の色を孕んだ言葉が降り注ぐ。

「本能寺の変から四年間、ずっと探し回っていたよ。会えてうれしい」

 自らを忍びと名乗るその男は、忍びの癖に顔を隠していない。そのくせ、

「あんたを殺すまでの四年間、時間も金もかかったよ。それでも、主があんたの首にかけた褒美の高は、それを凌駕するほどに素晴らしい」

「―――」

「僕らからしてみれば、軍も持たない年寄り一人殺せばいい。城でお館の傍に居なくていいし、銭もたんと入る、おいしい仕事さ」

 本来の寡黙な印象のとはかけ離れて、この忍びはよく喋る。

 信長ひとり殺すためだけに四年間も働いていた隠密なのだから、さぞや主への忠義に篤いのかと思いきや、そういうわけでもないらしい。美しい口から零れ落ちるのは、人命をも凌駕する金への価値観と、主への薄情な言葉であった。

「誰の差し向けだ」

 信長は隠密の眼を睨み据え、問う。

「それを言っちゃあ、さすがの僕でも怒られちゃうよ」

 忍びは花開くような微笑みを見せる。

「けれど、名前だけは教えてあげる。僕は御影という」

 忍びはそう名乗った。

 悠々と腰帯から提げていた短刀を抜き放つや、その切っ先を信長の目先にちらつかせる。

「本当は、僕の下部の手によって、無様に散らせてあげたかったけど、今の僕にはそんな余裕もない。今すぐに、あんたを消さなければ収まらない」

「忍びのものと言うのは、金に汚い銭阿呆だというな。一刻も早く万金を手にしたいと、自ら俺を殺しに来たか」

 信長が言ってやると、隠密の御影はしばし、口をつぐんだ。

「―――万金なんてものは、その実、あんたを殺さなくたっていくらでも手に入る。お館はお金持ちだからね」

 言い募ると、途端に、御影の顔から笑顔が消えた。

 優し気だった眼の中に、刃先のように研ぎ澄まされた殺気が宿る。

「金はあくまで二の次さ。僕があんたを殺したいのには、仕事でもあり、私情でもある」

「なに」

「僕の愛する人と、親しいあんたが許せない」

「何を言っている」

「彼女の中で、僕より高位の存在として、あんたが君臨しているのが憎たらしい」

 意味の分からぬ事をぬかす忍びである。

 しかし、蘭丸が消えてからというもの、共に行動をしていたのは夕立しかいない。彼女、とは、夕立のことを指しているのであろう。

「夕立の知り合いか」

「ああ、そうとも」

 いつから顔見知りであったかは定かでないにしろ、この男は夕立と顔見知りであるらしい。

 この御影という男の、眼に浮かんだ憎悪は、今まで感じたことがなかった。

 轟々と燃え盛る炎というよりも、渦巻く沼の底のように重く、粘りつく怖気を感じる。

「そうやって呼び捨てにできることでさえ、僕があんたを妬ましく思う材料になる。僕は、あんたを殺して彼女を取り戻す」

 御影は言うや、その短刀を振り下ろした。

 嫉妬に狂った凶刃が、風を切って走り抜ける。



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