愛奪
*
*
夕立の手が離れた刹那に、それは見えた。
夕立の肩を透かして見えた、一間ばかり先の人ごみの中。
人の影と揺れる波の中で、ただひとつ、佇む者の姿が見えた。頭に手拭いを巻いた、一見すればどこにでもいる商人である。しかし、その手拭いの影から、てらてらと光る鋭敏な眼が見えた。その瞳は一糸乱れず、信長を射貫いている。
―――対峙した。
そう感じるのに、時間はかからない。
単純に目が合った、といってしまえば、それまでである。
しかし、それにしてはあまりにも、凝視しすぎている。まるで、川面に立つ鷺が、水流を泳ぐ山女魚を狙うように。
その刹那、商人の唇が動いた。
何を言っているのかは、聞こえない。唇の動きが小さすぎて、読唇もできない。ただ遠巻きに―――ほそほそ―――と、細波のような声が、耳に滑り込んできた。
するとどこからともなく、商人と同じ手拭いを被った者が数人、商人のもとへと寄り集まってきた。
このような現象は、信長の記憶の中にも覚えがある。
忍び隠密の類は、他人に聞かれぬほどに小さな声で、仲間とやり取りをする術を持っているという話を、耳にした事があった。今起こったことは、話に聞いた術とやらに一致する。
群れた手拭いの一団は、信長の目を見据えた商人を先頭に、こちらへと足を踏み出した。
(いかん)
信長の予感が警鐘を鳴らす。
怪しげな術を使う商人が、信長と目が合った瞬間、似たような人間を招集し、こちらへ向かってくる。
その眼差しから波打って伝わる殺気が、信長を突き動かした。
―――信長の恐れていた事態が、起きている。
それを感じると、信長はすぐに夕立の手首を強く掴むや、踵を返した。
「急げ夕立、死ぬ気で、早く歩け」
「どうしたのですか」
「今は聞くな、来い」
信長は、自分の後ろをついてくる足音に耳をそばだてながら、大股で歩いた。
―――どこぞの大名が、信長の生存を知って、隠密を遣わした。
本能寺から骸が見つからなければ、何者かが真実に行き着くのも時間の問題である。いつかは、それに気付いた者が刺客を放つであろう。そんな予想はついていた。
しかし、この日ノ本のどこに居るかも分らぬであろう信長の居場所を、どうやって突き止めたというのか。
忍びともなれば、足抜けした下人を地の果てまで追いつめて殺すという。人を探す事など造作もないのかもしれない。どちらにせよ、彼らを撒くことはできないのは明確だった。
夕立を戦わせるにも、ここには人目があり過ぎる。
流血騒ぎを起こせば、かえって注目を集めてしまう。もっと人のいない、閑散とした場所に映る必要があった。
「あのう、吉法さま」
信長の足並みについて歩きながら、夕立は様子を窺ったように小さな声で話す。
「今はしゃべるな、後で……」
「後を付けられています」
「そ奴らから逃げとるんだ」
「ぴりぴりするのです」
夕立の言うことは、煙のように掴みどころがない。しかしその言葉の語呂を噛み砕いて考えてみれば、夕立が何を訴えているのかは想起できた。
―――殺気を感じる。
それに近いことを訴えているのであろう。
できるだけ道幅の広い大路を、山の緑が色がる南の方角へと南下する。
止まることのない背後の足音に耳を澄ます。
その時、斜め右前で屯し、声を上げて談笑する女たちの群れが視界に入る。女たちの真横を通り抜けた瞬間に右手を見やれば、そこには細い脇道が通っている。
(しめた)
信長は爪先で地面をにじると、方向を変えて脇道に飛び込んだ。その刹那に、ゆるく巻かれた女の腰帯を思い切り引く。
「ひえ」
腰の締め付けを失ったのを感じるや、女は着物の裾を押さえて、夕立が通った直後の脇道に飛び込む。
いそいそと、ほどけた帯を締め直す女を背に、信長は夕立の足音に耳をそばだてながら走った。ほどなくして、あの女の小さな悲鳴が上がる。
「きゃっ」
声が上がるとともに、絹や膝小僧が地面を擦る音がした。
何者かに突き飛ばされたようである。
誰にそうされたのかは言うまでもない。
(撒けるか)
信長の首筋には、びっしりと鳥肌が立っている。
あの大路で見ただけでも、怪しい人影の数は五つあった。少なくとも、追手が五人以上はいるということになる。それだけの人数が早足で歩けば、常人であれば、嫌でも足音が立つ。それなのに、信長に伝わってくるのは強烈な殺気ばかりで、背後では夕立以外の足音が聞こえないのである。
足音を立てぬ者に、堅気の人間はいない―――。
追手が、隠密稼業に手を染めている者であるということは明白である。
「夕立、先に行け」
信長は強引に夕立の手を引いて、先頭に投げ出すと、すぐ脇に立てかけられていた竹垣を横殴りに倒す。
長身の信長すらも超える竹垣が、追手の行く手を阻むように狭い道を塞いだ。
隠密稼業を生業とする人間と言えば、限られてくる。代表格として、伊賀者だの甲賀者だのというものは、八尺ある壁をも難なく超えられるという。この程度の妨害で怯むはずもない。
それでも、信長には、隠密どもが「竹垣を超えるのに要するわずかな時間」さえも必要なのだった。
竹垣に道をふさがれた追手の姿には目もくれず、信長は眼前を走る夕立の隣に並んだ。
「次の辻を左に曲がれ」
夕立の傍でそう囁くと、目先に見える開けた辻路まで、一直線に駆けた。
追手を遣わした、顔も分からぬ家臣の名を思い起こしながら。
*
下部の隠密どもが、信長を取り逃がした。
商家の屋根の上から、その様子を眺めていた御影は、呆れとも諦めともつかぬ溜め息を溢す。
幼き日から、死と隣り合わせの鍛錬を積んだ伊賀者とあろうものが、老いた虎一匹も狩れぬとは情けない。
「……」
竹垣を飛び越え、その後を追いかけたが、下部たちが辻を曲がったころには、既に信長と少女は別の辻を曲がり、下部たちの視界から完全に姿を消していた。
相手が老いぼれと子どもだと思って甘く見た、慢心によるものか。
それとも、豊臣家に救われてからというものの金欲が鈍り、以前よりも仕事に対して貪欲にならなくなったからか。
どちらにしても、下部たちは信長を取り逃がしたのである。
御影は珍しく、穏やかな眉を厳かに顰め、険悪な面構えをしていた。
下部どもが下らぬ失敗をしたからではない。
僅かにでもみじめな死に方をさせてやろうとして、あえて自分ではなく下部を向かわせた、己の間違いに憤っている。そして、信長を取り逃がしたことへの、激しい怒りを感じていた。
「信長めは、市から北方の山中へ逃げ込んだようにございます」
偵察を任せていた下部の一人が、すぐ脇でそう告げる。
「分かった……ありがとう」
御影は剣呑な顔立ちで威ながらも、穏やかな声色で言った。
次は、自らの手で殺してやる―――。
御影の怒りなるものは、軒並み外れていた。
元々、伊賀の国の栄華に終止符を打ち、その国の住人を幾千、幾万と虐殺したのは信長である。伊賀者どもの織田家への憎悪は、計り知れない。それでも、伊賀攻めの事に関しては、御影は大して気にも留めていなかった。どれだけ伊賀者が天下に名を馳せようと、仕事をする下人の懐に転がり込むのは僅かな銭ばかり。仕事をした下人の稼ぎは、多くが地侍や上忍が搾取している。
ゆえに、御影にとっては、金をけちるような国などどうでもよい。むしろ伊賀が潰れたことによって、御影は『足抜け』と成ることなく、金持ちの大名に仕えることができたのである。
それだけあって、信長に恨みを持つ下部どもとは違い、御影は何の感慨もなかった。ただ、「彼ももう終いだな」―――まるで涼風を身に受け、夏の終わりを感じるかのように、そう思った程度である。
しかし、御影の中で感情が一転したのは、つい昨晩から今日にかけての事。
かつて、どこぞの山中で出会った、あの夕立という少女が、見てみれば標的である信長と行動を共にしているではないか。
それも随分と親しげに話をし、夕立はわずかながら口元に笑みを浮かべている。眼光で人を射竦めると称された信長も、心なしか棘のない面差しである。
町の中で飯を食い、歩き、隠れ家のように粗末な宿に入っていったのも見た。
以前より、信長と行動を共にしている娘がいるとは聞いていた。偵察に出していた者が言うには、華奢ながら打刀を軽々と振り、放った棒手手裏剣を弾きかえすほどの優れた腕の持ち主であると。
しかし、この目で見るまでは、それが夕立であるとは思いもしない。
愛した娘が、自分でない男と楽しげにしている―――。
それが分かると、御影の背筋に、雷鳴のような衝撃がほとばしった。波一つ立たぬ平らな水面のようだった御影の心の内が、これほどまでに掻き乱されたことはない。
信長も夕立を「夕」と呼び、その様はまるで可愛がっているようにも見えた。
その刹那、御影は自らの心の内に、山水が湧き出るような感覚を覚えたのである。
愛する夕立と、親しくしているあの男が憎い。
その時初めて、御影は憎悪というものを感じたのである。
憎悪、という感情は、金欲や肉欲などよりもずっと激しく、重く、苦しい。
喉を塞ぐような圧迫感、先手を取られた悲壮、愛した人に気安く触れる男への殺意。
重々しい怨嗟が、御影の腹の中でひしめいた。
“彼女は、僕のだぞ―――。”
端正に並んだ白い歯が、ぎりりと激しく軋んだ。
このままあの男を生かしておけば、いずれ夕立を奪われてしまうかもしれない。否、もう奪われているかもしれない。そう思うと、それまで何とも思わなかった男の存在が、瞬く間に目障りになった。
愛した人を奪い返すには、信長を始末するのが手っ取り早い。
夜が明けることにはすでに、御影の心は嫉妬に満ち満ちているのだった。
男女が嫉妬に狂い、刃傷沙汰を起こすのは、なにも珍しい話ではない。しかしそれまでの御影にしてみれば、全く共感できない話だったのである。
が、こうして他人を激しく嫉むと、その「くだらない話」も理解ができるように思えるのだった。
嫉妬というものはえてして、人を狂わせるものらしい。
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