愛奪




 夕立の手が離れた刹那に、それは見えた。

 夕立の肩を透かして見えた、一間ばかり先の人ごみの中。

 人の影と揺れる波の中で、ただひとつ、佇む者の姿が見えた。頭に手拭いを巻いた、一見すればどこにでもいる商人である。しかし、その手拭いの影から、てらてらと光る鋭敏な眼が見えた。その瞳は一糸乱れず、信長を射貫いている。

 ―――対峙した。

 そう感じるのに、時間はかからない。

 単純に目が合った、といってしまえば、それまでである。 

 しかし、それにしてはあまりにも、凝視しすぎている。まるで、川面に立つ鷺が、水流を泳ぐ山女魚を狙うように。

 その刹那、商人の唇が動いた。

 何を言っているのかは、聞こえない。唇の動きが小さすぎて、読唇もできない。ただ遠巻きに―――ほそほそ―――と、細波のような声が、耳に滑り込んできた。

 するとどこからともなく、商人と同じ手拭いを被った者が数人、商人のもとへと寄り集まってきた。

 このような現象は、信長の記憶の中にも覚えがある。

 忍び隠密の類は、他人に聞かれぬほどに小さな声で、仲間とやり取りをする術を持っているという話を、耳にした事があった。今起こったことは、話に聞いた術とやらに一致する。

 群れた手拭いの一団は、信長の目を見据えた商人を先頭に、こちらへと足を踏み出した。

(いかん)

 信長の予感が警鐘を鳴らす。

 怪しげな術を使う商人が、信長と目が合った瞬間、似たような人間を招集し、こちらへ向かってくる。

 その眼差しから波打って伝わる殺気が、信長を突き動かした。

 ―――信長の恐れていた事態が、起きている。

 それを感じると、信長はすぐに夕立の手首を強く掴むや、踵を返した。

「急げ夕立、死ぬ気で、早く歩け」

「どうしたのですか」

「今は聞くな、来い」

 信長は、自分の後ろをついてくる足音に耳をそばだてながら、大股で歩いた。

―――どこぞの大名が、信長の生存を知って、隠密を遣わした。

 本能寺から骸が見つからなければ、何者かが真実に行き着くのも時間の問題である。いつかは、それに気付いた者が刺客を放つであろう。そんな予想はついていた。

 しかし、この日ノ本のどこに居るかも分らぬであろう信長の居場所を、どうやって突き止めたというのか。

 忍びともなれば、足抜けした下人を地の果てまで追いつめて殺すという。人を探す事など造作もないのかもしれない。どちらにせよ、彼らを撒くことはできないのは明確だった。

 夕立を戦わせるにも、ここには人目があり過ぎる。

 流血騒ぎを起こせば、かえって注目を集めてしまう。もっと人のいない、閑散とした場所に映る必要があった。

「あのう、吉法さま」

 信長の足並みについて歩きながら、夕立は様子を窺ったように小さな声で話す。

「今はしゃべるな、後で……」

「後を付けられています」

「そ奴らから逃げとるんだ」

「ぴりぴりするのです」

 夕立の言うことは、煙のように掴みどころがない。しかしその言葉の語呂を噛み砕いて考えてみれば、夕立が何を訴えているのかは想起できた。

―――殺気を感じる。

 それに近いことを訴えているのであろう。

できるだけ道幅の広い大路を、山の緑が色がる南の方角へと南下する。

止まることのない背後の足音に耳を澄ます。

その時、斜め右前で屯し、声を上げて談笑する女たちの群れが視界に入る。女たちの真横を通り抜けた瞬間に右手を見やれば、そこには細い脇道が通っている。

(しめた)

 信長は爪先で地面をにじると、方向を変えて脇道に飛び込んだ。その刹那に、ゆるく巻かれた女の腰帯を思い切り引く。

「ひえ」

 腰の締め付けを失ったのを感じるや、女は着物の裾を押さえて、夕立が通った直後の脇道に飛び込む。

 いそいそと、ほどけた帯を締め直す女を背に、信長は夕立の足音に耳をそばだてながら走った。ほどなくして、あの女の小さな悲鳴が上がる。

「きゃっ」

 声が上がるとともに、絹や膝小僧が地面を擦る音がした。

 何者かに突き飛ばされたようである。

 誰にそうされたのかは言うまでもない。

(撒けるか)

 信長の首筋には、びっしりと鳥肌が立っている。

 あの大路で見ただけでも、怪しい人影の数は五つあった。少なくとも、追手が五人以上はいるということになる。それだけの人数が早足で歩けば、常人であれば、嫌でも足音が立つ。それなのに、信長に伝わってくるのは強烈な殺気ばかりで、背後では夕立以外の足音が聞こえないのである。

 足音を立てぬ者に、堅気の人間はいない―――。

 追手が、隠密稼業に手を染めている者であるということは明白である。

「夕立、先に行け」

 信長は強引に夕立の手を引いて、先頭に投げ出すと、すぐ脇に立てかけられていた竹垣を横殴りに倒す。

 長身の信長すらも超える竹垣が、追手の行く手を阻むように狭い道を塞いだ。

 隠密稼業を生業とする人間と言えば、限られてくる。代表格として、伊賀者だの甲賀者だのというものは、八尺ある壁をも難なく超えられるという。この程度の妨害で怯むはずもない。

 それでも、信長には、隠密どもが「竹垣を超えるのに要するわずかな時間」さえも必要なのだった。

 竹垣に道をふさがれた追手の姿には目もくれず、信長は眼前を走る夕立の隣に並んだ。

「次の辻を左に曲がれ」

 夕立の傍でそう囁くと、目先に見える開けた辻路まで、一直線に駆けた。

 追手を遣わした、顔も分からぬ家臣の名を思い起こしながら。

 *

 下部の隠密どもが、信長を取り逃がした。

 商家の屋根の上から、その様子を眺めていた御影は、呆れとも諦めともつかぬ溜め息を溢す。

 幼き日から、死と隣り合わせの鍛錬を積んだ伊賀者とあろうものが、老いた虎一匹も狩れぬとは情けない。

「……」

 竹垣を飛び越え、その後を追いかけたが、下部たちが辻を曲がったころには、既に信長と少女は別の辻を曲がり、下部たちの視界から完全に姿を消していた。

 相手が老いぼれと子どもだと思って甘く見た、慢心によるものか。

 それとも、豊臣家に救われてからというものの金欲が鈍り、以前よりも仕事に対して貪欲にならなくなったからか。

 どちらにしても、下部たちは信長を取り逃がしたのである。

 御影は珍しく、穏やかな眉を厳かに顰め、険悪な面構えをしていた。

 下部どもが下らぬ失敗をしたからではない。

 僅かにでもみじめな死に方をさせてやろうとして、あえて自分ではなく下部を向かわせた、己の間違いに憤っている。そして、信長を取り逃がしたことへの、激しい怒りを感じていた。

「信長めは、市から北方の山中へ逃げ込んだようにございます」

 偵察を任せていた下部の一人が、すぐ脇でそう告げる。

「分かった……ありがとう」

 御影は剣呑な顔立ちで威ながらも、穏やかな声色で言った。

 次は、自らの手で殺してやる―――。

 御影の怒りなるものは、軒並み外れていた。

 元々、伊賀の国の栄華に終止符を打ち、その国の住人を幾千、幾万と虐殺したのは信長である。伊賀者どもの織田家への憎悪は、計り知れない。それでも、伊賀攻めの事に関しては、御影は大して気にも留めていなかった。どれだけ伊賀者が天下に名を馳せようと、仕事をする下人の懐に転がり込むのは僅かな銭ばかり。仕事をした下人の稼ぎは、多くが地侍や上忍が搾取している。

 ゆえに、御影にとっては、金をけちるような国などどうでもよい。むしろ伊賀が潰れたことによって、御影は『足抜け』と成ることなく、金持ちの大名に仕えることができたのである。

 それだけあって、信長に恨みを持つ下部どもとは違い、御影は何の感慨もなかった。ただ、「彼ももう終いだな」―――まるで涼風を身に受け、夏の終わりを感じるかのように、そう思った程度である。

 しかし、御影の中で感情が一転したのは、つい昨晩から今日にかけての事。

 かつて、どこぞの山中で出会った、あの夕立という少女が、見てみれば標的である信長と行動を共にしているではないか。

 それも随分と親しげに話をし、夕立はわずかながら口元に笑みを浮かべている。眼光で人を射竦めると称された信長も、心なしか棘のない面差しである。

 町の中で飯を食い、歩き、隠れ家のように粗末な宿に入っていったのも見た。

 以前より、信長と行動を共にしている娘がいるとは聞いていた。偵察に出していた者が言うには、華奢ながら打刀を軽々と振り、放った棒手手裏剣を弾きかえすほどの優れた腕の持ち主であると。

 しかし、この目で見るまでは、それが夕立であるとは思いもしない。

 愛した娘が、自分でない男と楽しげにしている―――。

 それが分かると、御影の背筋に、雷鳴のような衝撃がほとばしった。波一つ立たぬ平らな水面のようだった御影の心の内が、これほどまでに掻き乱されたことはない。

 信長も夕立を「夕」と呼び、その様はまるで可愛がっているようにも見えた。

 その刹那、御影は自らの心の内に、山水が湧き出るような感覚を覚えたのである。

 愛する夕立と、親しくしているあの男が憎い。

 その時初めて、御影は憎悪というものを感じたのである。

 憎悪、という感情は、金欲や肉欲などよりもずっと激しく、重く、苦しい。

 喉を塞ぐような圧迫感、先手を取られた悲壮、愛した人に気安く触れる男への殺意。

 重々しい怨嗟が、御影の腹の中でひしめいた。

 “彼女は、僕のだぞ―――。”

 端正に並んだ白い歯が、ぎりりと激しく軋んだ。

 このままあの男を生かしておけば、いずれ夕立を奪われてしまうかもしれない。否、もう奪われているかもしれない。そう思うと、それまで何とも思わなかった男の存在が、瞬く間に目障りになった。

 愛した人を奪い返すには、信長を始末するのが手っ取り早い。

 夜が明けることにはすでに、御影の心は嫉妬に満ち満ちているのだった。

 男女が嫉妬に狂い、刃傷沙汰を起こすのは、なにも珍しい話ではない。しかしそれまでの御影にしてみれば、全く共感できない話だったのである。 

 が、こうして他人を激しく嫉むと、その「くだらない話」も理解ができるように思えるのだった。

 嫉妬というものはえてして、人を狂わせるものらしい。

 *



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