【或る坊主の話】
【或る坊主の話】
あの日、比叡山を覆うように燃え盛っていた炎は、織田軍が去った後の豪雨によって掻き消された。
しかし、火が消えたとしても後の祭り。
そこら中に、惨殺された僧や女子どもの骸が転がっていた。煙と臓物の臭いが混じり、それは異様な腐臭が漂っているのである。
「―――」
死体の山が連なる中を、よろよろと歩く僧兵がひとり。それはまだ、寺稚児とも見紛う若い僧であった。
この僧の名を、智正という。
幾年も前に僧の道を志してからというもの、日々敬虔に仏を慕い、修行に励んでいた。しかし、そんな智正の姿とは反対に、延暦寺の僧の半数は、酒池肉林に溺れ、朝廷や武家から奪い取った金を湯水のように使う連中であった。
いずれは誰かの手で、彼らに制裁が下るであろう―――。
耐えかねた武士が延暦寺を攻めるのも、智正には想定ができなかったわけではない。
ただ、ここまでもする必要はなかったはずである。
ある者は四肢を切り落とされ、ある者は背中に幾本もの矢を受け、ある者は腹の中の胎児を取り出したうえで、胎児もろとも殺している。
どのような恨みがあれば、罪のない者までをも、惨たらしく殺せるのか。
智正はその場に伏し、ただ己の無力と、凄惨な光景に打ちひしがれるのだった。延暦寺を守ろうと、自らも薙刀を手に取り戦ったが、万を超える織田軍の兵力を凌駕する力など毛頭ない。
結局、延暦寺に逃げ込んだ人々を守ることができなかったうえ、自分だけが生き残ってしまった。
筆舌しがたく、想像を絶する苦しみの中で死んでいった者たちの事を考えると、ただ生き残ったことが罪深く感じられた。
自分がもっと早くに、この腐敗した寺の現状を良くしようと働きかけていれば、焼き討ちなどされなかったかもしれぬ。後から襲い来るのは後悔ばかりで、慟哭のような大雨が、智正の衣を濡らした。
その時、である。
森の奥から幾人もの足音と共に、赤子の泣く声が近づいてきたのだった。
それは皆、高僧を先頭にした延暦寺の法師である。
僧の生き残りたちの悲壮な顔とは別に、先頭にいる高僧は、なんとも異質な面差しである。目を見開き、狂気に満ちた冷笑を浮かべながら、一人の赤子を抱いていた。
「見よ。仏が信長を討てと思し召しじゃ」
彼が抱きかかえていたのは、なんとも色の白い、女の赤子である。
この赤子は、後に『夕立』と名付けられ、比叡山の麓にある別邸で育てられた。
この別邸、もとは若い僧の修業の場という名目で、遊女を呼び込み乱れを楽しむ目的として建てられている。僧としての腐敗の証が、幸いにも、生き残った者たちが身を隠す巣になったのである。
赤子を育てるには乳が要る。
別邸に辿り着き、真っ先に生まれた不安が、それであった。
しかしどうしたわけか、夕立が泣くと、どこからともなく山犬や熊といった獣の類が現れ、おもむろに乳を与えた。
夕立にまつわる奇怪な話は、数えだせばきりがない。
夕立が歩けるようになって間もない頃、転倒して膝を擦りむいた事がある。しかしその直後、血の溢れ出る傷口がみるみるうちに狭くなり、指折り数える間には塞がってしまった。彼女が軽く跳ねれば、それは大人の背丈を超えるほどに高く舞い、その様はまるで人智を超えている。
普通の幼子であれば、大人と触れ合ううちに微笑みを覚え、毎日だって笑っていられる生き物と聞いている。
夕立は恐ろしいほどに、表情の薄い子どもだった。
時折、悲しげであったり楽しげであったり、何かしらの表情を浮かべることはある。だが、それは微々たるものである。
にこり。しゅん。むっ。ぽかん。
薄い表情で喜怒哀楽を表現するだけで、心の底から、己の心を見せることはなかった。そういう話も含めて、夕立という娘は人間らしさに欠いていた。生き残った坊主たちの中にも、夕立を不気味に思っている者は少なからずいる。
それでも智生にとっては、まるで自分の娘のような存在であった。
夕立の良き遊び相手となり、誰よりも気に掛けた。
普段は夕立を拾った高僧が横で沿って眠り、
「よいかね夕立。この世には、織田信長という悪しき魔の王がいる。そ奴がいる限り、この世に安泰は訪れぬ。そなたが正義となり、悪たる信長を討つのだ」
と、寝物語でも聞かせるように刷り込んでいった。
やり方はどうであれ、信長の京攻略を、己の欲のために妨害し、浅井氏の軍勢と共に織田の家臣を蹂躙した延暦寺側にも非がある。
しかし、そう考えているのは、少なくとも智生だけであった。
生き残った連中の多くは、自分の命が助かり安堵する者、信長を心から憎む者、果ては元の生活に戻りたいと願う者だった。
生き残りの中でも最も年若く、発言力のない智生は、ただ思いを胸に秘めたまま、夕立の遊び相手になるので精一杯である。それでも、共に過ごす時間が長かっただけに、夕立も智生には懐いた様子で、自身から話しかけることも少なくはなかった。
「夢の中で、仏様に会ったのです」
夕立が六つの年になった、ある秋のこと。
石を積んで遊ぶ夕立を眺めていた智生に、夕立がふと思い立ったように話した事がある。
「仏様が、私に刀を授けてくださいました」
「仏様に会えたのか。よかったじゃないか。きっと仏様が、そなたの夢枕になって見守ってくれていたのだな」
智生はそのとき、真摯に訊いているような顔をしてはいたものの、本気にしてはいなかった。
子どもの妄言はよくある話だ。子どもという生き物は、夢と現の境が分からぬ。智生としては、夕立の妄言に付き合ってやるつもりだった。
しかし、
「明日の夕刻、ここから北に行った森の奥で待っていると、仏様は言いました」
「えっ」
「魔王を倒す刀をくれるそうです」
夕立は普段から無表情であるが、その時はどこか真摯で、それでいて、言い知れぬ不安を感じた。自分たちの知らぬ、人知の届かぬどこかに、夕立は通じているのではないか。そんな予感がしたのである。
そしてその言葉通り、夕立は翌日の昼頃、急に姿を消した。邸内のどこを探しても見当たらず、結局本人が返ってきたのは、智生が途方に暮れていた日暮れ頃だった。
「こんな時間までどこへ行っていた」
その時、智生は夕立を咎めた。
日が暮れると同時に返ってきた夕立は、どこから持ってきたのか、鞘に収められた打刀を手にしている。しかし、その瞬間の智生は、そのようなことは気に留めない。
山麓とはいえ、この別邸も四方を森に囲まれている。森の中は当然、安全とは言い難い。獣もいれば賊もいる。京へ降りていく坊主でさえ、その懐に脇差を忍ばせた。
そんな場所へ、六つになったばかりの娘が踏み入るなど、物騒にもほどがある。
しかし、
「仏様とのお約束を守ってきたのです」
と、夕立は何食わぬ顔で言った。
「仏様が、夢の中で掘れと言った場所を掘りました。森の奥にあるオオクヌギの下にあったのです」
そう告げる夕立の着物や両手は、確かに、泥で汚れている。
冷静に考えてみれば、華奢で背の低い幼子が、鉄と鋼を練り込んだ重量の打刀を手にして運ぶなど、たやすい話ではない。運べたとしても、その重さに耐えきれず手を離すか、酷く疲弊しているに違いない。
それでも、夕立の顔には汗ひとつ滲んでおらず、まるで竹光刀でも持っているかのように、それを軽々と持ち上げている。
その刹那、智生の背中を冷たい汗が伝う。
高僧は、夕立に信長を討たせようと考えているようだったが、娘の身である夕立には不可能であろうと、智生は考えていた。信長を倒すために仏が遣わした子だというのも、怨嗟に身をゆだねた高僧の妄言であろうと確信していたのである。
しかしその瞬間、智生の中に疑念が生まれたのである。
常人を超えた体、揺らぎにくい感情、そして仏の夢と刀。
それはあたかも、本当に仏が、信長を倒すためだけに生み出したようだった。
「和尚様……?」
硬直した智生を見上げて、夕立が首をかしげていた。
よもや仏は、このような無垢な少女に、殺しの業と過酷な命運を託したというのか。
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