想う



 今日も今日とて、目覚めが悪かった。

 夕立に出会ってからは、何かと、吉乃の夢を見る。

 夕立が吉乃の生き写しであるからか。それとも、吉乃の怨霊が、なにかをきっかけに信長のもとへと来るようになったのか。

 寝る前には訳の分からぬ行動をとる夕立に手を焼き、眠りについた後は夢の中で吉乃に厭なものを見せられる。

 女難に関わる厄でも付いているらしい。

 朝の町大路を歩きながら、信長はそんなことを考えるのである。

 式占だとか祈祷だとかいうものに全信頼を置くほど、信長は信仰深くない。しかし、こうもたて続けに難が続くと、なにか不吉なものを感じてしまうのだった。

「吉法さま」

 その時、夕立がいつになく鮮明な声で信長を呼ぶ。

「何だ」

「昨晩はとてもよく眠れました。吉法さまのお蔭です」

 夕立は穏やかに口元を緩める。

 おかげも何も、夕立の恐れる魔物などいやしない。盗人が外から侵入してくるか、信長が何かをしない限り、夕立がうなされることはないだろう。

「だから言ったろう、魔物などおらんと」

 信長は、どうだとばかりに眉を跳ね上げて言う。

「分かったら、次からは好きなように寝ておれ。年も盛らん娘が五十路の老いぼれと添い寝なんぞするもんじゃない」

「五十路……」

 夕立は小首を捻り、何度も信長の顔を見なおす。

「もっと若い方だと思っていました。おじ様ではなくおじい様なのですね」

「おじい様」

 復唱し、信長はむっと、薄い唇をひん曲げる。

「―――そこまで老いてはおらん」

 言われて嫌な言葉というものは、自分で言うのは良くとも、他人に言われると癇に障るのが人の性―――。

 自らを老いぼれと言っておきながら、信長は夕立に発言に異議を唱える。

 道行く立ち売りや、店開きの準備をする飯屋の女房を横目に、信長は夕立から逃れるように足を速める。美濃の地に猛々しく聳える山から、太陽が顔を出して早一刻ばかり経つ。

 そこらの宿で一夜を過ごした旅人から、この町の町人に至るまでが、朝餉を終えて動き出しつつある。

 一番鶏に、あるいは女房子どもに、あるいは隣人の起きる音に、叩き起こされた者たちが、しかめ面を洗って目を覚ます。そうして朝の町に、人が増えてゆく。

 朝の冷風が頬を撫でる感覚には、信長にも覚えがある。

 朝早くに安土城の天守へ登り、無人だった城下の町が朝日と共に目覚めていくのを眺めていたことがあった。

 ゴマ粒のように町に散った人影が、陽が昇るにつれて数を増やしていくその様を見ていた。楽しげな笑い声が風に乗って城まで届くころには、その喧騒な声音も微かなものになっている。

 しかしそんな微かな笑い声ひとつで、信長はその時、まるで蚊帳の外にでも投げ出されたような気分になった。

 冷たい正室に信用ならない家臣。楽しく賑わう城下町から離れたこの城はまさしく、遠巻きにひとりで、風に乗せられた笑声を聞く信長そのものであるかのようだった。

 しかし、その時のことを思えば、今こうして町中に立っているこの瞬間、信長は孤独を感じていない。

 すぐ横では、小鴨のようについて歩く夕立がいる。

 冷たい風が夕立の柔らかな髪を透かし、その首筋を冷やすらしい。耳を塞ぐように髪を押さえ、信長の足並みを折っている。

こうもぴたりとくっついて歩かれては、寂しくもなくなろう。ふと浮かんだ不思議は、信長の中ですぐに終結する。

「お夕」

 信長は真横を歩く夕立を呼ぶ。思ったよりもうんと、穏やかな声が出た。

「寒ければ、後ろに下がっておれ。風上に立たぬほうがよい」

「いいえ、よいのです」

 夕立は髪を押さえたまま断る。

「吉法さまを盾にして、風を除けることになってしまうのです」

「貴様が俺の後ろに下がろうと、俺が寒いのは変わらぬ」

「けれど吉法さまだけ風邪をひくのは可哀想なので、冷えるなら私も一緒に冷えます」

 小娘ながら“年寄り”に気を遣っているらしい。

 遠慮なく後ろに下がると思っていた信長にしてみれば、想定外の出来事である。横を見やれば、丸い優しげな目が、ちろりちろりと忙しなく、何度も信長を見上げている。

「何を見ておる」

 不審な夕立に、信長は訝しんで眉に皺を寄せる。

 夕立の表情は、やはり感情が読めぬほどに薄い。それでも、僅かに持ち上がった唇の端が、髪の間から垣間見えた。

「……第六天魔王が、吉法さまのような人なら良かったのに、って」

 夕立は雫を溢すように呟いた。

「そう思ったのです」

 信長はその時、前方に視線をやりながらも、隙を見ては夕立の顔に一瞥をくれる。

 親の仇でもある男の話をしているにもかかわらず、夕立の顔には憎悪や怨嗟の色が僅かにも浮かんでいない。ただただ、安らかな微笑を浮かべているばかりである。

「―――なぜ、そう思う」

 夕立の顔から眼をそらし、信長は問う。

『吉法さまが魔王と同じ考えの持ち主であれば、たとえ魔王を討ち滅ぼしたとしても、平和な世などやってこないように思えたのです』

 以前に夕立本人の口から出た言葉を、信長はよく覚えている。敵地にいる者を皆殺しにする信長のやり方を夕立が批判した際、それに腹を立てた信長が反論した。ただがむしゃらに殺しているわけではない。戦略のひとつであると。

 その時に、夕立が静かに言い募った言葉である。

 あの日、信長に向けられた、疑心に満ちた夕立の黒い眼は忘れもしない。

 小娘の顔に向き合えない信長をよそに、夕立は淡々とした声で、

「善い人だからなのです」

 と、答えた。

「吉法さまは人の話をよく聞いてくれます。ご飯も分けてくれます。怖い人や、怖いものから守ってくれます。それに、とても気遣いができます」

「―――」

「智生の和尚様が仰っていました。人の話をよく聞いてあげたり、誰かを守ろうと必死になってくれる人には、いい人が多いと」

 夕立は髪を押さえていた手を解くと、その手で信長の手を取る。

「魔王が吉法さまのようなひとなら、きっと、良い世を作れる気がするのです。きっと私も好きになったと思います」

 信長の手を取ったそれは、雪細工のような肌に相反して温かい。こうして触れてみると、夕立が人として生を賜っているものだと実感が湧いた。

 年若い娘がこうも容易く、壮年の男の手を取るなど、親子でなければほぼあり得ない光景である。幼き日から、よく手を握ってもらいでもしたのだろうか。

 もう少しぐらい、年若い娘らしく、嫌そうな顔のひとつでもしてみろ。

 そう言って振り解こうとするも、口が動かない。

 懐かしく、心地よい感覚が、手を伝って左腕に走り抜ける。

 この娘が、飽きて手を離すまでの辛抱―――。

 自分にそう言い聞かせる傍ら、左手を支配する甘美な感覚を味わうのだった。

 思い起こせば幾年月も前、似たような感覚を噛み締めた経験がある。

 それはまさしく、あの比叡山焼き討ちにほど近い年の事であった。






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