魔夜の燭台
町に入った時には、既に日は暮れつつあった。これから山道に踏み入るのは気が引ける。
ゆえに、この日ばかりは宿を使った。
宿といっても、読んで字のごとく。
町の近隣を流れる川沿いには、破れ屋のような小屋がいくつも連なり、中に入れば、そこは土間に茣蓙を引いただけの空間がある。飯も出なければ床もない。まさしく、宿を借りるだけのために作られたような場所だった。
「水を使いたきゃ、井戸からでも川からでも掬って使いな」
この“宿”を管理しているのであろう老婆は、それだけ言い残して、すぐにその場を立ち去った。
僧兵のなりをした若い娘と、笠を深く被った壮年の男。親子と見るには少々不自然なその二人を、老婆は怪しむ様子もない。
今にも潰れんばかりの宿だけに、宿賃も相応に安い。それだけあって、訳のある人物が利用することが多い場所なのであろう。
「まったく、どうしたってうちの宿にゃあ、まともなのがこないのかねえ……」
老婆の独り言が、薄壁一枚でできたような宿の中からでも聞こえた。
老婆の微かな足音が遠ざかっていくのを聞きながら、信長は戸をぴしゃりと閉める。
夜闇に塗りつぶされたような部屋の中を照らすのは、老婆が明かりをつけた燭台の火のみである。薄い闇の中から、夕立の白い顔が浮かびあがった。
「ここで寝るのですか」
夕立が小さく問うた。
「床のない場所では不満か」
信長は言ってやる。
そこらの百姓が住む家だって、多くが床なしである。
「そういうのではないのです」
夕立は頭を横に振る。
不満げ、というよりは、いささかな不安を感じているような声色だった。
妙な振る舞いの夕立に、信長は渋面になる。
「では何だ。声が随分と低いぞ」
信長は遠慮なく言及する。
すると、夕立は燭台から距離を取り、信長の傍らまで歩み寄る。
「―――燭台に火を灯した夜は、魔物が来ると聞きました」
そう囁くや、夕立は何の前触れもなく、信長の胴に抱き入った。
信長は一瞬、事の理解ができなくなる。
自分より一回りも二回りも小さな娘に、いきなり掻き抱かれた。それを知り、狼狽する。
「何の真似だ」
信長は荒らげかけた声を呑みこみ、静かに問う。
見おろした先にある夕立の顔は、やはり白い。しかし、元の肌の色白さよりも、今は、強い不安による蒼白が目立っていた。眼を細め、弱々しく胴に抱き付く少女の姿は、ひどく怯えているようでもある。
「魔物が出るので、誰かと一緒に寝るようにと言われました。誰かと一緒なら大丈夫って……」
大丈夫。
そう言う割には、夕立の顔に安心感が見えない。
それどころか、何か別のものに怯えている様子すら窺えるのだった。身体を動かさずじっとしていれば、夕立の手が僅かに震えているのも分かる。
(大丈夫という面か)
信長は怪訝に眉を顰め、夕立を引きはがす。
「魔物なんぞ出るものか。塩でも撒いておけ」
信長は引きはがした夕立の頭に、軽く拳を落としてやる。
「だいたい、誰がそんな馬鹿げた話を教えたのだ」
「和尚様です」
夕立は痛くもないであろう頭を押さえて言う。
和尚というからには、夕立を育てたあの生き残りの坊主どもに違いはないだろう。しかし、夕立の言う「和尚」は不特定である。
あの智生という変わり者の坊主なのか、はたまた別の誰かなのか。事情を知らぬ信長には皆目見当がつかなかった。
「和尚と言うのは、貴様と仲の良かった男か」
信長は訊くが、夕立は、間髪置かずに頭を振って否定する。
「別の和尚様です。昔はあまり遊んでもらえなかったのですが、旅に出る少し前から、よく話すようになりました」
「そやつが、貴様にそんな戯言をぬかしたか」
子供騙しも甚だしい。
全く呆れた男である。何をさせたかったかは別にして、このような事を教え込まれた夕立がどのような行動に出るかは目に視えているはずだ。
夕立ほどの未熟な小娘とはいえ、これが見知らぬ男であれば、最悪、何をされていたかわからぬ。
「二度とせんで良い。魔物も現れん。好きなように寝ておれ」
ひとつひとつ区切るように言い捨て、信長は土の上に敷いただけの茣蓙の上に寝転ぶ。
一方で、夕立はそこに立ち尽くしたまま、寝転んだ信長を見下ろしている。そして仄暗い周囲を見回しては、助けを求めるように、信長へと視線を戻した。
「うう……」
馬賊も魔王も恐れぬ小娘が、たかが坊主一人の作り話に怯えている。
そんな情けない姿を目の前にしていると、この程度の娘に狙われている自分の命すら、その程度に成り下がるのではないかと思えてきた。
「―――どうしても怖ければ、傍におれ」
見かねて、信長がそう声をかける。
表情こそ明るくはならなかったものの、夕立は動いた。両膝を曲げて跪き、信長のすぐ隣に横たわる。
(どこが怖いのだ)
信長は燭台から周囲にかけて視線を走らせる。なにも恐ろしい事などない。魔物もいなければ、異質な気配も声もしない。欲に駆られた蛮賊に比べれば、なんの脅威にもならぬ。
それでもなお、夕立は震えている。今度は上目遣いに信長をちらりと見ては、強く目を瞑っている。
「近くに来るか離れるか、どちらが良いのだ」
失礼な娘に、信長は怒気を滲ませた口調になる。
「……離れたら魔物に食べられてしまいます」
夕立は強く目を瞑ったまま、そう声を絞り出す。
「ならばなぜ震える。俺の傍におるだろ」
「魔物が傷つけに来ます」
「だからそんなものは―――」
「本当なのです」
その刹那、夕立がひときわ強く、言葉を放った。
「―――痛いことをしに来ます……」
夕立はそれだけ言い募ると、体を丸めて耳を塞いだ。
まるで外から伸びる魔の手から、我が身を守ろうとするような寝方だった。
信長はその態度に、いささか気分を悪くする。
町中で夕餉を食った時には、「死なれると悲しい」などとぬかしておいて、今になると、信長の存在を頼りすらしない。自分という存在が、夕立の中で「坊主の作り話」よりも弱い存在だと認識されていることが、不愉快だった。
「―――」
信長はふと思いつき、片手で夕立の頬を引っ張った。
「痛い」
夕立は目を瞑ったまま呻く。
飛び起きて張り手のひとつでも食らわせてやればよいものを、夕立は目を開けることもなく、ただ痛みに耐えているばかりだった。
「夕立、目を開けろ」
信長は頬を引っ張りながら命じる。
「こっちを見ろ」
「目を開けたら、魔物に襲われると言われました」
「見ろ」
信長は無理矢理に夕立の身体を起こし、向かい合って座らせる。柔らかな両頬をぐっと掴むと、空いた手で大きな眼を見開かせた。
「いま、貴様を痛い目にあわせたのは何者だ」
信長は半ば怒った風に問いかける。
「目を瞑っていた貴様にはわからんだろうな。いま、貴様の頬を引っ張ったのは、魔物ではなく俺だ。燭台のともる夜に魔物が来るというのも、誰かと一緒に寝ればよいというのも、目を瞑っていれば食い殺されず、傷つけられるだけで済むというのも、作り話だ」
「でも……」
「貴様が本当に傷つけられたというなら、それは貴様が目を瞑っている間に、誰ぞがやったことだ。わかったら、不通に寝ておれ」
一方的に説き伏せてやる。
矢玉のように放たれた言葉に、夕立はただただ、呆然としていた。
「……人間……」
夕立は呟くと、糸が切れたように再び寝転がった。
自分が信じてきたものの存在を否定され、唖然としているのだろう。坊主の虚言を打ち破り、満足すると、信長もさっさと体を横にした。
『痛い事をしに来ます』
先の、夕立の言葉が蘇り、晴れやかな信長の心に再び影が差す。
自分の言った通り、夕立に目を瞑るように教え込み、痛い目にあわせたのが人間であるとする。
―――馬賊も恐れぬ夕立をここまで戦慄させるほどの痛みとは、どのようなものであろうか。
夕立に背を向けて横たわる信長は、背後にいる夕立に、目を向けられないでいた。
何をされたのか、想像がつかぬでもない。しかし、信長の思い浮かべる其れは、言ってしまえば鬼畜の所業である。坊主たちにとって娘同然であり、信長を討てる刺客にもなる夕立に、誰がそのような事をするのか。
そんなことは、知りたくば夕立本人に聞けばよい。
しかしどうしたことか、天下人ともあろう信長は、夕立にそれを訊く勇気が出ない。
(落ちぶれたな)
腰抜けにまで堕ちた自分を恥じながら、信長は瞼を閉じる。
川の水が、ちろちろと流れる音がする。
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