面(後編)
「貴様も、自分に口うるさくする人間が死ねば、悪い気はせんだろう」
「口うるさい人とは、吉法さまの事でしょうか」
夕立の言葉は刃物のようである。
ざくりと心の臓を斬り裂く言葉の刃に、信長は首を垂れる。
「貴様がそう思うのなら、そうであろうな」
「そうなのです」
いちいち無礼な夕立に、信長は唇を山なりにひん曲げる。
「こいつめ」
信長は夕立の頬を手で掴み、ぎゅっと力を入れてやる。頬の柔らかな肉を挟んで、歯の感触が伝わってくる。
夕立は唇を鳥のようにすぼませ、
「うう」
と、呻くばかりである。
「誰が死んだら嬉しいと申した。少しは世辞を使わんか」
自分の口から招いた災いではあるが、信長は自分のことは棚に上げる。
悪意を腹の底に隠さぬだけ、まだ織田の家臣どもよりはましというものである。が、物事には程度というものがある。
例え日本中から恨まれるような男とはいえ、悪口を率直に言われてよい気はしない。
「しょなことゆってないのれす」
そんなこと言ってないのです、と、夕立は訴えた。
「ではなんだ。俺が今言うたこと以外に、なにかあるのか」
信長は低い声で唸って、夕立の頬から手を離してやる。
頬が自由になった夕立は、自身の頬を撫でて労わりながら信長を見上げる。
「吉法さまは口うるさい人ですが、死んでほしくはないのです」
「なに」
「吉法さまが死んだら悲しいのです」
唐突に、少女の口からそんな言葉が転げ落ちた。
信長は暫時、言葉を失う。
夕立の容赦のない本音には、いつまでたっても慣れない。しかし、このような言葉は、それ以上に慣れない。
いつだったか、母が自分を蹴飛ばしたことがある。
うぬは我が子ではないとか、汚いものが寄ってくるなとか、そういった罵声を浴びせられた。思い返せば、女の母にでも蹴転がすことができるほどに幼い時から、他人かから消える事を望まれていたのかもしれない。
反旗を翻した信行といい、愛想のない帰蝶といい、母といい、吉乃といい、光秀といい、織田の家臣どもといい、いままで敵対した連中といい、数えだせばきりがなかった。信長の周辺は、嫌悪と、軽蔑と、怨嗟に満ちている。
ゆえに、慣れない。
夕立に、どう対応すべきかわからなかった。
取って付けた胡麻すりに違いない。そう思いはしたものの、口が動かないのである。
夕立は気が利かぬ。世辞を言うだけの頭もない。
それはすなわち、夕立は本音しか言わぬことを意味している。
「―――」
信長は二の句を告げられないでいた。
心から思ったのであろうその言葉への、返答が思いつかない。
甲高い声で罵倒し、相手を委縮させることは造作もない。小手先で相手を手に入れることも容易かった。
しかし、それは自分に背こうとする者への対応である。
夕立のような場合は、信長の記憶の中では前例がなかった。
相手がこちらに好意を抱いているのなら、それをとことん利用してやればよい。信長にとっては甘い蜜のような話である。それなのに、信長はこれっぽちも満足しない。
戦で言うなら、勝機が見えない。そんな感覚だった。
なぜ、自分がいなくなると悲しいのか。なにか不利益を被ることでもあるのか。
信長はそれを訊けぬまま、沈黙した。
町ゆく民衆の足音と、喧騒な声ばかりが、耳の中に流れ込んでくる。
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