面(前)

 *

 美濃に入って二日が経つ。

 野山の続く光景が少なくなり、人も少しずつ増えてきた。

 町の中を、女子どもから、飲んだくれ、老獪に至るまで、そこかしこを人が行き交っている。

 日が暮れ、空が宵の色と夕焼けの色に分かれる。夕方と夜の間にもなれば、町には明かりが灯る。それでも、陽が落ちてからも人の数が減ることはない。

 弥生の清涼な風が、町の中を吹き抜けるのだった。

 人の声でにぎわう町大路。その大路に沿って、店がずらりと二列に並んでいる。店ひとつひとつに明かりがともると、それが町中に明かりの一文字を描くのだった。

 町大路の真ん中には飯処がいくらかあり、その一角では、見慣れぬ二人組が飯処の椅子に腰を掛けているのである。

 飯処の中が満員であるという訳ではない。にもかかわらず、二人組の男の方はあえて外の椅子を選んだのだった。そのうえ笠を深く被り、口元も布で巻いて隠している。一方、二人組の少女の方はというと、落ち着かぬ様子で、しきりに首を捻っては周りを見回しているのである。

「はい、どうぞ」

 飯処の女から椀が手渡されると、僧兵のような恰好の少女は、ぎこちない手つきで椀を受け取った。

「ありがとうございます」

 少女は受け取った椀の中を覗き込む。

 半透明の出汁の中で、絹のような、四角形の白い塊が沈んでいる。

「―――」

 少女は白絹仕立ての枕にも似たそれに、箸を滑り込ませる。柔らかな四角を砕き、小さな口へ運ぶと、少女は幾分か目を輝かせた。

「―――不思議な食べ物なのです」

「豆腐は食うたことがなかったか」

 少女の言葉に、男は僅かに眼を見開く。

「とーふ、というのですか?」

 少女―――もとい、夕立は声を高くすると、椀を持ち上げて出汁を啜る。

「とても柔らかいのです」

 夕立は豆腐をとても気に入ったようである。

 町中で自炊をするわけにもいかず飯処に入ったが、思わぬ発見であった。

 豆腐など、そこらを歩く豆腐売りの女からも買える。そう珍しくもないもののはずだが、寺の外に出たことの無い夕立だけに、豆腐すらも未知の食べ物らしい。

 いそいそと出汁を啜る姿は、さながら幼子のようである。

「死体が見つかっていないらしい」

 夕立の食い姿を眺める男――信長の耳にその言葉が舞い込んできたのは、その刹那の事。

 我に返って、信長は声のした背後を振り返る。飯処の店の中で、商人の男たちがよく通る声で話し込んでいた。

「秀吉公がまた気の病に伏せったそうだ」

「毎夜、悪夢に悩まされているとな」

「信長さまを最も恐れていたのは、秀吉公であるとか……」

 男たちが話しているのは、まさしく、この信長と秀吉の話である。

 世間では、織田信長は本能寺の変にて、明智光秀に討たれたことになっていると蘭丸から聞いた。蘭丸は本能寺から信長と共に逃げ延びた後も、頻繁に町へ降りては、世間の動きを探っている。蘭丸がいた時までに耳にしたことは、ほとんど頭に入っていた。

 信長の死後、秀吉が大軍を率いて光秀を討ち、信長に縁の近い織田家や家臣を押しのけて頭角を現したという。のちに西国にて荘厳な大阪城を築き、武将として天下統一の一途を目指しているということも聞いた。

 秀吉という男は、狡猾である。しかし狡猾ゆえに、人に取り入るのが上手い。百姓の出世を良しとせぬ古い考えの武将に胡麻を擦り、忠犬が尻尾を振るように媚びて気に入られた。かつては信長が履くつもりだった草履を懐で温めて、取り入ろうとしたこともある。人を味方につけることについては、秀吉の右に出る者はいなかった。ある意味では、信長とは正反対の男だったと言える。

「そりゃあ、そうだろうよ。信長さまが甦った日にゃ、秀吉公は今の地位から引き摺り下ろされちまう」

「いいや、しかし織田家ももう、すっかり弱くなっちまったしなあ。信長さまが甦ったって、今さらどうにもできんだろう」

「信忠さまは二条で討たれとるしなあ。伊勢の信雄さまでは……」

 信長の老いた耳にも鮮明に聞こえるほど、男たちの声は大きい。

(死んだのか、信忠)

 男たちの言葉に耳をそばだてていた信長は、固唾を飲んだ。母の吉乃に似て大人しい性格の男だったが、信忠は秀でた将であった。少なくとも、信長の忠告を破って勝手に伊賀を攻め、敗走した次男の信雄に比べれば。

「……」

 吉乃の子は信忠と信雄、そして娘の五徳がいる。みな、信長が名付け、その成長を見てきた子どもである。しかし、不思議と悲しみは湧いてこなかった。

 俺と、血のつながった子どもではないからか。

 信長はそんなことを考えるのだった。

 吉乃は弥平次の死から僅かばかりで、信長のものとなっている。しかし実質、逢瀬を初めて交わすことができたのは、それよりもずっと後の事である。そして吉乃が信忠を身ごもったのは、それから間もない頃の事であった。いくらなんでも、早すぎるのだ。なにより、生まれてきた信忠は、吉乃には似ていても、信長には何ひとつ似ていない。代わりに、弥平次によく似た茶色の髪を持っていた。

 そうして、夫を失ったことで気を病んだ吉乃は、信忠の世話のみに一心を注いだのである。その頃には信長への心も離れ、ろくに抱くこともできぬ日が続いている。どこで、どのようにして、男を引きこんだかは定かではなかったが、三人の子どもたちが信長と血縁を持っていないのは、確かなことであった。

 吉乃の他にも、信長は側室を召し抱えていたが、いずれも床に入ったのはほんの僅かばかりである。もう、誰が誰と通じ、誰が信長と血の繋がりを持っていたのかもわからない。

 信長と側室の間に生まれた“子どもたち”は、そんな朧げな状態だった。

 大した愛情も感じなかった信長にとっては、信忠の死もそれほど悲しいことではない。ただ、優れた将が命を落とした虚しさと、謀反人の一人として疑っていた人物が消えた安堵を感じるばかりだった。

「のぶただ、というのは、第六天魔王の仲間の事ですか?」

 そこで不意に、隣から鈴のような夕立の声が、そう問いかけた。

「聞こえとったのか」

 信長は我に返り、隣に座る夕立を見下ろす。

「信忠と言うのは、天魔の息子だ。本能寺で天魔が謀反を起こされたときに、明智の軍に攻められて死んだそうだ」

「魔王にも子どもがいたのですね」

 夕立は感心したふうな口ぶりである。

「悪逆非道の男と聞いていたのですが、そんな人でもお父さんなのですね」

 夕立は感心したふうだったが、その傍ら、声は低くなり、憂いを孕んでいる。

「――何を悲しむ事がある。貴様の仇である男だぞ」

 自分のことであるのにも構わず、信長は言ってやる。

「どのような悪党にだって、子はおるものだ。子のおる者が善良な人物とは限らぬ」

 自分を殺すつもりである娘に、信長はわざと、焚きつけるように言う。今、信長に情を感じて、夕立に信長討伐を断念されては困る。

「……そんなことは、考えていないのです」

 おもむろに、夕立が空になった椀を、膝の上に乗せた。

「どんなに子がいても、第六天魔王は討たねばなりません。けれど」

「けれど?」

「第六天魔王を討ち取ったら、悲しむ人もいるのかなと思ったのです」

 夕立は影の差す面差しになった。

 要は、誰かが悲しむ結果になるであろうと考えて、清々しい気持ちになれぬのだろう。馬を射殺した男どもは有無を言わさず殺したくせに、天魔の死後に遺された者の事を気にするとは、矛盾も甚だしい。

「―――悲しみは、せんだろ」

 信長はため息を混ぜて、蚊の鳴くような声で呟く。

 “信長の子”は二十の数を超えていたが、その実、信長を慕っていたのは片手の指でも足りるほどしかいない。家臣からも、側室からも、自分の子であるかもわからぬ子どもにも、信長は心を許してはいなかった。そんなことなのだから、子どもも当然、信長に心を許しはしない。

 信長自身、我が子への愛情などなく、ただ優れた家臣にさえなればと、そう願うばかりであった。

 そんな男が死んだところで、誰も悲しみはしない。

「信長ほどの非情な男の事だ。気にすることはない。我が子からも憎まれておったことであろう」

 自虐よりも、諦めに近い言葉が、信長の口から零れ落ちた。





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