頭の中は薄桃色
事は、今より半月前に遡る。
信長の首を獲るのは、容易ではなかった。何度も安土と周辺の国々を駆けずり回っては、城に戻るのを繰り返している。いちど旅に出て、何も持って帰ってこない隠密など、本来であれば咎めなしでは済まされぬ。
「なんたることかっ」
信長の真似事のように、猿が甲高い声で怒鳴った。
本能寺の変が起きてから幾年月経つ。
あの日、光秀が信長を討ち取ったという『朗報』が舞い込むころには、すでに備中高松城攻めは終結していた。毛利方と和睦を結び、城主である清水宗治の切腹を見届けたのは、本能寺の変が起きたとの知らせが届くよりも、ずっと前である。
信長の死が伝えられたのは、備中を発ってから三日目の、六月三日の事。
『残すは、光秀ただひとり―――』
御影のすぐ前で、そう歪にほくそ笑む秀吉の貌は、鮮明であった。
信長は、秀吉が天下を取る上で最大の障壁と言えた。そのことは秀吉自身も十分に承知の事であり、信長を抹殺する目論見は、本能寺の変よりもはるかに前から始まっている。
高松城の水攻めを見届けてほしいと、少数兵で信長を誘い出すのは、容易であったろう。それでも、本能寺の変を起こすにはまだ材料が足りなかった。
光秀である。
光秀は何度も信長に兵の増員を求め、危険を訴えていた。口実上、信長の出兵は『高松城攻めの援助』である。しかし、あまりに少ない兵力を疑った光秀が、秀吉の事を嗅ぎまわっていると、秀吉は隠密より耳にした。
ゆえに、光秀に術をかける必要があったのである。
『信長さまは、すでに死しておられます―――』
眠る光秀を起こし、そう告げ口をしたのは、紛れもない御影本人であった。
秀吉に続き狡猾であった家臣・滝川益一が、隠密をけしかけて信長とその嫡男、信忠の寝首を掻いた。いま信長、信忠として出陣しているのは、二人に化けた隠密である。
『いま彼らを討たねば、織田家存亡も危うく思われます』
そう吹きこむと、光秀は神妙な面持ちになった。
そうして、光秀は図らずして『世紀の大反逆者』となったのである。
本能寺の変から間もなく、舞い戻った秀吉によって、謀反人の光秀は討たれた。秀吉は見事に天下人の座をもぎ取り、邪魔なものを一掃することに成功したのである。――否、事のすべてを企てたのは秀吉なのだから、本能寺の変が起こることも知っている。そうでなければ、備中からわずかな日数で舞い戻る事などできない。
かくして、秀吉は『英雄』となったのである。
しかしその傍ら、秀吉のそばには常に不安が付きまとっているのだった。
「信長が生きて居るやもしれぬ」
山崎の戦い以降、秀吉は毎晩のようにそう呟いている。
本能寺の焼け跡からは、信長とその小姓・森蘭丸の死体が見つからなかったという。
本能寺は火達磨のように燃え盛り、肉片も残らず焼き尽くすような業火だった。それでも、骨一つ残さず燃やし尽くすことは難しい。信長の持っていた刀も見当たらなかったという。
それを隠密の口から聞いた秀吉は、当然、青ざめた。信長が謀反人を生かしておくことはある。しかし、それは利用価値を感じた者のみである。徹底的に痛めつけ、国を傷物にし、返り討ちも出来なくなってから服従させる。信長がいかに苛烈な手段をとるかは、その首を狙っていた秀吉ゆえに、十分に知り得ている。
謀反を起こしたのは光秀であり、秀吉はあくまで唆したにすぎぬ。
ゆえに、信長が黒幕である秀吉にたどり着くのは難しい。秀吉もそれを知っていてか、振る舞いは尊大であった。
「もはや信長にはわしは倒せぬ」
そう威張ってみせるも、秀吉の眼は、御影から見ればまるで怯えているようだった。
一介の田舎大名から、天下人に上り詰めた男である。秀吉はさぞ、恐ろしかったに違いない。寝ても覚めても、信長の恐怖に見舞われるのか、一時期は女も抱けぬ夜が続いた。
「御影よ、そなたは信長が憎いか」
いつだったか、秀吉が真夜中に御影を呼び出した事がある。
女もいなければ、家臣も誰もいない深夜の寝床で、秀吉は小枝のような手で御影の肩を掴んだのであった。
「あの男を殺したいと思うか」
「いいえ、恐ろしいとは思えど、憎いとは」
「憎かろう、そなたの国を焼いた男じゃ」
「憎い、と、私にそう言わせたいのですか」
「いいや憎いはずじゃ、御影よ。わしの美しい影よ。信長が憎いであろう、殺したいであろう」
「―――秀吉さまは、信長が恐ろしいのですか」
「ああとも、恐ろしい。御影よ、そなただけに言うことじゃ。わしが恐ろしいと言うておるのじゃ。わしを脅かすものを生かしておけるものか」
秀吉はこの時、すでに恐怖に狂っていたと言える。
そして幾月が立ち、ついに、
「信長と蘭丸を探し出し、首を持って参れ」
秀吉から命が下ったのである。
そうして、隠密衆は信長の首を狙うこととなったのだった。
蘭丸を殺してからは、難航していた。
蘭丸が外の国から安土を戻ってきたということは、少なからず、信長は安土周辺の国に身を隠しているはずである。しかし、漠然とし過ぎている。山の中なのか、農村なのか、町なのか、信長がどこに隠れているかなど検討も付かぬ。隠密の諜報術を持っても、そもそも信長が死んだと信じ込んでいる連中から、生きた信長の情報など聞き出せるはずもない。虱潰しに探す以外に、方法はなかった。
最近になってようやく、旅商人から、
「上野で珍しい茶器を売る青年がいた」
という話を聞き、それが森蘭丸ではないかと、仮説が立った。
信長が、宝として持ち出した名器を、蘭丸に金に換えさせている―――。
それが道筋となり、隠密衆一行は上野を目指すこととなったのだった。
そして、事が起きたのが、上野を目指して間もない日の事。
安土から上野へと北上する道のりで、御影はとある商人に出くわした。馬に荷を運ばせていたのだろう。人の背中でも充分に背負えそうな荷を乗せた馬を、商人がひどく鞭で叩いていた。馬は随分と疲弊した様子で、歩くこともままならないでいた。
馬に情が移った、という訳ではなかったものの、御影には馬を叩く商人がひどく不愉快に感じた。感情的になって、甲高い声で起こる男の姿というものは、見ていても気分の良いものではない。
近くの川に手拭いを洗いに来たはずが、とんだ災難である。御影はその時、さっさとその場を立ち去るつもりでいた。
―――が、
「馬が痛いと言っています」
何処からともなく、鈴の音のような声が舞い込んできたのだった。
その涼やかな声に、御影は思わず、逸らしていた目を再び商人の方へと向けたのである。
見れば、癇の強そうな顔の商人と、弱った馬の間に、小柄な僧兵が立っている。
「やめてあげてほしいのです」
僧兵は、その恰好に似合わぬ可憐な声で言う。考えるまでもなく、少女の声である。
戦国乱世のご時世、尼僧の兵もいなくはないだろう。
それでも、腰から携えられた打刀は、小柄な少女にはあまりに不似合いに見えた。
「何を言う、こいつあ俺の馬だっ!走らん馬を叩いて何が悪いっ」
癪の強い商人は、自分よりも小さい少女を怒鳴りつける。
少女の顔は頭巾で隠れて見えなかったものの、商人の声に動じた様子はない。
「―――」
少女はしばらく黙ると、自分の後ろで縮こまっている馬に一瞥をくれた。
「―――それでは、この馬を私にくださいませんか」
少女はそんなことを言い始めた。
「なんだと?」
「長い髪はよく売れると聞きました。歩けない馬なら、私の髪と交換してほしいのです」
少女はそう言うと、被っていた頭巾を外す。
頭巾の下から現れた顔を見て、御影は絶句した。
大きな黒曜石を、そのまま埋め込んだような眼。陶器のような、不気味なまでに白い肌、丸く幼く、人形をそのまま人に化かしたような顔。
何から何まで、まるで作り物のようである。
一見すれば気味の悪いほどに生気がない。しかし一方で、その生の宿りすら感じさせぬ混じりけのない顔が、御影の中の何かを、強く揺さぶるのであった。
少女は髷にして結い上げていた髪をおろし、懐から脇差を取り出す。艶やかな髪が少女の膝小僧にかかり、無数の蛇を壺から落としたようにうねる。その立派な髪を小さな手に収まる分だけ束ね、そこへ懐剣の刃を滑り込ませた。
女の命とも呼べる長い髪が、ざくり、と音を立てて断たれる。
一束、一束と、少女の頭から伸びていた髪の束が、顎の下を境に断ち切られてゆく。最後の一束が切り落とされる頃には、少女は幼い娘のような禿頭となっていた。少女はその髪の束を、もともと髪を縛るのに使っていた紐でくくり、商人へと差し出した。
「これで足りますか」
その言葉に、商人の目の色もいささか変化を見せた。
黒く長く、艶のある髪は、高貴な身分の姫が鬘に使い、またある時には高価な人形の素材としても良く用いられる。ゆえに、価値がある。歩くこともできない、衰弱しきった馬よりもよっぽど使えるものだった。
しかし、商人は顔によく似あって狡猾な男であった。
「そうさな、なんたって交換するのは馬一頭だ。もうひとつくらい埋め合わせがなきゃあ、対等とは言えんなあ」
商人の視線は、まるで舐めまわすようである。
何を考えているのか、埋め合わせに何を求めているのか、御影には手に取るように理解できる。
だが、当の少女は目を丸めて、
「なにが良いのでしょう」
と、上目遣いに商人の男を見上げるばかりである。
何かの見返りに、女を求める男は珍しくない。そんな狡猾な男はどこにでもいる。取るに足らぬようなことであったが、御影はこの時、何かを考えるよりも早く、少女と商人の前に躍り出ていたのであった。
「髪だけで十分なはずだ」
御影は少女の肩を抱くなり、商人の男へ挑むような笑みを返す。
「かの名将、明智光秀の妻は、自らの髪を売って、夫の連歌会の馳走を用意したという。それだけ女の髪は高く売れる。走れもしない馬と換えることを考えたら、むしろ馬よりも値が付く」
「誰だ、てめえは……」
商人が口を開くよりも早く、御影が懐から抜き放った短刀を、その喉笛に突き付けた。
「これ以上何かを求めるなら、怪我をすることになる。価値のない馬を棄てて、高価なものが手に入ったのなら、得だと思わないかい」
悲鳴を押し殺す商人に、御影は言ってやる。
御影が少女の方に視線をやれば、当の少女は、腕の中で鳩さながらに目を丸めている。
可愛らしくも感情の宿らない顔に、剣の似合わない小柄。見れば見るほどに、歯痒いものが胸を焦がすのであった。
一方、凶刃を突き立てられた商人はと言えば、怒りに紅潮しながらも、食いしばって、眼前に現れた優男を睨み付けている。
「―――」
御影はあえて、何も言わない。他言を許さぬ沈黙である。喋らない代わりに、眼で脅す。優しげな目を炯々と光らせ、顔に張り付けた微笑みを消す。
商人の顔から、次第に赤色が抜けていくのが分かる。怒りが徐々に恐怖へと変わっていく。君の悪い美貌の男への未知と、その未知からくる恐ろしさである。
「さあ、早く」
ひときわ低い声で、そう促す。
その声に肩を跳ね上げ、商人は青い顔になった。慌ただしく、おぼつかぬ足どりで馬から荷を奪い、そそくさと踵を返す。最後には逃げるように去っていったのだった。
みるみる遠ざかってゆく小さな背中を眺めて、御影は息を吐く。腕だけはまだ、少女の肩を抱き留めていた。
自分の腕の中にいる少女を見て、御影は恍惚とした。少女らしい明るい華やかさほとんど見られないにも関わらず、少女の、馬を救うために自身の髪を犠牲にするその様は、なにより美しく見えるのだった。
「まるでお人形のようだ」
少女に向けた第一声が、それであった。
「名前は何というんだい」
状況を理解できぬ様子の少女に構わず、御影は仄かに紅く色づいた顔で問う。
少女は暫時、ぼうっと御影の顔を眺めていたが、名を問われていると理解して、
「―――夕立と申します」
と、静々と答えた。
夕立。激しく降り注ぐ雷雨とは、このおとなしい少女にはいささか不吊り合いであるように思える。それでも、雨が轟々と降り注ぐ中、薄暗い部屋で座する少女の姿を想起すると、なんともあでやかであった。
「夕立―――美しい名だね」
御影は夕立の頬を手で舐める。吸いつくように滑らかだった。雑に切られた少女の髪が、手の甲をくすぐる。それですら愛おしく思えるほど、御影は少女に心を酔わせた。
近くの村に寺でもあるのだろうか、少女は旅の荷を持っているようには見えぬほど、軽装備である。
遠巻きに、複数人の足が茂みを踏む音が聞こえてくる。仲間の気配だった。
「ちぇっ」
御影は渋々と少女から腕を退け、足音が近づく方角を睨み付ける。
「あのう……」
そのとき、それまで黙していた少女が口を切った。
「……おかげで馬が助かりました。ありがとうございます」
少女はそう頭を下げた。
大切に手入れをし、伸ばしていた髪を失ってなお、少女は弱った馬を優先している。その優しさがなおのこと、少女を美しく見せるのであった。
自身の心臓の動悸に笑みを浮かべながら、御影は少女の頬を両手で包む。
「僕は御影という。たった今、君に惚れた」
御影は少女と対峙して、刷り込むように言う。
「帰り道に君を迎えに行く。次に会ったら結ばれよう」
一方的に思いを伝え、御影は少女を抱き締める。少女がどんな顔をしているのかは知らない。ただ少女は抵抗しない。それは御影にとって、受け入れたも同然のように感じた。
少女を抱き締めながら、舌なめずりをする。
(彼女を手に入れるなら、さっさと信長の首を狩らなければ)
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