隠密

 美濃の土地は広大である。

 山少なく、どこまでも広大な緑の平野が続いている。もともと三つの大河が横切る土地だけあって水に恵まれ、織田信長がやってきて人の出入りが増えるようになってからは金の回りも良くなった。

 ゆえに、金華山の頂にそびえる稲葉山城いなばやまじょうの城下には、人と活気にあふれた町が広がっているのだった。

 稲葉山城―――もとい、岐阜城の城下町は、京にも負けぬ賑わいを見せている。

そんな溢れんばかりの人ごみの中を、隙間風のようにすり抜ける影がある。ひとつ、ふたつと、幾つもの影が、人ごみの僅かな間隙を縫って動く。

 その影は皆、笠や手拭いで頭を隠し、統一された黒の旅姿である。

「――御影みかげ様は?」

 人ごみをすり抜ける影の中で、影のひとりが女の声で言う。

「この先の甘味処で、お休みになっておる」

 女のすぐ後ろにいた影が、そう答えた。

 女がその言葉を聞くや、思い立ったように足を速める。

 海苔の色に乙女色、格子模様に唐草紋、色とりどりの着物が行き交う波の中をすり抜け、女がたどり着いた先は、小さな甘味処であった。弥生の風に暖簾が靡く甘味処の前に、小ぶりな長椅子がある。その長椅子に悠々と腰を掛け、茶を啜る男がいた。

 人影の波を抜けて、先頭の女が長椅子の前に足を踏み出す。

 長椅子に座りくつろぐその男は、美貌であった。

 細面で色白く、眉目秀麗。生けられた草木のように睫毛の生え揃った目は、穏やかで優しげである。服装こそ、女と同じ統一された黒子装束であるが、上に羽織った藍色の絹羽織ひとつで、よりいっそう美貌が映えたようだった。

「御影さま、ゆるりとしている暇はござりませんぞ」

 女は男の名を呼び、切れ長の眼でその男を見下ろす。

 いつなんどきでも安らかな美貌の男を、女を筆頭にいくつもの影が囲む。

 細身の優男が、複数の人物に囲まれている。傍から見れば物騒な絵面である。それでも、囲まれている方の優男はと言えば、眉ひとつ動かさず、そのうえ余裕に満ちた微笑まで浮かべているのである。

「いいじゃないか、休みを取らぬのは体に悪い。皆も少し休んでいけばいい」

 美貌の男――御影は呑気である。

 しかし、そんな御影に対して、女も、仲間の男どもも不満げに眉を顰めるのだった。

「休む暇などござりません」

 その時、女が掠れるような声になった。笹の葉をこすり合わせたようなかすかな音ゆえに、甘味処を通り過ぎる者たちはおろか、この不穏な一団の様子を傍で見守っていた、甘味処の娘にすらも、その言葉は届かない。

 それでも、その笹の音のような女の声が、御影や他の男たちの耳には、しっかり届いているようである。

関白かんぱく様からの命でございます。信長の首を頂戴し、関白様の御前に差し出すこと。ゆるりと茶を啜っている場合ではありませぬ」

 女は冷静でありながらも、厳しい語調で言う。

 関白――今の世では、もっぱら天下人・羽柴秀吉を指す。

 それまで数多いる武将たちの頂にいた上総介・織田信長が滅んでから、僅かな時ばかりは明智光秀の時代であった。第六天魔王を本能寺にて討ち滅ぼし、その頂の座を攫ったことで、謀反人でありながらも、その裏腹で賞賛された。

 しかしそれも束の間、高松城たかまつじょう攻めから異様な速さで帰還した羽柴秀吉が、軍勢を携えて明智を攻めたのであった。のちに『中国大返し』と呼ばれる仇討劇である。

 これにより、山崎の戦において秀吉に敗北した光秀は、後に逃走先の伏見で、落ち武者狩りによって命を落としている。かくして『主の仇を討った男・秀吉』は瞬く間に信長に次ぐ英雄となり、今や天下統一を目前にした大関白となったのだった。

「関白関白って、彼のいないところに来てまで、そう呼ぶことはないよ」

 御影の花唇からこぼれたのは、女のものと同じく、かすかな葉擦れの如き声である。

「僕らは伊賀隠密衆、金を出す相手にはそれなりの敬意を示す。けれど、それだけさ」

「関白様はわたくしたちを救ってくださいました。慕うのは当然の事でございます」

 女は消え入らんばかりの声の中に、僅かに、御影への反意を滲ませる。

「織田による伊賀攻めで行き場をなくした私たちを、拾ってくださったのが関白様。我ら隠密衆の頭領でありながら、貴殿は恩に報いる気はないのですか」

 女の言葉に、頭領である御影の貌から、穏やかな微笑みが消える。

「君は甲賀に生まれてくるべきだったかもしれない」

 軽蔑とも、賞賛ともつかぬ、溜め息の混じった言葉が、御影の口から零れ落ちた。

 『忍び』の流派は、日本全国の規模で考えれば数え切れぬほどある。しかし忍びというものを二大勢力で分ければ、それは伊賀流いがりゅう甲賀流こうがりゅうの二つになる。甲賀流は忠義に篤きを美徳とし、一人の主に命を賭して尽くす。しかし一方で、伊賀流は賃金契約をすべてとする思想があった。言ってしまえば、銭以上の関わりは持たない。礼儀も忠誠も仕事も、出された銭次第ということになる。ゆえに、伊賀者とは甲賀者に比べて、薄情な一面があった。僅かな領土をめぐって伊賀者同士で殺し合うこともある。

 この女は伊賀の出であるが、思想はまるで甲賀そのものであった。

 甘味処に集うこの一団も、もとは伊賀攻めから逃げ伸びた伊賀流忍者であるが、今では羽柴秀吉によって拾われ、隠密として秀吉の手足となっている。

 その隠密の一団の中でも、とりわけ御影は重宝されていた。この『御影』という名も、羽柴秀吉が、この隠密の頭領たる男を『自分の影』と称したためにその名が付いている。

「……信長の首を獲ったら、あの猿のもとへ帰らなくてはならないのだね」

 御影の口ぶりには、落胆の色が強く浮かんだ。

 関白・秀吉と言えば、天下人の中でも珍しく、衆道には興味を示さぬ無類の女狂いである。それでも時折、御影を見る眼には情欲の色が浮かぶ事があった。

『そなたが女であればなあ』

 関白の言葉が、御影の脳裏をよぎる。

『そなたが女であれば、側室にできたものを……』

 それは、御影を褒める賞賛文句のおまけであった。

 美貌に加えて、隠密の中でも優れているだけでも、御影は重宝されている。しかしその傍ら、何度も関白に呼び出され、直接仕事を与えられるその理由には、紛うことなき『寵愛』があったと言えるだろう。

 それでも関白が御影に手を出さぬのは、やはり、「女ではないから」という理由に他ならない。

 そういうわけで、城に帰って関白の顔を見るのは、御影は気が進まないのである。

 昨年には、既に信長の小姓であった、森蘭丸を見つけて始末している。

 残るは信長、ただ一人なのだ。

 しかしその肝心の信長が、見つからないのである。

 小姓の蘭丸は、幸いにも安土を歩く姿を隠密に見られている。だからこそ、早く始末することができた。

 だが実際は、安土の外――日の本全土を捜索範囲として考えた場合、それはあまりに広大すぎる。乾草の中から糸くずを探すようなものである。

 蘭丸が拷問されても口を割らぬであろうことは、存じていた。ゆえに生け捕りにして信長の居場所を聞き出すような真似はせず、殺したのだ。仮に蘭丸を生け捕りにしたとして、信長の潜伏する先を素直に吐くとは考え難い。

 どちらにせよ、信長を見つけることは難しかったであろう。

 安土周辺から波を広げるように、国々を回って信長を探すしかなかった。

 蘭丸の抹殺から、もう一年が過ぎている。関白も、他の隠密たちも、もう痺れを切らしているだろう。

「もうこれ以上、悠長に信長を探している暇はございませぬ。御影さまが関白様をお嫌いになるのも、分かりまするが―――」

「大丈夫、関白様から逃げるようなことはしないよ。さっさと信長の首を持って帰ろう」

 女の言葉を遮り、御影は空になった茶器を傍らに置いて立ち上がる。

 他の隠密どもがこうも急かすのは、なにも事を急いているから、という訳でもない。隠密衆の若き頭領であり、関白への他言を許されている御影だけに、他の隠密との待遇差は歴然である。日々の不満も募ってであろう、御影の好き勝手に動かれるのが気に食わないようである。

(軽薄な連中)

 あからさまに不満げな『仲間』に、御影は穏やかな表情の裏で、うんざりする。

 もとより伊賀者は、仲間よりなにより利益を重視する連中である。まだ年若く、弱竹のような美貌の男が、自分たちよりも優遇されるのは、きっと見ていて不快だったに違いない。

(いつか殺してやろうかな)

 御影は思うのである。

 決して、不可能な話ではない。まだ伊賀者同士が小競り合いを続けていた時代は、御影も幾度となく、同じ伊賀者を殺している。仲間を殺すなど造作もない。しかし、関白のもとで『隠密衆』として動いている以上、連携の輪を乱せば面倒な事になる。

 手間を増やさぬためにも、凶刃は抜かないでおいているのだ。

 御影は傍らで、自身の身に立てかけておいた笠を被る。

 信長の首をとるのも、関白のもとへ帰るのも、御影にとっては億劫である。しかし、その足取りは、妙に弾んでいるのだった。

 仕事は面倒であるが、その実、御影には一つだけ楽しみにしている事がある。

 恋、であった。











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