欲しい。
昨日の獣道を通って歩いてゆくと、右手に苔むした岩肌が見える。さらに進んでみれば、壊れて草の芽吹いた椅子や、太い柱のようなものが、岩肌のそばに転がっている。
(関所の跡か)
道をゆく信長は、朽ち果てた関所の残骸に一瞥をくれる。
信長が関を廃止する以前までは、公的な関以外にも、勝手に作られた関所もあった。人が少しでも通るような場所に指摘に関を作り、私腹を肥やしていた連中もいる。
関所を無断で破れば厳しく罰せられ、旅人や商人の行き来も、今に比べれば当時は少ないものであった。
(関を廃止しておいてよかった)
信長は安堵した。
自分の作った法に救われるとは、楽市楽座を築いた当時の信長は夢にも思わぬだろう。
朽ちて苔むした柱は、かつては鳥居のように組まれていたらしい。無理に壊したのであろう、人工的に整えられた柱の一部が、岩肌を背にそこかしこに転がっていた。
関所がかつて、そこにあったということは、既に信長の足は美濃の土地を踏んでいるらしい。
ようやっと、美濃までたどり着いた。
美濃は織田家の傘下にある.
安土城に帰るまでもなく、織田家の家臣に当たる者との接触を図る機会も、無くはないと言える。
しかし、かといって油断はならぬ。
美濃にいる織田家の家臣一族には、蘭丸の家系に当たる森氏や、半兵衛の属する竹中氏、それ以外に織田氏にゆかりある者もいる。だが一方で、光秀の血筋である明智氏や、その明智氏と繋がりのある濃姫の血筋、斉藤家もまた美濃の者である。
織田家は信長の代より数多くの家臣を抱えているが、その実、敵も多い。綿と向かって歯向かう者だけでなく、殺意や野心を腹に抱えたまま、家臣として仕えていた者も少なくはなかろう。
現に、明智氏から出た家臣である光秀の手によって、信長は今、ここまで堕ちている。
さらに言えば、もともと美濃の大名である美濃斉藤氏は、信長によって稲葉山上での戦いを最後に滅ぼされている。実質、美濃とは信長が斉藤氏から奪い取った国ともいえる。
斉藤氏にゆかりのある者で、信長を良く思っている者は少ないはずである。同じ血筋の者同士でも殺し合うような乱世。織田の血筋の中でさえ、信長の命を狙っている者は少なからずいるのだ。
信長の顔を知る者も、美濃に入れば多くなるだろう。
それがもし敵であるなら、信長はまさしく棚から出たぼた餅である。
大軍も側近も持たぬ弱った老いぼれひとりなど、殺すのは容易に違いない。
(この娘が、もう少ししっかりしていたらなあ)
信長は笠の陰から、隣を歩く小娘を見下ろす。
夕立は武に関しては優秀に違いない。しかし、少々威光や執念に欠けている。
まっこと強く立派な武人とは、みな豪傑であった。眼力で人を射すくめ、鬨の声で地を揺るがし、主や己のためならば命を賭して戦う。
夕立には、それがないのである。
小柄で華奢な肢体、丸く大きな垂れ目、気の抜けた話し方。夕立の外見は、どう見たってか弱い少女に他ならない。そのうえ、夕立には忠誠心の欠片もない。
安土まで連れて行ってくれる、利害が一致しただけのおじさん。
この娘にとって、信長とはその程度の男なのであろう。
道中、信長が忽然と姿を消したところで、夕立は『困った』としか感じぬだろう。そして、今の信長のような、夕立に利益を与え得る人物が現れれば、その者について行くのだろう。
刺し違えても、敵の凶刃から信長を守るくらいでなければ、信長は安心できなかった。
(そうはいっても、仕方なかろうが)
信長は自分で自分を叱る。
武家に仕えたこともなく、世間も見ていない小娘に、そのような気高い志を求めたって無駄である。
「――ここから先は美濃、織田の傘下に当たる。油断すまいぞ」
発破をかけるように、信長は夕立に言ってやる。
しかし、案の定、夕立は猫の額ほどの緊張感もない面持ちである。
「第六天魔王が、そこらを出歩いていればうれしいのです」
「―――で、あるか……」
日がな一日、第六天魔王がそこらの農道を歩いているわけがない。
光のない目に対して楽観的な事をぬかす夕立に、信長はため息を溢す。
織田信長を討ち取るとは言っているものの、夕立からは殺気だとか、怨念だとかいうものは微塵も感じない。
とはいえ、信長が目にした通り、夕立はその気になれば、騎乗した大男すら斬り殺す化物である。
(侮るな)
信長は改まり、警戒する。
この娘は決して、信長の味方ではない。
信長がうまく丸め込み、利用しているに過ぎない。所詮はこの娘も、延暦寺から放たれた刺客である。
刺客である娘はと言えば、前を横切った野兎を目で追いかけ、茂木の葉の間から見える鷹の滑空を眺めながら歩いている。
「ちゃんと前を見て歩かぬか」
足元を見ぬがために、蹌踉な足どりの小娘を、信長はぴしゃりと窘める。
木の根に躓く者、足を踏み外す者、山道でよそ見をする人間は、信長の知る限りろくな目に遭わない。
「前を見て、足元に気を付けて歩け。転ぶぞ」
信長は、やや注意力に欠ける刺客に言ってやる。
すると、夕立は立ち止り、くるりと信長のいる後方を振り返った。
「転んでも治ってしまいます」
「何を言う」
信長は鼻を鳴らす。
夕立の傷の治りの早さがいかほどかは知らぬが、瞬く間に傷が消えているとは限らない。
転んだ表紙に足でも挫かれて。治るまでの間に襲われればまず助からぬだろう。
いつでも戦えるようにするためにも、夕立に下らぬことで怪我をさせるわけにはいかない。
「貴様が怪我でもして、動けぬようになる」
本音だけを隠して、信長はあたかも、夕立ひとりだけを心配しているような口ぶりで言う。
夕立はその直後、ぴたりと、その場で静止する。
「―――吉法さまは、そのようなことも仰るのですね」
夕立のその言葉は、まるで呟くようである。
「なんだと?」
「吉法さまは、もっとお口が悪い人だと思っておりました」
そう告げる夕立は、ゆらりと脱力した、浮遊霊のような佇まいである。
夕立と吉乃は別人である。
そう分かっていても、信長はその夕立の立ち姿に、吉乃の面影を意識した。
「―――何が言いたい?」
信長は固唾を飲み、問いかける。
夕立が答えるまでの間が、妙に長く感じる。
森の奥から聞こえる、名も知らぬ鳥の声。風が木々を揺さぶる音。何気ない音が、やけに大きく、鮮明に感じる。
「……吉法さまは、思っていたよりも良い方なのかもしれません」
刹那、夕立の頬がかすかに緩み、唇の端が上がった。
好感、というものか。
『吉法』に対する前向きな感情が、その僅かに明るくなった面構えから窺える。
(おや)
信長は手ごたえを感じた。
夕立の心が、僅かにでも自分の方へと傾きつつある。
いいぞ、そのまま寄って来い。信長は心の中で念じる。
そうしていつか、その魔王を斬るための刃を、信長の敵に向けるようになるのだ。
これが例えば、羽柴秀吉や松永弾正のように、狡猾で疑り深い人物であれば、心を染め上げるのも容易ではなかったろう。そういう点では、夕立の無垢さは、信長にとっては幸いであった。無知でもあるがゆえ、教わったままの知識を吸収し、どんな色にでも染められる。
「貴様にとって俺がそう言う男に思えるのなら、俺は悪い気はせんな」
突き放すでも、謙遜するでもなく、信長はほくそ笑んで返した。
夕立の眼に自分がどう映っているのか、その瞬間は手にとって分かるようであった。
燦々と木漏れ日が差す下では、夕立の眼にも光が灯る。
信長の記憶の中にある吉乃とは、似ても似つかない優しい貌であった。
「―――」
信長は暫時、ふと口をつぐむ。
質素で彩のない貌だと思っていたが、こうして優しげに微笑んでいると、幾分か美しく見えるのだった。吉乃も美しい女だったのだから、瓜二つである夕立が美しい娘でもおかしな話ではない。
しかし、光の下にいるからか、夕立の顔はいつになく鮮明である。美しい、というよりも、見やすくなったというのが正しいのかもしれない。
「――わかったら、足元を見て歩くのだぞ。ここで立ち止ってはおれん」
余計なことを頭に浮かべていては気が緩む。
余念を振り払い、信長は立ち止る夕立を追い抜かした。
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