その朝

 *


 信長は飛び起きる。

 目を覚ました信長の視界に、あの鬼女の如き吉乃の姿はどこにもない。洞穴の外からは白んだ光が差し込み、鳥の声もかすかに聞こえてくる。

 朝だと気が付くのに、時間はかからなかった。

 信長は安堵して、再び地べたに寝転がる。

 先ほどの異様な光景は、どうやら夢であったらしい。

 信長は胸を撫で下ろした。

 消えた焚火の向こうには、髪を切り揃えた“夕立”が眠っている。

「―――」

 寝息ひとつたてぬ夕立の顔が、あの吉乃の面影と重なる。

「そう、であったか」

 信長は、誰にともなくぽつりと呟く。

 夕立が似ていたのは、光秀でも濃でもない。

 その顔の作りや、面差しやが、吉乃に瓜二つなのである。

 信長は渋面になり、額に手を当てた。

 ―――時折、夕立を見ていて不気味に感じるのは、吉乃に似ているからか。

 最愛とも呼べる女の恨み言が、いまや他人の空似を目にしただけでも蘇る恐怖にでも、なったというのか。

 信長は刹那、むっとして身体を起こす。

 たかが人ひとりの恨み言など、取るに足らぬ。

 それでも、吉乃の残した咒のような言葉が、鐘を突いたように胸の中でこだますのだった。

 罪悪感とも、緊迫ともつかぬ何かが、信長の心の臓を締め付け、息を苦しく感じさせる。

 この感覚は、なにも初めてではない。むしろ数え切れぬほど、この人生の中で経験してきた。蔑まれ、脅かされ、侮られたとき、いつだってその感覚が襲って来た。

 幼い頃は、実の母や血を分けた弟妹。時が経つにつれ、家臣や下女、果ては自分の女。信長を良く思う者など、織田の傘下にある者たちにさえ少なかった。

 生涯でわずか、心から忠実であると思われた家臣の光秀でさえ、最後には信長を憎み、刃を向けたのである。真に忠臣と思えたのは、蘭丸を含めて五本の指に入るほどしかいない。

(何を今さら)

 信長は心の内で反吐を吐く。

 織田信長は仏の身ではない。 

 第六天魔王である。

 数々の非道を成してなお、自分は好かれたいなどと言うのは、矛盾も甚だしい。帝も、神も敵に回す覚悟で天下統一まで上り詰めたのだ。

 死人の言葉に心が揺らぐようでは、安土に帰ったところで、城主など務まらぬ。

 信長はひとりで威を張ると、冷たい地面に手をついて立ち上がる。

 ともに旅をする男の正体も知らず、呑気に眠っている夕立のそばに歩み寄ると、信長はその身体を強く揺さぶる。

「起きろ、お夕。朝だ」

 呼びかけると、吉乃の生皮をそのまま被ったような顔が、苦々しい表情を浮かべる。

「うう」

 寝苦しそうに呻く夕立など構わず、信長は無理に瞼を開かせる。

「いつまで寝とる気だ。早う起きろ」

 八つ当たりも同然の容赦ない目覚ましに、夕立がようやく体を起こした。

「ううー」

 夕立が重い瞼を持ち上げ、信長を見上げる。

 瞼の下からのぞいた瞳は、やはり吉乃とよく似ている。

 信長は一瞬、夕立の瞳から目をそらした。

「――美濃まで近い。早う起きて、準備せい」

 そう声をかけ、信長は傍で折り畳んでいた羽織合羽をまとう。

 夕立は目を擦って起き上がると、枕代わりに地面に敷いていた頭巾を手に取った。

 頭巾に散った返り血は乾いて赤黒くなり、すでに水洗いもできそうにない。

「持って行くのか」

 信長は、剣呑な気配を放つ頭巾を畳む夕立に、そう声をかける。

 夕立は黙したまま、座って信長を見上げた。夕立の眼は相変わらず、何の感情も移さない。あっけらかんとした丸い目であった。

「よもや、被っていく気ではなかろうな」

 信長は皮肉を言う。

 血の飛沫を散らせた頭巾をかぶって歩くということは、人を斬ってきたと言って歩くようなものである。

 しかし、夕立は信長の皮肉など理解しない。ふと思い立ったように虚空を仰ぐと、

「被っても良いのなら、被っていきたいです」

 と、畳んだ頭巾を抱き締める。

「―――」

 そうだった、この娘はそういう娘であった。

 信長は思い出す。

 この娘には皮肉も冗談も通じない。そのままの意味で、言われた言葉を受け止めるのだ。

「被らんでよい。懐にでもしまっておけ」

「はい」

 信長の言葉に、夕立は迷いなくうなずいた。

 被るか、被らぬか。夕立の中にはそれ以外の選択はなかったらしい。

(捨てればよいものを)

 信長には夕立の思いが分からぬ。

 防寒具にはなるだろうが、血で汚れて人前では歩けぬ。今さら水で洗ったところで、血の汚れは容易くは落ちないだろう。信長にしてみれば、持っていても意味のないもののように思えた。

「その襤褸切れ、捨てられぬ訳でもあるのか」

 信長は思ったことをそのまま問うた。

 思い入れのあるものであれば、多少は捨てることもためらうであろう。

 夕立は頭巾を懐に入れながら、おもむろに立ち上がる。

「智正さまにいただいたものなのです」

 夕立は言う。

 また、あの坊主の話であった。

「よほど貴様は、その坊主に可愛がられていたようだな」

「仲良しだったのです」

 夕立は腰に付いた土を払い、傍らに寝かせていた打刀を腰帯に差す。 

(仲良し、か)

 信長は心底で、その坊主の面を思い起こす。

 本当に愛しているのなら、こんな年端も行かぬ小娘を、ひとりで旅になど出しはしない。ましてや、人の命も軽々と蹂躙できるような男を殺しに行かせるなど、自分が坊主の立場ならありえぬことである。

 夕立は少なからず、その坊主を味方と認識しているのだろうが、信長にしてみれば、その坊主もまた夕立を利用しているとしか思えない。

 利用し、自分の意のままに操りたいからこそ、優しくして甘えさせるのだ。

「それは、よかったな。貴様は幸せ者だ」

 同じく、夕立を利用したい信長は、心にも思ってない甘言を口にする。

 信長の言葉を受けた夕立は、ほんの少しだけ、頬を緩めた。

「なら、よいのです」

 それだけ言い残して、夕立はいまいちど、大きな欠伸をする。

 遠巻きに雉の鳴く声がした。 

 *






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