怪物
*
五徳の上で煮え立つ粥を啜り、夕立はふと箸を止めた。
むっ、と唇を尖らせ、僅かに額に皺を寄せる。
その、やけに物申したげな顏が、信長には気になって仕方がない。
「どうした、その顔は」
信長は箸の先を夕立に向けて言ってやる。
「何か申したい事があるなら、言うてみよ」
そう促してやるが、夕立は首を縦には振らない。しかし表情は不満を隠しきれぬままで、見ている信長の方が心穏やかでなくなる。
「ならばなぜ、そのような渋面をしておる。何か言いたい事でもあるのではないか?」
信長が言及してやると、夕立は山なりに唇を曲げて、渋々と言った体で口を切った。
「人がせっかく作ってくれたものにケチをつけるなんて、いけないと思ったのです」
「この雑炊のことか」
問いかけると、夕立はようやく頷いた。
「お味が濃いのです」
夕立はそう不満を漏らした。
雑炊には塩の代わりに味噌を混ぜてあるが、別段、味が濃いということはない。今いちど汁を啜ってみるが、どうということはなかった。
「そうでもないと思うがな」
信長が呟くと、夕立は確かめるように、もういちど粥を啜る。しかし、渋い面は変わらない。それでも、不味いとは言えないのか、唇を引き結んだまま黙りこくっている。
そういえば、似たようなことが、信長が天下人として生きている間にもあった気がする。どこの料理人だったか、敵軍から捕らえた京の料理人に飯を作らせたところ、ひどく味が薄かった。
思い返してみれば、京の者はみなあのように味の薄い飯を食うのであろうか。
夕立の育った別邸がどこにあったものかは定かではないが、延暦寺もほとんど京に近い場所にある。京風の薄い味付けに慣れていても、おかしくはない。
かといって、これ以上に水を加えれば、かさが増して逆に食べきれなくなる。
(なにを考えとる)
信長は両目を伏せ、深く息を吐く。
食いたくなければ、食わなければよい話である。小娘の好き嫌いに付き合ってやる義理は、どこにもない。
―――しかし、夕立よりはるかに長く生きた“大人”として、小娘の夕立にばかり我慢をさせても後味が悪いように思えるのだった。
「……では、明日はもう少し、薄くしてみるか」
そう小声で言ってやると、夕立は丸い目を殊更に丸める。
「吉法さまは懐の大きいかたでございますね」
夕立はそう言うと、小さな口に雑炊を一口運ぶ。どうやら、褒めたつもりであるらしい。
(小娘が一丁前に世辞を並べる、か)
無神経なことしか言わない印象だったが、夕立がまともに人を褒めようとするのは意外だった。
魔王と呼ばれた信長とはいえ、人から良く言われれば悪い気はしない。
「貴様に、人をおだてることができたとはな」
信長はほくそ笑む。
本音しか言わない夕立に、お世辞など言えるはずもない。今言ったことは、おそらく本音であろう。信長はあたかも夕立が嘘をついたかのような口ぶりだったが、その実、夕立が心から自分を良く言ってくれたことは存じている。
「智正和尚さまが、人を褒めるのは善きことだと教えてくれました」
夕立は言った。
「褒められて嫌な人は居ないと聞きました」
「智生というのは、あの変わり者の坊主のことか」
「とてもいい方です」
夕立の声色は高い。否、もとより夕立は鈴の音のように澄んだ声であるが、今話している時の夕立は、微々たるものだが高揚し、声高になっているようであった。泣きもしなければ、はっきりとした笑顔も見せない夕立だけに、感情の振れ幅は狭いように見えたが、感情が昂ることはあるらしい。
延暦寺の焼き討ちから生き残ったあと、生き延びた者たちと夕立がどのように生きてきたか、信長にはわからぬ。しかし夕立の様子を見るに、その智生とやらは、他の坊主とは別格で、夕立の中での好感度が高いようだった。
「智生さまは、字の読み方や、おあしの使い方を教えてくれました。私が転んだ時も、心配してくれるのです」
「ほかの連中は心配せんかったのか」
「心配する必要もないのです。すぐに治ってしまいますから」
「なんだと」
「傷が治るのが、私はとても早いのです」
思わず問い返した信長に対して、夕立は平然とした面構えである。
「転んでも、かすり傷なんかは、五つ数えれば治ってしまいました」
夕立はそう言うと、自身の袴をたくし上げる。
少女の右足は、その顔と同様に白く、滑らかである。しかしその膝小僧には、胡麻を降りかけたような小さな古傷の跡があった。傷の治りは早くとも、完全に消すことはできないらしい。
それにしたって、奇怪な話である。夕立の身のこなしを見ただけでも、人並み外れているというのに、今の話を聞いてはさらに奇妙だ。
「それでは、まるで人ではないようではないか」
信長は言う。
夕立の言葉を信じていない訳ではない。夕立が常人でないのは、既にわかっている。自分の目でも確かめた。今までも、自分の立つこの地は平らではなく丸いこと、海の先には肌の黒い人間がいること、とうてい本当とは思えぬ真実があった。
しかし、夕立のいうことが本当であれば、あまりに都合がよすぎるのである。
夕立は大馬鹿だ。世間を知らず、騙されやすく、単純で、世で生きていくにはあまりにも脆く、弱い。それなのに、重量の打刀を軽々と扱い、高く飛び跳ね、傷を早く治す。それはまるで、戦う以外に能がないようであった。
(俺を殺すためだけに、生まれたとでもいうのか)
そうであれば、夕立は哀れな子どもだ。
信長は自問自答する。
もしも、神とか仏とかいうものがいて、それが信長を殺すためだけに夕立を生かし、力を授けたというのなら、夕立とはあたかも使い捨ての懐紙である。
(まさかな)
信長はみずからを嘲笑する。神仏の存在を認めていない、とは言いきれぬが、神仏の救いなどというものは信用していない。救いというものがあるなら、『天下布武』なるものは必要ないだろう。
いつの世だって、こういう怪物じみたものは生まれてくる。狐から生まれた子どももいれば、常人では到底扱えぬ大太刀を操るものもいる。現に家臣の秀吉は、指が六本あった。
「人ではない……」
目の前にいる人外の娘は、鸚鵡返しに呟く。
「同じような事を、言っている方がいたような気がします」
夕立の眼は、信長と対峙している。しかし、見てはいない。目はあっていても、信長を見ているようではなかった。
記憶を辿り、思い出そうとしているふうだった。
これほどまでに妙な子どもを、恐れぬものの方が少ない。夕立が育った別邸とやらにも、何人かは、夕立を怪物として恐れていた者がいたのであろう。
「それで、何か?その智正とかいうやつは、貴様に親切だった。それで貴様も、そやつに懐いているという訳か」
「智正さまは私の味方だったのです」
そのとき、夕立は唐突に視線を落とした。
「いろんなお話をしてくれて、遊んでくれて、路銀も、刀も、服も……」
次第に、夕立の声が小さくなった。
そのうち、何も話せないようになって、夕立は完全に口を閉ざした。
「――智正さまは、善人なのです」
夕立はそれだけ言うと、手にした椀に口をつけ、いそいそと掻き込んだ。
「なにが言いたいのだ」
信長は問いかけるが、夕立は答えない。
さきほどまで機嫌がよかったようだったのに、一瞬で沈んでしまった。何の前触れもなく急に黙りこくられては、信長も気分が良くない。
「言え、どうした」
もういちど声をかけるが、夕立は椀を持ち上げて、顔を隠したままである。箸が椀を掻きまわす音だけが、沈黙の中でこだましている。
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