外伝・森蘭丸
森蘭丸が安土にたどり着いたのは、上野から旅をつづけ、およそ半月後の事であった。
師走の雪が、体を芯から凍えさせる。毛の先まで凍結するような寒さだった。
逸話通りの細身で、色白な蘭丸にとって、冬は苦手な季節でもある。
蘭丸は安土へ続く山道を、さくさくと突き進んだ。
世間では、蘭丸は明智の配下、天野源右衛門によって討ち取られたこととなっていると、道中に耳にした。ゆえに蘭丸の中にある緊張は、本能寺を逃げ出した当初よりも、幾分か安堵している。
庶民から天下人まで、織田信長と森蘭丸は鬼籍の人となったと確信しているであろう。
死んだのは蘭丸ではなかった。源右衛門の槍によって命を落としたのは、兄弟の中でももっとも蘭丸によく似た弟・長隆であった。
蘭丸は、信長が幾人もの影武者を使役していたように、弟を第二の蘭丸とした。
弟の命を犠牲にする結果となったが、信長の命を救い出すことはできた。本能寺の変から三年の年月が経ったが、これで城に着けば、信長を迎えに上野へ行くことができる。
安土までこれば、あとはいつものように顔を隠し、城の門をくぐるその時まで、息を殺して安土城へ向かうだけだった。
(しかし、城は今どうなっている)
蘭丸にはひとつだけ、払拭できない不安がある。
城の安否であった。
信長の死が世間に知れ渡っているのは明白だが、城主亡き城が、三年の歳月を無事に生き延びているだろうか。信長は権威の数だけ恨みも多く買っている男である。
光秀や他の軍に攻め落とされていてもおかしくはない。
三年前、信長が城を開けたあの日は、蒲生賢秀(がもうたかひで)が留守居役として城に留まり守っていた。しかし今思えば、あれも機会があれば謀反に賛同していたかもしれない。
探せば探すほど、かつての信長の家臣たちが敵に思えてくる。
(信長さまの人望を疑うのか)
蘭丸は我に返って、一瞬でも、「ああいう方だから」と納得した自分を叱りつける。
だがその一方、信長という男になぜ敵が多いのか、心底ではしっかりと理解をしているのだった。
仕えたからには最後まで守り通さねばならぬが、信長はお世辞にも「好かれる男」ではなかったと言えよう。時折は蘭丸にも理解できぬ突飛な行動をとり、いきなり家臣を殴りつけ、いちど恨めば、敵方の女子どもまで根絶やしにする。なにもそういった苛烈な行動は信長に限っての話ではないのだろうが、そういう君主は多くの畏敬と共に、恨みを買う。
いつなんどき、その寝首を狩られてもおかしくはなかった、というのもまた事実であった。
しかし、それにしても、蘭丸にはひとつ解せぬ事がある。
謀反を起こした張本人である明智光秀の事だった。
本能寺の変から幾年もさかのぼり、いつの日だったか、光秀が飯を食いながら何か考え事をしていたのを見た事がある。それはもう深く考え込んでいて、自身が箸を落としたことにも気が付かぬほどでもあった。
当時、蘭丸は、光秀が何か企てていると怪しみ、信長に告げたが、その時は取り合ってもらえなかった。しかし、それからは特に何事もなく、光秀も従順な家臣のままだった。
信長は光秀には殊のほかつらく当たる事があったが、合理的で冷静な光秀は怨念を眼にも表出させず、謀反を起こすその日までは忠犬そのものに見えたのも、蘭丸は覚えている。
思えば、冷静な光秀が、積もり積もった恨みに駆られて謀反を起こすのもおかしな話のように思えた。
それこそ、確実に信長を討てる勝機でもない限り―――誰かにそそのかされない限り、光秀は謀反を起こす気になどならなかったのではないか。
今歩いている山道に木漏れ日が溢れだすように、蘭丸の中に生まれた疑惑が決壊する。
もし光秀が、何者かに教唆されて謀反を起こしたのだとすれば、いったい誰がそのような事をしたのだろうか。
雪を踏み鳴らす足音も耳に入らない。
蘭丸の頭の中には、両手の指には収まり切らぬほどの顔が浮かんでいた。
信長の家臣はもとより、明智氏にゆかりのある濃姫ですら疑わしい。
(兎にも角にも、城へつかねば)
蘭丸の足並みが早くなった。
前方から笠をかぶった商人が、横一文字に列を成して歩いてくるのが見える。
狭い山道で横に並ぶとは迷惑な連中だ。
蘭丸は頭に巻いた手拭いを深くかぶり、うつむいて、道の脇を歩いた。陽気な商人たちが、大きな声で高らかに笑いながら横を通り過ぎてゆく。蘭丸は通り過ぎるや、再び駈け出そうと大きく踏み出した。
その刹那、蘭丸の脇腹に、疲れたような痛みが走った。
「あがっ」
重く素早い一撃に、蘭丸は整備された道から、脇の藪へと吹き飛ぶ。
目の端に映ったのは、蘭丸めがけて杖の先を突き出した商人の姿である。藪の中を突き抜け、木がぼうぼうと生い茂る山中に放り出され、蘭丸は脇腹を押さえてうずくまる。鈍痛が脇腹の奥に染み込み、息をうまく吸えない。
予想もしていなかった痛みに、思わず、開いた口から涎が垂れた。
「痛むかい」
不意に、優しげな声が上から降ってくる。
蘭丸が顔を上げると、先ほどの商人たちが、餌を見つけた山犬のように蘭丸を取り囲んでいる。
「お、まえは」
蘭丸は重苦しく声を絞り出す。
蘭丸の目の前にいる商人は、儚げな美貌の男である。その男の貌には、見覚えがあった。城下町ではなく、城にて見かけた事がある。誰の下にいる男かは知らないが、織田家に繋がりのある家臣の手のものであろう。
「信長の小姓だと聞いていたから、弱くはないと思っていたけれど―――。逃亡生活で業も鈍ったかな」
穏やかな微笑みを浮かべる男は、優しい顔で嘲笑する。
それにつられて、周りの商人たちも、笠の下で静かに笑声を溢した。
「くっ」
蘭丸は額に青筋を浮かべ、懐に忍ばせた短刀を抜き放つ。
「―――その物言い、私を何者か知っての事か」
「確信がなければ、こんなことはしない。君を探していたよ」
男は蘭丸の刃を見ても一歩も退くことはなく、手にしていた杖を両手で引っ張った。すると、木の杖は二つに別ち、その間から銀光がこぼれる。杖の中に、刀が忍ばされていたのである。
周囲を囲む商人たちも次々と懐に手を伸ばす。そこから出されたのは、いずれも小刀や鎖鎌である。中には苦無を手にしている者までいた。
「忍びか……」
蘭丸はため息を吐くように呟く。
「ああとも、ずっと探していたよ。君と、君の主を」
男はあたかも、失くした銭袋でも見つけたような口振りであった。
織田家の家臣には、忍びから引き抜いた隠密を抱えている者もいると聞く。織田の家臣に謀反人がいるのなら、こういうものが出てきてもおかしくはなかったかもしれない。
「誰の差し向けだ」
蘭丸は怒気を孕んだ声で問う。
「おや、見当はついていないのかい。てっきり、信長にはとうにばれていたかと思ったよ」
よく喋る忍びである。
蘭丸は眼前にいる優男の前で剣気を研ぎ澄ます。
しかし、短刀を構えていても、蘭丸の背中は粟立っていた。
商人たち―――特に眼前にいる美貌の男から放たれる殺気は、尋常でない。優しげな面立ちをしていながら、眼はしっかりと蘭丸の首を狙っている。
抗うそぶりを見せていながらも、蘭丸は腹の底では怯えていた。眼前の男ひとりでも危ないというのに、周りにも手練れと思わしき者が五人。
蘭丸が弱くないとしても、生きて逃げられる望みは薄かった。
「しかし、君一人とは思わなかったよ。主は一緒ではないのかい」
男がそんなことを訊いてきた。小姓の蘭丸が口を開くとでも思っているのか、それともおちょくっているのか、男の語調はやはり軽い。
「信長さまの居場所は吐かぬぞ」
「―――だろうね」
血を吐くように唸った蘭丸に対し、男は脱力してまたも微笑んだ。
素早い蘭丸が一歩でも踏みだせば、蘭丸の構えている短刀は男の喉を食い破るだろう。そんな状況でも、悠々と微笑んでいる男が、蘭丸には異様に恐ろしく感じた。
「怯えているね」
蘭丸の心の内を見抜いたか、男は諭すような口調で言う。
諦めてなどいない。そう言おうとしても、食いしばった歯が邪魔で口を開けない。
何者が差し向けたかもわからぬ隠密に、命を奪われるのか。
恐れと、諦めと、悔しさで、奥歯が震える。
(信長さま)
蘭丸が心の内で叫ぶのと同時に、狂人を抜き放った男がゆるやかに刀を構えた。
「安心したまえ、雑に殺しはしない。―――生首は美しいまま、太閤様の前に飾ってあげよう」
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