無垢
*
宵と夕焼けが、空の中で混ざって夜の訪れを伝える。
どこぞで餌を啄んできたのであろう鴉たちが、不穏な羽音を立てて空を舞う。この辺りの木々にとまって、ひと休みでもする気だろう。
これから訪れる夜の事を思うと、信長は気が滅入った。
昼前までは大通りが山の中に走っていたが、路は次第に細くなり、とうとう、人が踏み鳴らして平らになっただけの獣道が、行く先に残った。どうやら、また野宿をせねばならぬらしい。
巳の刻から歩き通して、いまは暮れ六つである。美濃の中津川(なかつがわ)までは、あとわずかであろう。このまま夜になるまで歩き続ければ、美濃に入ることができるやもしれぬ。
しかし、灯りもないまま、整備されていない道を歩くわけにもいかない。
「今日はここまでにしよう。もうじき日が暮れる」
信長は、これだけ歩いたにもかかわらず、疲れた様子もない夕立に声をかける。
夕立は声も出さず、首だけを縦に振った。
夕立の応答を見て、信長は周囲に目を凝らす。
ぼうぼうと木々の生い茂った森の中ではあるが、そこかしこで岩肌が剝き出しになっている部分もある。いま、自分が立っている場所は、整備こそされていないものの踏みならされ、草が潰れて平らになっている。少なくとも、ここを行き来している者は一定数いるらしい。
「む」
信長はふと眼を瞠り、人の踏みならした一閃の道から、雑木林の奥へと足を踏み出す。夕暮れ時ならではの、蜜柑色の木漏れ日が差し込み、森にはいくつもの陽の柱が立っていた。
その木漏れ日の光が助けとなって、薄暗い森の中でもその光景を鮮明に目に映す頃ができる。
あちらこちらで、山の土や岩が隆起したような地形であるためか、凸凹が多く不安定である。しかし、その隆起した岩肌に、ぽっかりと穴の開いたような影がひとつ見える。道から外れて、約一町の半分ばかり先の場所に、そこはあった。
信長は足を踏み出して、その穴へと進んでみる。草木を掻き分け、茂みの中から飛び立った鳥を横目に、岩肌にあいた穴は、遠巻きに見るよりも大きく、広い。穴というよりも、小ぶりな洞窟のようである。
幅は九尺あまり。丈は少し低く、信長が直立しただけで上に届く。若干、五尺と幾寸ばかりであろう。丈は低いが、奥行きは五丈ばかりと長い。奥に進んでみれば、丸石がいくつも置かれ、目を凝らすと、そのそばには小さな骨や椀が捨てられている。人為的に掘られたもののようであった。
遠い昔か、それとも最近か、人間がここに何らかの用途で穴を掘り、それ以降、旅人がここに寝泊まりをしている。そう考えるのが妥当であろう。
「洞穴でございますか」
背後から上がった声に、信長は思わず肩を跳ね上げる。
振り返って見れば、夕立が信長の真後ろに立っている。足音も聞こえなかった。
「忍びのような真似はよせ、気配が掴めん」
信長は夕立に言ってやる。
思い返してみれば、羽柴や斉藤も、不気味な間者を召し抱えていた。どこからともなく霧のように現れては消えてゆく。「草の者」とも呼ばれていたような気もする。
足音はすなわち、存在証明としての手段の一つである。足音を強く踏み鳴らし、鬨の声を上げることで、兵は敵対する者を恐怖に陥れる。『強者はここに居る』と、敵に知らしめることができる。その者が、そこにいると知らせる足音は、路を歩く時にも、共に来ている者とはぐれぬためにも必要になる。
戦術としてそうするならまだしも、なんでもない時に妙な術を使われては、肝が冷える。
「鳥や獣たちも体を休めているので、起こすのは申し訳ないと思いました」
夕立は反論でもしたつもりなのか、そんなことを言い出す。
相も変わらず、信長の優先順位を最下位にしているとみても、おかしくはない理由である。が、いちいち夕立の言うことの腹を立てていてはきりがない。
「――せめてひと声かけろ。肝が冷えるわ」
冷静になって、言い捨てる。
信長の心など知りもしない夕立は、怒られなかったのに気を良くしたのか、
「では、そうするのです」
と、小指の先ばかり、口角を上げた。
俺と獣畜生と、どちらが上なのだ―――。
そんな本音を、信長はごくりと呑みこむ。
この世のどの武将よりも、時の帝よりも、信長は上位であった。
しかし、それは『天下人』としての信長だったから、であるに他ならない。今のように落ちぶれ、家臣もいない信長など、何の権限も持たない。しかも、夕立は信長を『旅のお供をしてくれる壮年の男』程度にしか思っていないように見える。
そんな小娘に、『俺と獣とどっちが上なのだ』などと訊いたところで、答えなど明白である。これが安土の城の中であれば、皆が口をそろえて、
「御屋形様でございます」
と、言ったであろうに。
どういう訳かは知らぬが、獣に親しみを感じている夕立からすれば、短気で老けた男などよりも、獣の方が優先されるべきものであるのだろう。
「今日はここで眠るのですか」
信長のことなどさておき、夕立は、火を焚いた後と思われる焦げた木片を拾い上げる。
「ここなら雨もしのげそうです」
夕立は心なしか弾んだ口調になり、早速、洞穴の外へと駆けだすと、辺りに落ちていた小枝や枯れ木を拾う。
この娘ときたら、雨さえ凌げればよいらしい。腕いっぱいに、木枝を抱え、懸命に穴の奥まで運ぶ夕立の姿は、さながら子どものようである。子どもなのか大人なのか、夕立はどっちともつかない。
どちらの影も見える。
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