善悪




 道の両側に並ぶ店には目もくれず、信長は夕立の手を引いて、突っ切るように市を出た。

 しばし歩いて、市から三間ばかり離れると、信長は夕立の手首を離す。

「なにを考えとる。女郎屋なんぞ子どもの入るところではないぞ」

 信長は低い声で叱りつける。

 しかし、当の夕立はぼんやりと宙を仰ぐだけで、信長の声など聞きもしない。

「夕立、きいとるのか」

 うわの空の夕立を、信長はひときわ強く呼んでやる。すると、

「私は子どもなのでしょうか」

 夕立がおもむろに口を開いた。鬱々たる光のない眼で、語調も心なしか沈んでいる。

「子どもだろうよ、どう見たって」

 信長は断言する。背も低く、体格も華奢で、傍から誰が見たってちんちくりんの小娘である。

「―――」

 夕立はしばし、視線を落として考え込む。

「あの女の人たちは、なぜあのような場所に?」

 ふと、小娘はそんなことを言い出す。女郎屋というものを知らないらしい。無垢な小娘には縁もないような話だが、いずれは汚いことも知る必要があるかもしれない。

「男が金を出して、女を買うからだ」

 信長は教えてやる。

「売られてきた女が、女郎屋で買われ、抱かれて金を稼ぐのだ。まあ、あまり善いこととは言えんがな」

「抱かれる……」

「貴様にはまだ早いことじゃ。言葉だけ覚えておけばよい」

 どうせこの小娘には縁遠い事だ。

 だが、詰まらぬ男の口車に乗せられ、ああいう場所に売られることが、無いとも言えぬ。女を使って稼ぐ男がいるということを、知っておいて損はしない。

 それにしても、女体に溺れ金を湯水のように使い続けた延暦寺の連中が、夕立にそういうことを教えなかったことは心外だった。焼き討ちを受けて、少しは懲りたのだろうか。信長はそこに関してだけ、感心する。

「―――善いことでは、ないのですね」

 夕立の語調はやはり沈んでいる。

 さきほど厳しい言葉で追い立てられたことが辛いのか、女郎屋の女たちを哀れに思っているのか。どちらであるかは定かではないが、所詮、安土までの旅に影響することではないだろう。

「先を急ぐぞ。つまらん連中の事をいつまでも気にかけていては、日が暮れる」

 


 *


 夕立はずっと、どこを見るとも知れぬ目で虚空を仰いでいる。

 落ち葉を踏み、足が地に落ちた小枝をへし折る音ばかりが、耳に滑り込んでくる。幸いにも、舟覆伏山の周辺には、山間に整備された道があり、そこを通って中津川へ移ることができる。

 山中の獣道と違って体力の消費が少なく、旅をする側にしてみれば、方角を確かめることもしなくて助かる。道が整備されているということは、この道沿いには人の住む場所もあるだろう。運が良ければ、宿場にでも入って野宿を免れられる。

 しかし、人通りが多ければ、それだけ人目にさらされることにもなる。いつなんどき、信長の首を狙う者に、すれ違いざま刺されてもおかしくはない。

 そんなときのためにと夕立を仲間に引き入れたというのに、当の夕立は、心ここに在らずといった様子で使い物にならない。

「――おい、小娘」

 魂の抜けたような顔を擦る夕立に、声をかけてやる。しかし、夕立は耳にも入っていないようである。はいとも言いやしない。

「――夕立」

「……」

「――こら、お夕」

 はずみで、肩を突いて呼んでやる。

 すると、ようやく夕立は我に返り、隣で歩いている信長の顔を見上げた。

「お夕?私は夕立です」

「略だ。こちらの方が呼びやすい」

 信長は言ってやる。夕立という名では、まるで大雨の名称を連想とさせる。それを風流という貴人もいるのだろうが、少なくとも信長にとっては陰鬱に思える。

 家臣にあだ名をつけるのが好きだった信長だけに、呼び方を考えるのは苦にならない。

「お夕―――」

 夕立はしばし考えて、簾のような髪に手を振れる。

「可愛らしいので、お夕でもいいのです」

 夕立はわずかばかり、口角を上げて微笑んだ。

 物事にはほとんど関心のない娘だと思っていたが、やはり、少なからず娘らしい感性は持っていたようである。

 さきほどまで人魂を吐き出したような顔をしていたくせに、夕立という娘は回復が早い。

「急に魂が戻ったな」

 信長が独り言のように呟くと、夕立がふと首をかしげる。

「魂が抜けたら死んでしまいます」

「物の例えじゃ。ぼうっとしとったろう」

「ぼうっと……?」

 夕立は思い返すようなそぶりを見せる。

「確かに、していたような気がします」

「何を考えておった。よもや、あの女郎屋でのことを、未だに引きずっとるのではあるまいな」

「―――」

 夕立の眼が揺れる。動揺しているようだった。

 やはりそうであるらしい。

「女郎屋なぞ、どこにでもある。いちいち憐れんでなどおったら、きりがないぞ」

「いいえ、そのことではないのです」

 信長の冷たい言葉に対して、夕立は平淡な物言いで否定する。

「けっして、そのことでは」

 夕立は言いかけて、口をつぐむ。視線が次第に落ち、思いつめたような面もちになる。

「では、何を考えていたのだ」

 信長は言及してやる。表情がいささか掴めぬ夕立だけに、口からものを語られなければ、なにを思っているのかもわからぬ。

 問いかけられた夕立は、しばし信長を真摯に見返す。

「―――男が女を欲するのは、病だから、床を供にすれば直ると聞きました。それは人助けの類だから善いことだと」

「そんな戯けた話を、誰に聞いた」

「私が育った別邸で、お坊様がたが教えてくださいました」

 そう語る夕立に、信長は唇をへの字に曲げる。

 どういった経緯でそのような話を聞かされたのかは存ぜぬ。だが、少々嘘を孕み過ぎている。

 確かに、女郎屋の女たちがすることは「いいこと」である。だがそれは『利益』としての良い事であって、徳や善行としてのものではない。夕立のような小娘に男女の事などまだ早いが、曖昧にするにはあまりに話が不適切すぎる。

 夕立のような単純な小娘がそのような話を聞けば、『善行だから』と誤った道に踏み入りかねない。

「しかし、女郎屋とやらで見かけた女の人は、誰ひとり明るい顔をしてはおりませんでした。みな辛そうで、張り詰めていて」

 先刻の状況でも想起しているのか、夕立の声から生気が抜けていく。

「そういうものじゃ。男にとっての楽しみであって、世のため人のためになる事ではないからな」

 馬鹿げた話を刷り込まれた無知な小娘に、信長は教えてやる。知らぬが仏とは言うが、仏敵とも称された信長の知ったことではない。

「だからな、お夕よ。あまり坊主どもから聞いた話ばかりを鵜吞みにするでない。俺がいなければ、痛い目を見ていたぞ」

 赤の他人であるが、信長は親身になったような口ぶりになる。

「貴様くらいの小娘であれば、ちんちくりんでも欲しがる男はおる」

「ちんちくりん……」

「細くて餓鬼のような娘の事じゃ。貴様のようにな」

 信長は不遜にも夕立を指差す。

 夕立は一見しても分かるような小娘だが、肌白く滑らかである。まだ何も知らないであろう無垢な白さを好む男もいる。くだらない連中の話に乗せられて、戦力である夕立を持っていかれてはひとたまりもない。

「だからわからないことがあったら、必ず俺に声をかけることじゃ。知らぬ人間にはついていくなよ」

「吉法さまに言えば大丈夫なのですか?」

「少なくとも、貴様ひとりで解決させるより良かろう」

 信長は鼻を鳴らす。

 夕立は武辺に優れているが、世間を知らぬ阿呆である。

 だからこそ、その足りない頭を、信長が補ってやるのだ。

(それにしても)

 信長は隣を歩く夕立を、まじまじと注視する。

 指を差したときから、感じていたことがあった。

 見れば見るほどに、既視感のある顔である。否、顔というよりも、全体から醸し出される雰囲気に、信長はどことなく覚えがある。

 やはり光秀に似ているのか。それとも、正室の濃姫か。

 恐怖とも、愛着ともつかぬものが、夕立を見つめると、わずかに背筋を舐めるのである。

 光秀も、濃も、これといって信長にとって脅威ではない。天下一の男に怖いものなどあるはずがないのだ。

 そう、心の内で威張ってみても、脳裏をよぎるのは、今まで見てきた人間の冷たい顔ばかりである。

忠臣も、正室も、他の家臣たちも、我が子も、そして母も。

思い返せば、信長に向かって心から従う意向を見せた者は少ない。信長の知る限りは、小姓の蘭丸と、嫡男の信忠ほどだったであろう。

夕立にどことない脅威を感じているのは、よもや、夕立の顔が能面のようだからであろうか。感情が見えぬ、今まで会ってきた者たちのような面をしていたから、恐ろしく感じるのか。

自問自答してみても、やはり答えは出て来ない。

 鳶(とび)の甲高い鳴き声を遠巻きに聞きながら、暫時、信長は自身の顎に手を当てる。薄い無精髭が生えてきたらしい。平たかった顎に、細かい毛先の感覚があった。

「吉法さま」

 ふと、その刹那。

 夕立が、信長の衣の袂を引いた。

「どうした」

「吉法さまが、分からないことは聞けと言ったので」

 夕立は小さな手で、何度も袂を引く。安直なのか、言われたことは言葉通りに実行するらしい。

「――なにを、聞きたい?」

 安直な小娘に、信長は問うてやる。

 夕立は信長の袂を離すと、首をもたげて信長を見上げる。

「第六天魔王は、なぜ延暦寺を焼いたのでしょう」

 何がどうあって、その話が頭に浮かんだのか。

 夕立のその質問は、わずかに信長を動揺させた。

 浅井朝倉攻め、延暦寺の焼き討ち、伊勢長島攻め。信長の苛烈な所業を物語る大戦は、信長により多くの敵を作った。女郎屋の話だとか、第六天魔王に関する豆知識とはわけが違う。自分でも、とんでもないことをしでかしたという自覚があるだけに、話題に出されるだけでも臓物を絞められるような思いになる。

「なぜ今、そのような事を思った」

 声を絞り出し、問い返してみる。

 信長とて、考えもなしに、あのような凄惨な事件を起こしたわけではない。歯向かった多くの者が惨い死にざまを見せれば、それを目の当たりにした水面下の敵は震えあがる。そして、歯向かうことをやめる。そうすることで、無駄な争いを減らせる。やたらに惨い殺し方をさせたのは、そういう訳なのである。

 しかし、やられた側には、そんな話などどうでもよいに違いない。だからこそ信長を強く恨み、鉄砲使いだの隠密だのという者を差し向けてくる輩もいる。

 もっとも、その刺客の一人である夕立は、すでに信長の手中にあるようなものだが。

「――実は旅に出る前に、吉法さまと同じことを言った方がいるのです。知らない人にはついて行くなと」

 夕立は、自身の頭を覆う頭巾を握りしめる。

「その方が、『あの寺は焼かれてよかったのかもしれない』、そう何度もつぶやいていたのです」

「変わった坊主もいたものじゃ」

「はい、変わり者だとよく言われておりました」

 夕立は大きくうなずく。

「私を夕立と名付けた和尚様は、魔王は悪で、仏の道に反する者で、生かしておけば大勢の人が不幸になると仰いました」

「焼かれた側にしてみれば、恨みは深いものであろうな」

「けれど、その方だけ――智徳ちとくさまだけは、私にこっそりとお話してくださったのです。天魔が延暦寺を焼いたのは、なにも悪意ばかりではないと」

「それで、斯様な事を聞いたのか」

 信長は納得する。

 それにしても、延暦寺のような名ばかりの寺にも、まともな坊主がいるとは思わなかった。道に不正に関所を設け、巨額の銭を湯水のように使い、神罰を縦に翳して朝廷に金をせびっては、酒池肉林に溺れていた連中である。

 どの場所にも、異分子というものはいるらしい。否、夕立の口から聞いた坊主の方が、僧として然るべき姿であろうが。

 信長の口は、一瞬、

「天魔が延暦寺を焼いたのは、寺としてあるまじき行為に走り、目に余る荒れようだったからである」

 そう、話そうとした。

 しかし、信長を討ちに行く身である『清州吉法』の口から、あたかも信長を擁護するような言葉が出るなど、矛盾も甚だしい。以前にも、感情の高ぶりに任せて話したばかりに、夕立に疑念を抱かせることになった。夕立が阿呆でなければ、勘付かれていてもおかしくはない。

 自身のしでかしたこととはいえど、延暦寺の焼き討ちは信長にとっての『正義』でもある。決して、悪意からあのような事をしたわけではない。ゆえに、他人から批判されるのは腹が立つ。

 が、ここでまた感情に任せてものを言えば、本末転倒。偽りの名を使い、夕立を騙して供に付けた意味がない。

「―――なにしろ、天魔と呼ばれるだけの男じゃ。敵である浅井氏を庇ったことに腹を立てたのであろう」

 信長は喉まで出かかった言葉を呑みこみ、自分自身の悪口を言う。

「俺はそんな魔王の所業を見て、あやつをいつまでも天下にのさばらせておくわけにはいかぬと思った。だから魔王を討つ旅に出た」

 ありもしない話が、信長の口から息を吐くように語られる。

 それでも、夕立は真摯にそれを聞いては、何度も何度も、師から学ぶ弟子のようにうなずくのだった。

 信長はそんな、愚直な夕立を哀れにすら思う。

 延暦寺から逃げ伸びた坊主どもが、今まで夕立にどんなことを教えてきたのかは、信長にはわからない。しかし、夕立という娘は、良くも悪くも純朴である。人を欺く方法も、人を陥れる知識も、なにひとつ教わらずに育ってきたのだろう。

 ―――そんなことだから、俺のような者に、いいように使われるのだ。

 夕立を哀れにすら思った信長である。 

 今、貴様の横に立ち、あたかも良き師のように語っているこの男こそ、貴様の仇である織田信長なのだ。

(悪いな、お夕)

 信長は腹の底で、冷ややかに夕立を哀れんだ。

 夕立が信長の首さえ狙っていなければ、城に着いた時に、間者にでもして傍に置いてやっただろう。だが、夕立には信長に対しての恨みはなくとも、悪を倒すための確固たる意志を持っている。吉法という男が信長であると知れば、即刻、斬りかかってくるに違いない。

 この娘には、城に入ってからもなお、信長の嘘に騙されてもらわねばならなぬ。

そして自身の首が刎ねられるまで、夕立は、吉法が信長であると知ることはできないのだ。






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