女郎屋
*
安土や京には負けるが、山を下ったところには市があった。
米売りや飯処、酒場に古着屋と店小屋が立ち並び、その外れでは、土の上に茣蓙を敷き、そこで肉や魚の干物、塩や味噌、器を売る商人もいる。道には牛飼いや百姓から、破落戸までが行き交い、喧騒としている。
市が目の前まで来たところで、信長は笠を前向きに深く傾けると、髪の付け根を細かく弄る。
そんな信長の隣では、夕立が忙しなく辺りを見回している。
行き交う者たちは無関心である。誰一人、旅人の恰好をした長身の男と、小柄な少女には目もくれない。旅人がここに来る事は珍しいことではないのだろう。いつもの事であるかのように、市にいる者たちは、自分の用事を優先していく。
そんな周囲の者たちの様子を見て、信長は鼻を鳴らした。
「ほらみろ、誰も貴様を見てはおらんだろ」
したり顔の信長とは真逆に、夕立の顔は不安げである。頭に被っていた頭巾を強く抱きしめ、何度も信長を見上げている。
これほどまでに夕立が落ち着かぬ原因は、川を下って山麓に降りてきた時までさかのぼったところにある。
「市に入ったら、すこし買い足しに行く。貴様は頭巾を外して、畳んでおけ」
信長は後ろを歩いていた夕立と並び、そう命じた。
「返り血の付いた頭巾など物騒だからな。市を出るまでは、それは畳んで持っておれ」
「でも……」
夕立は頭巾をより深くかぶり、困ったような顔で信長を見上げた。
「あの、人前で、あんまり顔を見せてはいけないって、和尚様が」
「何を言う」
信長は、急に怖気づいた夕立の顔を覗き込む。
殺意を漲らした人間が相手でも、決して揺るがぬ無表情が、なぜか頭巾を取る事に対して、僅かに怖気づいている。
「貴様、俺の前では頭巾を取っておったろう」
「あれは、吉法さまの前だからよいのです」
夕立は頭巾を握りしめ、上目遣いに信長を見上げる。
「吉法さまは、もう他人ではないので……」
「俺以外はいかんのか」
「女とばれるような恰好をして、歩いてはいけないと、和尚様に言われました。知らない男の人について行ってはいけない、とも……」
「ならば、なぜ昨日は俺についてきた?」
「吉法さまは、共に魔王を討ってくれると言ったで、一緒に行った方がいいと思いました」
夕立は不安げな貌で、おずおずと言い募る。
女とばれてはならぬ。
延暦寺の坊主の言いたいことは、信長にはわからぬでもない。
賊にしてみれば、襲いやすいのは男より女である。金品を奪い、犯し、髪が長ければ切り落として売れる。男に比べれば、女は力でも男に劣り、かつ、捨てる部位が少ない。そう言った理由から、女は狙われやすいのである。
しかし、信長にはひとつ、解せぬ事がある。
夕立は大の男三人を、自身は無傷で殺傷できる。そこらの賊など相手にもならぬだろう。女と知られたところで、問題はないはずである。夕立と長い時間を過ごしてきたのであれば、 坊主どもは夕立の実力も知っているであろう。そうでなければ、こんな華奢な小娘ひとりに、信長暗殺などという大それたことはさせぬはずだ。
それでも、夕立は頑なに頭巾を握りしめ、躊躇っている。
「和尚とやらに何を言われたかは知らんが、その頭巾だけは被るな。人を殺しましたと言って歩くようなものだぞ」
「でも、和尚様が、何かされそうになったら斬れって……」
「何も知らん人間が、返り血を浴びた人間を見て平常でいられるものか。市にいる者たちのためにも、貴様それを外すべきだ」
和尚和尚とくどい夕立に、信長は荒い語調で説き伏せる。
すると夕立は、
「人のため……」
と小さく呟くと、渋々に頭巾を取った。
誰かのためになるのなら、自分の嫌な事もいとわぬらしい。
偽善的ともとれる夕立には不満を感じたが、夕立を利用することを考えれば好都合である。誰かのためになると言えば、夕立を釣ることができることが分かったのだ。
「――そうだ、民衆に恐怖を与えずに済む。だから、ちゃんと外すのだぞ」
そうして、夕立は頭巾を外したのである。
民衆の目が自分に向いていないことが徐々に分かってくると、夕立の面差しも落ち着きを取り戻し、あたりの店に興味を示すようにもなった。
飯処の店先で粥や蕎麦を啜る町人を横目に、信長は、飯処の先にある米売りを見据える。視線の先では、空き地に茣蓙を敷いた米売りが、米櫃から升で米を掬って商いに精を出している。
その茣蓙の前までやってくると、米売りが心ばかりと小さく頭下げる。信長は懐から空になった巾着を取り出すと、それを米売りの前に突き出した。
「升に四杯分」
「あい、五文ね」
手慣れた様子で受け答えをすると、米売りの女は米櫃に升を突っ込み、巾着の中に米を注ぐ。
すると、
「うしろのちっこいのは、娘さんかい」
米売りの女が、信長の背後にいた夕立を指差す。
振り返って見れば、夕立は自身の懐から巾着袋を取り出し、いそいそと中を漁っている。
「――いいや。だが、連れだ」
信長は小忙しく少ない銭を漁る夕立の前に掌を翳し、制する。
「少ない銭なら、払わんでも良い」
小声でたしなめ、信長は米売りに、五文を引き替えに米を注がれた巾着を受け取る。
「行くぞ」
声をかけてやると、夕立はおぼつかない手つきで巾着を仕舞い、信長の隣に駆け寄った。
「良いのですか?吉法さまのおあしがなくなってしまいます」
「貴様よりは持っていると思うがな」
信長は鼻を鳴らす。
本能寺にて光秀が謀反を起こした当日。その日は、竹千代もとい徳川家康や、京の公家たちを招いての茶会があった。それは信長の所有する高価な茶器などの披露の場でもある。悪く言えば自慢会のようなものであった。しかし一方で、信長の思惑としては茶会の意図は『権力の誇示』であり、名器を所有し、見せつけることで、自身の権威の絶大さを知らしめることが真の目的であった。
確かに茶は好きだが、そんなものは名器でなく、安い器でも道具が揃っていれば充分に立てられる。よって信長自身が、茶器を好んでいるというわけではないのだった。
茶器でも、刀でも、屏風でも、持っているだけで天下人の象徴になる品はある。絢爛にそびえる安土城も、天下人の手を渡ってきた名刀・宗三左文字も、本能寺に持ってきたいくつもの茶器も、『自身の権威を視覚的に表したもの』になる。所有しているだけで、その力の絶大さを、見る者に示すことができるのだ。
もっとも、信長にとっては、名品とは権威の象徴はもとより、『銭の代わり』という役割も兼ねている。物によっては、茶器ひとつで城を築城できるほどの値が付くという。家臣に褒美として渡すなら、重量な大判箱よりも、軽く持ち運びやすいうえに、大判箱を超える値打ちの茶器のほうがよいというものだ。いわば信長にとって、名品は『非常用の大金』といっても過言ではない。
殊の外、信長は周囲に敵が多い男である。味方ですら、いつ何時だれが謀反を起こすともしれぬ。少数の兵を連れて本能寺に泊まったその日も、「もしや」という予感が、信長の中にはあった。信長がいなくなることで、得をする者は山のようにいる。だからこそ、いつでも逃げ延びることができるよう、大金の代用である名品の数々を持ってきたのだ。本能寺のみならず、遠出の際はいつでもそうしていた。
そして案の定、本能寺にて謀反が起きた。
是非もない。
自分もさんざん、他の武将が治める国を傷物にし、蹂躙してきたのだ。誰に火を放たれてもおかしくはなかった。しかし、反旗を翻したのは、よりによって自分に最も忠実だった家臣・明智光秀であった。
あれほど信長が目をかけ、光秀もまた、心を酔わせたかのように忠実であったというのに、その当の光秀に殺されかけた。よりによって信頼における家臣に裏切られたことが、信長の生への野心に火をつけたのである。怒りに身を任せるように名器をいくつか持ち出し、信長は蘭丸と共に本能寺を脱出したのだった。
そうして持ち出した名器は、落ち伸びた先で金持ちに売るなどして、銭に変えた。ゆえに、旅の路銀は充分にあるのだ。
少なくとも、道を間違えて路銀を無駄にし、銭も残り少ない夕立に心配をされるほど、銭に困ってはいない。
「市を抜けたら、また南へ進むぞ」
信長は遠くにそびえる山を指差す。
「船を覆したような形ゆえに、
信長は舟覆伏山の山頂を指差すと、その右脇に指の先を振る。
蘭丸と共に落ち伸びた時も、そこを通ったのを覚えている。のちに簡易な地図を作り、旅路の際の目印を、時間をかけて暗記したのだ。準備は着実に、実行したときに功を奏する。
「美濃はよいところでした。川の水がとても綺麗です」
夕立が、不意にそんなことを言いだした。
「行った事があるのか?」
「吉法さまにお会いする前に通ってきました。とても大きな川があったのです」
夕立の言葉に、信長はしばし記憶の糸を手繰り寄せる。美濃国には、
『某が、七日のうちに城を築いてみせます』
そう自信を漲らせて言った藤吉郎、もとい秀吉の顔が脳裏をよぎる。秀吉が百姓の傍ら、盗人や忍び紛いの稼業に手を染めていたことは存じている。そういった影の暗躍者についても、いちばんよく理解しているのは、信長の家臣では秀吉ひとりであろう。秀吉の配下には忍びが多く潜んでいる、という話も聞いている。
忍び――殊に伊賀流の元は、山間で生活し、山伏兵法を得意とする者たちであるという。秀吉は築城の際、ただの兵ではなく、その方面に腕の利く手駒を使ったのだろう。
「――美濃は織田の傘下だ。舟覆伏山を越えたら、少し気を張っていくぞ」
あたかも、自身が織田の敵であるかのような口ぶりで告げると、信長は南に向けて一歩踏み出した。
「そういえば、吉法さま」
歩き出して間もなく、夕立が信長の袖を軽く引いた。
「吉法さまは、魔王の事に詳しいのですか?」
「詳しい、な。それがどうした」
「先ほど、私は魔王について知らなさすぎると、吉法さまがおっしゃったので、もっと魔王のことを知りたいのです」
歩きながら、夕立は何も映らない黒目で信長を見上げる。
小娘の癖に、夕立の眼はいつ見ても不気味である。見おろして対峙するたび、息を呑む。記憶の中にある何者かと、夕立の眼が重なるような気がした。
「……そうだな、教えてやろう」
朧に、脳裏をよぎった誰かの面影を掻き消し、信長は一本指を立てる。
「まず初めに、織田信長という男についてだ。奴はとりわけ、剣豪というわけでもないが、安易に倒せはせんぞ」
「九字切りで倒せるでしょうか」
「いや、魔王とはいっても、本物の魔物ではなくてな――。魔王のように恐ろしい気性の持ち主ゆえ、そう呼ばれている。だが、ただの人間とはいえ侮るなよ。奴は刀一本で、棚の中に隠れた人間を棚ごと押し切る」
「棚ごと……?」
「それくらいの腕の力はあるのだ。まあ、ただの貧弱な男ではないということだな」
「強そうなのです」
夕立は目を徐々に見開き、刀の柄に手を置いた。
「吉法さまが物知りな方で助かりました」
夕立は口の端を僅かばかり吊り上げて、微笑む。
「ああ、信長を討つために、俺もひと通り、噂をかき集めて学んだからな」
したり顔になる信長だった。物知りも何も、信長本人なのだから、詳しいに決まっているのだが。
「だが、案ずることはない。奴は戦上手であるが、貴様くらいの腕前の者を相手に、一対一で戦うことはできん」
「戦上手、ですか?」
夕立はそこで、幼子のように首を傾げた。
「でも、なぜ魔王は、明智という人に焼き討ちされたのですか?戦上手なのに」
夕立は痛い所を突いてくる。
悪意のない言葉が信長の胸を貫いた。思わず額に青筋を浮かべる信長であったが、『魔王の命を狙う者』が、魔王の悪口を聞いて怒るのはあまりに不自然である。
「隙を突かれた、というやつだ。寝込みを襲われたのさ」
「魔王にも隙はあるのですね」
夕立は、すぐ隣にいるのがその魔王であるとも知らずに、感心する。
確かに、もしも本能寺で謀反を起こされなければ、いつか本当に、夕立が安土城に来たかもしれない。もっとも、安土の場所も分からぬような夕立が、信長のもとへ来るなど不可能に近い話であるが。
(俺と出会わなければ、蝦夷地まで行っていたかもしれんな)
半ば冗談めいたことを思い、ほくそ笑みながら夕立を見下ろそうとした。
その時はじめて、信長は、隣に夕立がいない事に気が付く。
「夕立」
信長は後方を振り返る。
夕立は十歩ほど後ろで、店小屋を凝視しながら棒立ちになっていた。
「どうしたのだ」
歩み寄って声をかける信長だが、夕立は聞いてもいない。
じっと、店小屋の格子を見つめている。信長が同じように視線を追うと、格子の先には、女たちが座っている。土間に茣蓙を敷いただけの簡素な空間に、着物を着崩した女たちが、脱力して座っている。
女郎屋である。
「なんだい、娘かい。男じゃないなら帰っとくれ」
「それとも、ここに売られてきたのかい」
「初々しい顔して、いやだねえ」
「用がないなら行っちまいな」
売女たちはそう言って、夕立を追い払うように手を振る。すると、それを聞くや、隣で女郎を眺めていた男までもが、夕立に視線をやった。
「おや、新入りかい。まあまあ、よく見れば白くて若い―――」
やましい眼の男が、夕立に手を伸ばす。
その手を、信長は咄嗟に叩き落とした。
「勘違いをするな。ただの連れだ」
程度の低い連中を睨み付け、信長は唸った。女と金は人々の不満を浄化するというが、売る側も買う側も下品では話にならない。金と女に溺れただけの連中が蔓延るだけである。
「夕立、いくぞ」
信長は夕立の手首をつかみ、軽く引く。身が軽いだけに、夕立は手を引かれた方向に足を踏み出した。
*
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