狙う者




  *

 昨晩は無我夢中で山中を走っていたが、幸い、近くに川があったことで遭難を免れた。ちょうど、川の流れを横切るように、東から朝日が昇ってくるのが、木々の間から垣間見える。早朝の眩い陽光が、矢のように木々の間を縫って山林の奥に届いた。

 川の水が下る方向を向いて。左側から日が差してくるということは、川の水が流れる先は、南である。

「ちょうどよいな。下って行けば南に進める」

 信長はひとまず安堵する。

 山に入ると、時おり方角が分からなくなる事がある。悪童と絡んで遊んでいた若かりし頃も、いちど、森に迷いこんで日の出まで帰ってこられなかったことがあった。

 ゆえに、川があったことはありがたい。川は決して上に流れていくことはないため、波の行く先を辿れば、おのずと下山できる。

 あまり人の多い場所に出るのは気が進まなかったが、粥にするために使う乾(かれ)飯(いい)も味噌玉も、もう底を尽きる。小さな市でも、米があれば買い足さねばならぬ。

(兵糧丸でもあればな)

 信長はため息を吐く。

 兵糧丸とは、主に携帯用の保存食として用いられ、少量でも摂れば飢え死にしないだけの栄養が詰まっており、陣中食としても重宝される。米や蕎麦粉から、鰹節、梅、胡麻に酒、果ては砂糖に至るまで、あらゆる食い物を配合して丸めたものであり、まともに食事をとる暇もない状況下で好まれた。しかし、その材料が揃わねば意味もない。

 望みはしたが、信長はあっさり諦める。

「川を下っていくぞ。市でもあれば、寄っていく」

 信長は言うや、さっさと川に沿って足を踏み出した。

 すると、

「第六天魔王は、ここから南にいるのですか」

 と、後ろからついてくる夕立が問うた。

 この娘は、信長の暗殺などという大それたことを企てているくせに、準備というものがなっていない。安土がどこか、どれほど進めばいいかもわからずに、延暦寺を出てきたらしい。

(本当に、この俺を殺す気があるのか)

 敵とはいえ、信長は不安になる。

 延暦寺焼き討ちの凄惨ぶりを考えれば、延暦寺で生き残った者たちの、信長への恐怖と恨みは計り知れぬものだろう。それなのに、あの坊主どもは、夕立に何の準備もさせていないと見えた。

 でなければ、夕立が安土を通り越して、信濃まで来てしまうはずがない。

「ここから美濃を通って、安土まで行く。まだまだ遠いぞ」

 信長が言ってやると、夕立は、

「戻らねばならないのですね」

 と、悲しげに呟いた。

「貴様、安土がどこかもわからず、ここまで来たのか」

「はい。和尚様には、延暦寺から巳(南南東)の方角に行けばよいとうかがったのですが、途中から子の方角に着てしまいました」

 無駄に路銀と体力を使った夕立に、信長は同情さえする。

 安土城は、忍びの襲撃も考慮した難攻不落の城である。城に忍び込んで家臣の手をかいくぐり、信長を討つだけでも至難であるというのに、そもそも安土に着けないのだ。そのうえ、夕立の眼には闘志も怨念もなく、ただ『恩になった人が倒せと言うから、倒しに来た』といった風である。夕立自身からは、織田信長という男への強い殺意も、執念も感じない。

 こんな様子では、信長の暗殺など夢のまた夢である。夕立が旅路の中で、信長の正体に気付かぬ限りは。

「無知、だな」

 信長は呟く。

「貴様は知らなさすぎだ。そんな調子で天魔を殺す気だったのか」

「知らなさすぎ……?」

 夕立は思いつめた様子で、指折り数える。

「名前と、住んでいる場所は知っているのですが、これだけではいけませんか?」

「当たり前だ」

 信長はあまりに未熟すぎる刺客に言ってやる。

「本当に殺す気があるのなら、もっと相手を知るべきだろうが」

「あっ、延暦寺を焼いて、たくさん人を殺したことは知っています」

 思いついたように夕立が付け足した。

「ひどい人なんだなって、思いました」

 夕立の口ぶりは、まるで『感想』である。

「母親まで殺されたというのに、ずいぶんとあっさりしておるな」

 自分が蒔いた種ではあるが、信長は淡白な夕立に言う。

 すると、夕立はしばし言葉を絶った。

 夕立が信長の後ろを歩いているがゆえに、その表情は見えないが、どんな顔をしているのかは想像に易い。どうせ、いつものような呆け面をしているのだろう。

「……母とは、話したことがないので、どんな人かわかりません」

 暫時おいて、夕立が静かに口を開いた。

「吉法さまに出会う前、町の中で、子どもをひどく虐げる母親を見た事があります。母親は皆、優しい人ばかりではないんだと思いました」

「―――そういう女も、いるだろうな」

 信長は自分でもわかるほど、萎えた声になる。

 子を愛さない母親だっている。信長の母、土田御前もそうであった。幼き日の信長、もとい吉法師の世話は全て乳母に任せ、自身は弟の信勝とお市を可愛がった。しまいには、織田家の家督争いの際、信勝には『うつけを殺せ』と吹き込んだという話まで聞いている。思い出せば、思い出しただけ忌まわしい情景が湧いてくる。弟や妹が、信長を異質なものと思っていたことは、口に出さずとも、仕草から感じ取れる。しかし母は、時に手で、時に言葉で、信長を忌んだ。家族が必ずしも愛し合えるものではないことは、信長も充分に知り得ている。

「それで、どうしたというのだ」

 問うてやるが、後ろから聞こえてくるのは、夕立の軽い足音だけである。

 しばし間をおいて、夕立は囁くように、

「母親と言うのも、いろんな人がいるんだと思いました」

 と、声を溢した。

「なるほどな。母が優しい女だったという確証を得られないから、殺されても感情が移らぬか」

「いえ、そういうことでは」

 間髪と置かず否定され、信長は思わずむっとする。

「では、それ以外にあるのか」

「母が悪い人だった、ということもあり得るとは思うのですが……」

 夕立はそこで、言葉を途切れさせる。

「……でも、生まれる寸前まで、私をお腹にいれていてくれたのだから、きっと優しい方なんだと思います。私はそう信じます」

「ならなおさら、織田が憎いはずだろうに」

「私怨と迷惑は違うと思って……」

「なに?」

「母を延暦寺の焼き討ちによって失ったことは悲しく思うのですが、いつまでも恨んでいたって、母は喜ばないと思うのです」

「では何ゆえに、信長を討つ?」

「話に聞いていると、彼は気に入らない相手がいると、すぐに大軍を差し向けて、その国の人々を皆殺しにすると聞きました。放っておけばまた多くの人の命を奪うとか」

「それで貴様は、正義の味方よろしく立ち上がったというわけか」

 信長の口調が心なしか尖る。

 他人のふりをしようとしていても、やはり自分の悪口は聞いていてよいものではない。

 痛みを優しさに変えようとする夕立の甘さにも、夕立に余計なことを吹きこんだ延暦寺の連中にも、腸が煮えるような憤怒を覚える。

「そんな単純な理由で、撫で斬りなどするものか」

 信長は思わず言う。

「奴はそこまで阿呆ではない。浅井朝倉も、伊勢長島も、延暦寺も、考え合っても事だ。忠告をして尚の結果なのだ」

「忠告するだけの余裕があるのに、なぜやることは皆、癇癪を起こした赤子のようなのでしょう」

「戦というものはな、時に見せしめで殺さねばならん時もあるのだ」

 意識せぬうちに、強く、言い聞かせるような語調になる。

 すると背後で、夕立の足音がとまる。

「―――まるで、魔王を庇うような言い方ですね」

 妙に冴えわたった言葉に、信長はぞっとした。

 振り返って見てみれば、立ち止った夕立が、黒い眼でじっと信長を見上げている。底の見えない黒い瞳が、覗き込んでいるようにも窺えた。

「――そんなことはない。これは戦略としての話なのだ」

 胸を張って言ってやるが、その実、背筋には冷や汗が伝う。

 白目を押しのけて広がる珠のような眼には、言いようのない異様な気配が宿っている。見ればただの黒目にすぎぬはずだが、夕立の中に僅かでも疑念が生じたと分かった瞬間、ただの黒目が殺意に変わったように見えた。

「な、なんだ。俺を信長の手先とでも思うとるのか」

 嫌疑とも殺意とも、敵意ともとれる眼差しを向ける夕立に、信長は言う。正確に言えば信長本人であるが、そんなことを自ら進んで言うほど頭が悪いわけではない。

「――いいえ、そんなことは思っていません。ただ」

「ただ?」

「吉法さまが、魔王と同じ考えの持ち主であれば、たとえ魔王を討ち滅ぼしたとしても、平和な世などやってこないように思えたのです」

 瞬間、夕立の眼から禍々しい気が消え、萎びたような垂れ目に戻る。

「……魔王を倒したとしても、俺が魔王と同じ存在になり替わるのなら、平和など訪れない――そう言いたいのか?」

 とにかく、自身が魔王であると疑われていたわけではないことを知り、信長は胸を撫で下ろす。

 そんな信長の心中など知らず、夕立は『吉法』の問いに頭をひとつ振った。

「見せしめで奪ってもいい命は、無いと思うので」

 ひときわ、夕立の物言いは釘を刺すようである。

「安心しろ、そのようなことはせん」

 信長は笑ったが、その実、この少女の脅威を改めて実感した。

 夕立にはきっと、信長本人でも、信長と同じ考えの男であっても、撫で斬りをするような者は容赦なく切り伏せる気概がある。夕立は馬鹿だが、確固たる意志を持っている以上、そう簡単に信長の思い通りにはできぬだろう。

 味方に付いているとはいえ、それは夕立が、信長を『旅を共にしてくれる吉法という男』と信じ込んでいる間だけにすぎない。吉法が信長であると分かれば、うんもすんもなく首を掻き斬られるに違いない。

(甘く見過ぎていたか)

 信長は珍しく、自身の立てた案に不覚を感じる。

 夕立は頭が悪い。怨念も、野望も、復讐心も持っていない。からっぽなのだ。だからこそ信長は、夕立を利用することにした。しかしよく話してみれば、夕立はしっかりと意思は持っていた。

 信長を討つ動機は、所詮『延暦寺の坊主が言うから』『悪を倒せと教わったから』にすぎない。しかし夕立の中には、信長であろうとなかろうと、残虐を許すまじとする正義がある。夕立が信長を殺すことを厭わなかったのも、夕立の抱える『正義』が、信長討伐を善しとしたからであろう。

 上手く丸め込めば思い通りにできると買いかぶっていたが、予想以上に夕立という少女は『油断ならない』相手である。

(面倒なものを拾ってしまった、が)

 信長は夕立の腰帯に差された刀に一瞥をくれる。

 ここで夕立を捨てることも容易いだろうが、夕立は、武辺に関しては天賦の才を持っている。忍びの如く軽く舞い、華奢な腕で軽々と刃を放つ。実力だけで言えば、かつて恐れた伊賀者に並ぶやもしれぬ。

 現に昨晩、信長も気が付かなかった人影の気配を察し、いち早く動いて、放たれた相手の凶刃を弾いた。少女であろうと、人外のものであろうと、これほどの者を捨ておくのはもったいない。

(安土に着くまでは、上手く騙さねばならぬか)

 信長は億劫に感じながらも、目の前にいるのが頭の悪い少女で良かったと安堵する。








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