少女十五年
*
もうじき日が暮れる。
季節はとうに春を迎えているが、空気の冷え切った北の地では、まだまだ陽が落ちるのも早い。東海の周辺までこれば人も多く町もあり、安い木賃宿にでも泊まることができたであろう。しかし、ここは信濃である。安土や京、東海に比べれば、人も少ない。
よって、寝泊まりする場所などありはしなかった。
日が暮れれば、落ち武者狩りの農民や盗賊も増えるうえ、腹を空かせた獣が山を跋扈する。獣も人も怖いが、今日もまた野宿をする以外にない。
信長は日に日に募る、落ちぶれた自分自身と、自分をここまで落とした連中への憎悪を胸に、手ごろな枯れ木を見つけては拾って歩いた。
「くしゅんっ」
その時、背後で夕立が大きなくしゃみをした。
振り返ってみれば、夕立は小さな手に息を吹きかけて温め、寒そうに身を震わせながらついてきている。
「寒いのか」
信長が声をかけると、夕立は子犬のように震えながら何度もうなずいた。
よくよく見てみると、夕立の恰好は本来の僧兵に比べると少し薄い。ぱっと見ると僧兵のようであったが、黒い衣の下に着ているのは、どうやら洗いざらしの薄い小袖とみられる。僧兵というよりも、金に困った遊行僧のようであった。小袖の下も、下腹巻などはしていないようで、少女の華奢な体躯が衣の上からでもわかる。
「いつから旅に出たのかは知らんが、そんな恰好で出てきたとは、金にでも困っとったのか」
「いいえ」
信長の言葉に、夕立は頭をふたつ振った。
「旅に出たのは如月の終わりの事でしたが、とても寒かったので、和尚様が服をたくさん着せてくださいました」
「ではなぜ、今はこんなに薄くなったのだ」
「あげてしまいました」
「なに」
信長は鋭い眼を見開いた。行列を引き連れた城主ならまだしも、庶民の旅人が旅道中で金に困ることは決して少なくはない。ゆえに、盗みを働いて小金を手にしようとする者もいる。それだけ、旅には金がかかるうえ、旅人の多くは服を他人に譲るなどという余裕を持っていない。
「何か恩義でも着せられたか、それとも追いはぎに遭ったのか?」
「いいえ、特に何も」
夕立は短く言いきると、もう一度、冷え切った指先に息を吹きかけた。
「旅の道中、飢えて凍えた子どもを何人も見て、このままでは死んでしまうと思ったのです。それで」
「着るものを譲ったのか」
「中に着ていたものと、あと下腹巻を譲りました。少しならお金になると思って」
あっけらかんとして言う夕立に、信長はほとほと呆れ果てた。
馬鹿だということはもうわかっているが、この娘はひどい向う見ずである。もし自分が旅の金に困った時、下腹巻のような鎧の類は金になる。そういう時のためにとっておかねばならぬものを、夕立はまんまと、その一時の甘さでどぶに捨てたのだ。
―――予想していた以上の、大馬鹿かもしれない。
信長は危機感すら感じる。
「その頭に被っとる頭巾を外して、首や肩に巻け。少しは体が温かくなるだろう」
形ばかり僧のように頭巾をかぶった夕立に、信長は教えてやる。
すると、夕立は何の抵抗を見せることもなく、
「はい」
と、すんなり頭巾を外した。
僧の姿にこだわりがあったわけでもないらしい。夕立はどことなく、「言われたならそうしよう」という受け身の姿勢であった。
「たしかに、温かいです」
夕立は頭巾を首周りに巻き付けると、ほんの僅かばかり、口角を上げて微笑んだ。
「吉法さまは頭が良いのですね」
そう機嫌を良くした風な夕立とは相反して、信長はまた、鋭い目を開き括目していた。
見れば、切り揃えられたように見えていた夕立の髪は、生い茂った雑草のように四方に散っている。もとは長かった髪を、無理矢理切り落としたような痕跡だった。
「―――それはどうした」
信長が問いかけると、夕立は小首を傾げた。
「それ、とは」
「貴様のその頭の事だ。なんだ、その無造作に切られた髪は」
「ああ……」
夕立はぼんやりとした様子で、自らの髪に触れる。
女の命とも呼べる髪を、この娘はさして気にも留めていないようである。
信長には何となく、この「ああ……」の次に来る言葉が予想できた。
「売って金にでもしたか」
先に言ってやる。
すると案の定、夕立が僅かに眼を見開き、何度も頭を縦に振った。
「実は道中に、歩けない馬を鞭でひどくぶつ人がいたので、乗らないならくださいと、私の髪と交換しました」
「走れもせん馬のためにか」
「馬は疲れていただけなのです。その後で水を飲ませて休ませたら、ちゃんと元気になりました。もっとも―――」
「もっとも、なんだ」
「流矢に当たって死んでしまいましたが」
そう言う夕立の貌は、どことなく悲しげである。
真っ先に信長の脳裏をよぎったのは、先刻、馬賊から逃げていた夕立が乗っていた、あの駿馬であった。
(あの馬か)
信長は、夕立を乗せた馬が、風のように森の中を駆けていった時の様子を思い起こす。矢を首に受けて息絶えていた馬の、あの嫋やかな体躯からは、とても衰弱していた姿が想起できない。
「あの馬は、貴様が助けたものであったか」
小さく呟くと、今一度、信長は夕立を一瞥する。
夕立の表情は薄い、が、何の感慨もないようではなかった。表情にはうすら影が差している。
「―――その妙な頭では気が散る。あとで切り揃えるぞ」
しんしんと夜の蟲が鳴く。
夜闇を照らす焚火が小さくなるたびに、ひとつ、またひとつと枯れ木がくべられた。
焚火が火花を散らす音を聞きながら、信長は丁寧に、夕立の髪を切り揃えていく。少女の髪に刃を入れるのは、自身の髭を剃るよりも神経を使う。大雑把に切られた髪は次第に肩の上で端正に整えられた。
髪を切ってやっている間、夕立は瞼を伏せて微動だにしなかった。簾のような髪の奥から、死体が覗いているかのようにも見える。
(不気味なものだ)
信長は思う。
夕立の肌は、生者を思わせぬほどに白い。しかし御簾を掻き分けるように髪を手で退けると、心なしか、その不気味な顔も美しく見えるような気がした。
なぜ、その顔が美しく見えたのかは、当の信長にもよくわからない。少女は、恐怖と美貌を表裏に持っているかのようであった。
「できたぞ」
信長がそう声をかけると、夕立が重々しく瞼を上げた。
「ありがとうございます」
夕立は肩に落ちた毛を払い、礼を言う。
「吉法さまは、手先がとても器用なのですね」
「女の髪は初めてだが、馬の手入れは好きだったからな」
信長は夕立と焚火を挟んだ場所に腰を下ろし、そこに胡坐をかいた。
夕立の白い肌が、焚火の灯りを受けて緋色に染まっているのが見えた。刹那、信長の背中を冷や汗が伝う。
四年前、本能寺にて光秀が反旗を翻したあの日。
炎上する寺の中から見えた、光秀の白い顔が記憶の底からよみがえった。
その残像が、夕立の貌と重なっている。
信長は息を呑んだ。
自分が夕立を不気味に思うのは、光秀の面影を感じるからだろうか。それとも、もとから自分の命を狙って来ているからだろうか。
(この俺が怯えるなど)
しかもこんな小娘を相手に、あり得ない。
信長は嘲笑する。
光秀は切れ者で厄介だったが、この娘は頭の中が空っぽである。上手く騙せば使い物になる。なにも恐れるものはない。
信長は自分の中にある陰りを無理矢理に払拭すると、両肘を膝の上に乗せて脱力した。
「ところでだ、夕立よ」
信長は、切り揃えた髪をいじる夕立に声をかけ、
「貴様、どこから来た者だ」
と、問うた。
恰好からしてどこぞの寺から出てきたのだろうが、敬虔な仏教徒ならば、人を殺めても平然な顔をしたりはしない。服を寺の者から貰い受けただけで、武家に繋がりのある娘という可能性もある。
夕立はそのとき、髪を弄るのをやめた。
白い手をそっと膝の上に置き、闇の中で揺れる焔を朧げに見つめる。
「ここから少し南にあります、寺の別邸から参りました」
「寺に別邸だと」
「はい」
夕立がうなずいたのを見て、信長はふと、顎に手を当てる。本来、質素な寺が別邸を持つなどおかしな話である。しかし、十年も二十年もさかのぼれば、不当に資金を集めて豪奢かつ乱れた生活を送っていた寺院も決して少なくはなかった。
ゆえに、別邸があってもおかしくはない。
「―――で、その寺の名は」
信長は炎の奥にいる夕立に問う。
決して心当たりがないまま訊いているわけではない。信長の中ではすでに、いくつか目星がついていた。
夕立はその時、僅かに、口を開いたまま黙する。
口に出すのを躊躇っているのか、夕立はしばらく静かな呼吸を繰り返して、沈黙を破った。
「もとは比叡山にありました、延暦寺というお寺でございます」
夕立はそう、静かに告げた。
「延暦寺―――」
信長はその名を繰り返すや、自身のこめかみを手で覆った。
(あの寺か)
ますます、信長は冷や汗をかくこととなった。
比叡山延暦寺の焼き討ち。
自らが行ったことゆえに、忘れもしない。
比叡山にいる生臭坊主と、延暦寺に逃げ込んだ民衆を、一人残らず皆殺しにした。信長が仏教徒たちから「仏敵」と恐れられる要因のひとつでもある。
(逃げた連中が、どこぞに立てた別邸に逃げ延びたか)
しぶとい連中だ。
信長はこめかみを覆う手の奥で、眉根を顰める。
「延暦寺……天魔が焼いた寺だな」
さも他人事のような口ぶりで、信長は言った。
「それで、天魔を討ち滅ぼそうと、お前を金で雇い、遣わしたというわけか」
「いいえ」
信長の推測を、夕立は頭を何度も振って否定した。
「雇われたのでは、無いです。生まれた時から、山奥の別邸でお坊様に育てられてきました」
「生まれた時―――」
信長はいまいちど、夕立の顔をじっと見つめた。
顔そのものは、幼い。顔立ちや身の丈だけを見れば、ざっと十二、十三といったところだろう。しかし、表情が薄く感情が表出しないその面差しを見ると、いくらか大人にも見えた。
「いくつなのだ」
「えっと」
問われて、夕立はしばし虚空を眺めた。
「延暦寺が焼き討ちされたときに寺で生まれたので、今年で十五歳ということになります」
「馬鹿を言え」
信長は思わず高い声を上げる。
延暦寺焼き討ちの際、寺に逃げ込んだ連中は子どもから孕み女まで悉く皆殺しにした。寺から山へと逃げた者たちも追撃し、兵たちが槍で突いて殺したはずである。延暦寺周辺の山中で子を産むなどあり得ない。
「馬鹿と言われても」
夕立は戸惑っているようだった。
「和尚様がこの目で見たと申されていましたが、私もよくわからなくて」
「天魔の命で、延暦寺の周りにいた者たちはみな殺されたという。なぜ貴様の母親は、貴様を生み落すことができた」
信長は追及してやる。
子を産むのは命がけであると聞く。時間もかかる。焼き討ちの最中に兵どもから逃げながら子を産むなどできるわけがない。
「……私の母は―――」
夕立は少し思い悩んだように、口をつぐんだ。
何か云えぬことでもあるのか、夕立は小さな唇をきゅっと引き結び、信長の様子を窺っている。
「どうした、口に出すとまずいことでもあるのか」
「まずい、というか」
夕立の前髪の隙から、僅かにしかめられた眉が垣間見えた。妙に怪訝な表情である。
「私が聞いてもあまりに突飛な話ゆえ、お話すべきかどうか悩むのです。だって」
「だって、なんだ?」
「吉法さまが、また「変なことを言うな」というのではないかと思って」
夕立の言葉に、信長はむっとした。
口ごたえに慣れていないだけに、夕立が妙に憎たらしく感じる。しかし、ここはぐっとこらえて、
「構わん、話せ」
と、命じた。
夕立はそれを聞くや、少し視線を落とす。
黒い瞳の奥で、揺らめく焚火の焔を一心に眺めながら、夕立は口火を切った。
「和尚様が、私は骸から生まれたのだと言っておられました」
「骸だと?」
「兵たちが帰って行ったあと、ひどい大雨が降ったそうなのです。そのとき、山の中に捨てられていた女の骸から、獣たちが赤子を引きずり出して乳を与えていた―――その赤子が、私だと聞きました」
夕立自身も信憑性を感じていないのか、その口調は淡々としている。
確かに、あり得ない話である。母体が死ねば、腹の中の赤子も死ぬ。死ぬ前に取り出されたとしても、山の獣が取って食うに違いない。
骸から生まれ、獣たちに庇護されて生き延びた―――それが本当の話なら、さながら神話のような話である。
「そんなバカな話が……」
言いかけて、信長は口をつぐむ。
夕立の顔に影が差している。
『先ほど、どんな話でも構わぬと言ったのに―――』
夕立の眼に映し出された焚火の奥から、そんな声が聞こえてくるようだった。
「―――約束だったな。今のは取り消そう」
信長は喉まで出かかった言葉を呑みこむ。
約束した以上は、守らねばならぬ。
すると、夕立の面差しもいくらか明るくなって、次はまっすぐに信長を見つめるようになった。
相も変わらず目に光はないが、心なしか顔つきも穏やかになって、年相応のあどけなさも出ている。
(少しは人間らしい顔をしたな)
信長は自分でそう思って、ふと、心に引っかかるものを感じた。
(こやつから人間味を感じぬのは、よもや、こやつが人ではないからか)
夕立の透き通るような白い顔を見つめ、信長は自身の顎に手を当てて考える。
信長は、神だの仏だのというものはいっさい信じていない。宗教などというものも、所詮は国を治めるため、人の心を掌握するために利用しただけであって、心から神仏の教えを信じていたわけではない。
ゆえに、救いや罰というのもまやかしだと思っていた。
しかし、夕立の神話のような出で立ちや、驚異的な身軽さ、剣の速さを考えると、とても人とは考えられない。
もしや夕立は、神仏とやらが生みだした未知の者か。
そんな考えがよぎる。
この世の者は全て理によって成り立っている。しかし夕立はあまりにも、理にかなわない。この世の道理から外れているようにも感じる。
「吉法さま」
その時、今度は夕立から声をかけてきた。
はっと我に返り、信長は顔を上げる。
「なんだ」
「あの……」
夕立はそわそわとあたりを見回し、不意に立ち上がった。
「誰かが、周りをうろうろとしています」
「なに」
刀を腰帯に戻す夕立を横目にし、信長も、焚火を囲む森の闇に目を光らせた。
かすかに、草の揺れ動く音がする。風に撫でられた草の音ではない。草むらを掻き分け、何かが動いている。
その音は焚火を中心に円を描いて、動いているようだった。
「山犬か、それとも賊か」
信長は森の中を駆け抜ける音を追い、睨み付ける。
そんな緊張のほとばしる空気の中で、夕立はあろうことか、
「山犬を見るのは久しぶりなのです、すこし撫でであげましょう」
などと、ぬかしている。
「阿呆か、貴様は」
突拍子もないことを言いだす夕立を、信長は小声で叱りつける。
「獣も腹が空けば人を食うんだぞ」
「そうなのですか。旅に出る前までは、獣たちにもお世話になっていたのですが」
「貴様のような者と一緒にするな」
信長とて丸腰ではない。腰には短刀と打刀を差し、背中には布で包んだ鉄砲が入っている。鉄砲は火薬に限りがあるがゆえに“最後の手段”として用いるつもりだったが、はやくもその時がやってきたらしい。
(とんだ役立たずか)
信長は途方に暮れ、さっと打刀を引っさげた。
が、
「けれど、山犬ではない気がします」
唐突に、夕立がそんなことを呟いた。
「なんだか、ぴりぴりします」
「ぴりぴり?」
「すごく気持ち悪いものを感じます。山犬ならそんなもの感じません」
夕立の眼は、一点に藪の先を見つめている。木々と夜闇に隠れた何かの姿を、捕らえているようであった。
「ぴりぴり……」
復唱し、信長は夕立の視線を追った。
不思議と、背中が粟立ち、肝がひやりと冷えるような感覚が走る。
―――よもやこの娘は、殺気のことを言っているのではないか。
信長は息を呑む。
「どなたですか、そこにいらっしゃるのは」
何を考えているのか、夕立は藪の先に向けてそう声をかけた。
無論、藪の先からは返事はない。
「夕立」
これ以上ここに居てはならぬ。
そう言いかけた信長よりも早く、夕立が動いた。
素早く抜刀された刃が一閃を描いて走り抜け、信長の眼前で、甲高い金切りの音を立てて何かを弾く。弾かれたそれは一直線に跳ね返り、飛んできた方向にあった木に深く突き刺さった。
「こんなものを投げたら、怪我をしてしまいます」
夕立は僅かに強い語調で、夜闇に向かって言い放つ。
その言葉を聞くなり、藪の中がざわめく。
がさり、がさりと大きな葉擦れの音を立て、その音が次第に小さくなってゆくのが、信長には聞き取れた。
「いかん、逃げられる」
信長は抜刀したまま、大きく一歩を踏み出した。
何処の誰かは存ぜぬが、藪の先で動いたものは間違いなくこちらを狙っていた。獣の類なら物を投げたりはしないだろう。
あそこにいたのは紛れもなく人間に違いない。
野盗であれば、真っ先に出てきて金目の物を奪いに来るだろう。野盗でないとすれば、他に自分に攻撃を仕掛けてくる人間は限られる。
(とうとう来おったか)
信長の脳裏によぎるのは、数え切れぬ家臣の顔である。
もし旅道中の蘭丸が誰ぞに捕まれば、信長の死そのものがひっくり返る。死んだはずの信長は、実は生きている―――。
そうとわかれば、再び首を狙わんとする者もいることだろう。
恐れていた事態が起きている。
そう考えただけでも身の毛がよだつ。戦で堂々と戦って死ぬのと、暗殺されるのとでは、死にざまが違うというものだ。
信長は力の限り強く地を蹴り、夜闇の奥に逃げた人物を追いかけるべく藪の中へと踏み込んだ。
しかし、信長の左腕が急に、後方へと引っ張られた。
「む」
急に不自由になった左腕に、信長は目を走らせる。
見れば夕立が、信長の左手を掴んで、じっとその場で静止している。
「なにをする、離さんか」
「追わなくても、もう戻っては来ないと思います」
「たわけたことを!」
信長は思わず声を荒らげる。
「逃がせば再び、仲間を連れてやってくる。ああいうのはな、ひとりたりとも逃がしてはならんのだ」
「……」
夕立は、怒る信長を前にしても眉ひとつ動かさない。
それどころか、
「そんなに怯えなくても」
などと言いだす始末である。
「なぜ、また襲ってくると思われたのですか」
問われて、信長は口をつぐむ。
命を狙われる心当たりは、もちろんある。しかし人から命を狙われるということは、自身もそれなりの事をしでかさねばならぬ。野盗の類であれば、その場で逃げ切れば、命をしつこく狙われることはないだろう。しかし、隠密の類であれば話は別である。的の命に金がかかれば、地の果てまで追いかけてくる。
(糞っ)
信長は舌打ちをし、夕立の着物の襟をひっつかんだ。
「ここに居てはならぬ、走るぞ!」
信長は声高に言い放つや、先ほどの影が逃げていった方角とは真逆の方向へと飛び込んだ。
ない。夜闇の中で眼を凝らしながら、信長は夕立を引きずりながら山の中を駆け去って行った。
道中、夕立が何かを言ったような気がしたが、草木や藪を掻き分ける音で、ほとんど聞き取れはしない。
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