人間五十三年目

 信濃にもようやく春がやってきたようである。

 木に触れてみれば、枝についた蕾が丸く膨らみ、いまにも開花せんばかりに肥えている。それでも、この信濃国ではいまだに肌寒い風が吹く。

「はあ……」

 森の中から現れた旅人姿の男は、背負った荷を下ろすと、背中を木の幹に預ける。その手や、腕や脛は、火傷で爛れている。爛れた部分からは毛が生えなくなり、余計にそれが目立った。

(この年になって山道はきついな)

 そう吐き捨てたのは、かの右府・織田信長である。

 天正十年の夏の初め。家臣である羽柴秀吉の中国征討を援助するために出陣し、その道中、京の本能寺で寝泊まりをした。本来であればそこから備中びちゅう高松城たかまつじょうにて、毛利もうりと対陣している秀吉に助けを出していたはずだった。

 しかし、その本能寺での寝込みを襲われたのである。

 百兵にもならぬ数しかその場にいなかったこともあったのだろう。夜闇の中から突然現れた大軍が押し寄せ、本能寺を襲撃した。信長も自ら刀を手に戦ったが、外からきた銃撃を身に受け、もはや袋の鼠であった。

 しかし信長もただでは倒れない。

 小姓の蘭丸らんまると共に火の海の中を何とかかいくぐり、必要なものだけ集めて、命からがら本能寺を脱出したのだった。

 あのとき炎の中から垣間見えた顔を覚えている。

 明智あけち光秀みつひで。羽柴秀吉と同じく、信長の家臣の一人である。業火に包まれた本能寺を見つめ、すまし顔で佇む光秀の姿を、信長は四年たった今でも忘れない。

 光秀とその軍はあの日、秀吉を援助するための増援として先に発たせていた。しかし、本能寺に滞在中の信長よりも、数の勝る軍を持ったことで、光秀に下剋上の野心が生まれたのであろう。

(あんなに目をかけてやったのに)

 信長は当然ながら、光秀を恨んだ。

 光秀は頭が良く、忠誠心も並々ならぬ。実力はあるが狡猾な面のある秀吉よりも信頼における男だった。信長自身も、まさか、よりによって光秀に裏切られるとは思いもしなかった。それが余計に、攻め入ってきた光秀への恨みを助長するのである。

 確かに、光秀に恨まれる理由がないでもない。信長が八上城城主と兄弟、そして家臣たちを生け捕りにしたおり、光秀の母を八上城に人質として差し出した。のちに信長が、生け捕りにしたものをほとんど磔にしたため、報復として、八上城で囚われていた光秀の母も磔刑に処された。城主を殺せば、その家臣たちが人質を殺すのは火を見るより明らかである。

 それでも、信長が勝手に強行したことではない。

 光秀も承知の上で行ったことである。長曾我部および四国を攻めようとした際も、最終的には反対していた光秀も合意した。

 あれほど重宝し、地位を与え、優先してやったというのに、光秀はとんでもない恩知らずだった。

 しかし、光秀はあの後、驚異的な速さで中国から舞い戻った秀吉によって攻められ、最後には落ち武者狩りにあって無様な死を遂げた。自分で討ち取れなかったことは悔しいが、信長はまだ心が楽になった。本能寺から逃げ出してから一年は、光秀への恨みで毎日、腹の底が煮えくり返っていたからである。

 だからこそ、光秀の死を蘭丸より知らされた時は、怨敵の消滅を大いに喜んだ。

 そうして、信濃に身を隠していた信長は、すぐにでも安土へ戻ろうと準備を整える傍ら、蘭丸を先に安土へと発たせていた。なにしろ田舎の破れ屋に身を潜めていたこともあり、信長は織田家や他の家臣たちの状況を把握できていない。

 信長は密偵も兼ねていた蘭丸に織田家の様子を探らせようと考えていたのである。

 だが、それから蘭丸は、安土へ行ったきり帰ってこなくなった。

 二度の冬を越し、雪が解け、春と夏を越しても、蘭丸は戻らない。

 信長は辛抱強く蘭丸を待っていたが、そうしているうちに、本能寺の変から四年が経った。

―――蘭丸の身に何かあったに違いない。

 信長の中に生まれた疑惑は、年を越すうちに確信に変わった。

 自分の命を狙う者は、なにも光秀だけではない。顔や言葉に出していないだけで、信長の首を水面下から狙う者は大勢いるのだ。

 我が子をまったく顧みなかった信長からすれば、自分の息子たちですら敵になりうる。

 敵と思しき人物の顔は、思い浮かべ始めるときりがなかった。

 安土か、もしくはその道中で、蘭丸は信長の首を狙う者に襲撃された。

 いったんそう確信すると、いてもたってもいられなくなった。

 そしてとうとう、信長はしびれを切らして自ら旅立ったのである。

 それから旅立って二日が経ち、今に至る。

 あたりを忙しなく見回しながら、信長は小賢しい鼠のように木の陰に隠れながら、安土のある南を目指していた。

 蘭丸とて生半可な強さの男ではない。小姓とはいえ多彩で武芸にも優れている。その蘭丸が仮に襲撃されたとすれば、襲撃者は間違いなく信長にも襲い掛かるだろう。

 顔と名前を堂々と晒して歩けば、首をとられるのは時間の問題である。

 伸びた髪も髷にせず総髪にし、家紋の抜かれた着物も襤褸の羽織で隠した。

 織田家の家臣には、隠密を使役する者もいる。下手に正体を現せばどうなるかわからない。

(城に帰ったら徹底的に洗い出してやる)

 謀反に慣れた信長はそう心に決める。出てくる杭はことごとく打ってやるつもりだった。

 するとその矢先、

「む」

 遠巻きに、馬蹄が地を踏み荒らす音が耳に入る。

 馬蹄の中は森の中を駆け抜け、みるみるうちにこちらへ近づいてくる。しかも馬は一頭だけではない。音から察するに三頭以上はいる。

(いかん)

 信長はとっさに、田畑の広がる森の外から背を向け、影の濃い森の奥の茂みへと急いだ。

 落ち武者や浪人が、賊になる事は珍しくない。賊の中には稀に、馬を手に入れて略奪をはたらく馬賊もいる。

 茂みの中に身を隠し、信長は光のあたる農道沿いの道を凝視した。

 馬蹄が地を踏む音は次第に大きくなり、やがて人を乗せた馬が一頭、さきほど信長が立っていた位置を通過する。そこから間もなくして、襤褸衣を身につけた賊さながらの男が三人、馬に騎乗して同じ道を走り去っていった。

(あれは……)

 走り去っていった馬の尻を目で追い、信長は、初めに走って行った馬の騎乗主を想起する。

 先ほどの男たちに比べると、随分と小柄だったように見える。まるで僧兵のような着物で身を包み、頭には僧らしい頭巾をかぶっていた。小僧か、小柄な尼、といったところであろう。

―――まず、助からんだろうな。

 信長はそう確信した。

 小僧なら身ぐるみを奪われて殺される。尼なら慰み者にされ、それから殺されるのだろう。馬に乗る機会の少ない小僧や尼にしては妙に乗りこなしているようにも見えたが、相手の賊らしき男たちも馬に乗っていた。いずれ追いつかれることは火を見るより明らかだった。

 これがひと昔前であれば、助け舟のひとつも出してやっただろうが、生憎、今の信長にそのような余裕はない。信長の目指す安土は、馬の行方と同じ南の方角にある。凄惨な現場を見て見ぬふりをするのには、抵抗はなかった。

 信長はなるべく足音を立てぬよう、そっと、馬が走って行った南へと急ぐ。

 葉擦れの音すら大きく感じるほどに、馬が去って行った森の中は、閑散としていた。音一つ絶たない森の中をひたすら南へと進む中で、僅かに、遠くから鳶の鳴く声がする。音といえばそれくらいだった。

 が、

「ぎゃあ!!」

 突然、甲高い悲鳴が森の中にこだました。耳を突き抜けるような悲鳴に驚き、木々で羽休めをしていた鳥たちも思わず羽ばたく。信長もまた、その声に驚いて体を震わせた。

(なんだ)

 信長は柄にもなく慌てて、身をかがめる。

 あの南の方角から飛んできたのは、男の悲鳴だった。しかもその一声だけではない。何を言っているかは聞き取れないが、悲鳴に続いて男の喚き声のようなものが聞こえてくる。

 否。

 喚き声というよりも、必死に何かを訴えている、といった声色だった。しかし、それは数える間もなくぴたりと止み、森にはまた静寂が戻る。

「―――」

 信長は思わず、息を呑む。

 男の悲鳴はそう遠くはない。むしろかなり近い所から上がっていた。

 息を殺して、信長は前方を凝視して進む。

一歩、二歩、と進んでいくと、茂みの浅い場所に馬が三頭、立ち止っているのが見えた。先ほどの賊が乗っていた馬であろう。しかし、肝心の騎乗主の姿が見当たらない。

 そっと信長が首を伸ばしてみると、その馬たちの足元には、血の海が広がっていた。

「なっ」

 信長は声を上げかけて、ぐっと唇を引き結ぶ。

 膝を伸ばしてよく見てみると、矢が首に刺さり、息絶えている馬が一頭いる。そしてそのそばには、いかつい岩のような男の首が三つ、供物のように並べられていた。

 そしてその首の前では、僧兵の姿をしたあの小柄が手を合わせている。その僧兵の頭巾は返り血で赤黒く濡れて、その白い生地に色が浸みこんでいた。

 よく見れば、その腰帯には刀が差され、鞘の先からも血が滴り落ちている。

(この坊主がやったのか)

 信長は視線の先にいる異質な存在から、目を離せずにいた。

 死んでいる馬は、おそらく僧兵が乗っていたものだろう。賊の射た矢が当たったと見える。そして僧兵は落馬した。ここまでは想像に難くない。

 しかし、戦においても、騎乗兵相手に歩兵が勝つことは難しい。薙刀や大太刀でなければ馬上に届かないからだ。ましてや、身の丈が五尺にも満たないような小柄な僧兵では、勝ち目などないように思えた。さらに馬を見てみれば、賊の乗っていた馬には傷一つついていない。

 馬上の敵を相手に、この小柄な僧兵はどうやって首を獲った?

 信長は僧兵を脅威に感じる一方で、妙な好奇心に駆り立てられる。

 戦に出た時の高揚感と、能ある人材を発掘した時の驚愕。それはどこか、喜ばしく感じられるものだった。

「おい」

 信長は茂みから躍り出て、僧兵の背中に声をかける。

 すると意外にも、僧兵はびくりと肩を震わせ、恐る恐るといった様子で振り返った。

 振り返ったその顔を見て、信長はさらに驚く。

 頭巾の中からのぞく顔は、まだ年端も行かぬ娘の顔だった。

 黒髪を市松人形のように平行に切り揃えており、肌が雪で作ったように白い。丸顔で黒目がちであるからか、体躯から予想していた年齢以上に幼く見えた。

「……あのう、どちらさまでしょうか」

 振り返ったまま、娘は言う。大の男三人もの首を獲り、血の海を作ったというのに、娘の表情は動揺すらしていないようだった。

 ただひとつ、突然現れた男の存在に、少しだけ驚いている―――と、いった体である。

「これをやったのは貴様か」

 信長は足元の血の海を指差して問う。

 娘は信長のほうを向き直り、暫時、まじまじと血の海を見つめる。

「あの、悪い事をしたのではありません」

 何を思ったのか、娘は、そんなことを言いだした。

「なに?」

「彼らは、馬を殺してしまいました。私も危なくて、危なくなったら殺しなさいって、和尚様が……」

 さも自分がしたことは当然のことであるかのように、娘は続ける。

「―――あの、大丈夫です。なにもしてない人は、殺してはいけないので、殺さないです。なので、おじさまには何もしません」

 おじさま、とは、信長のことを言いたいのだろう。

 娘は目の前の男が、血の海を見て怯えたのだと思ったらしい。

「なにも貴様を責めてはおらん」

 信長がそう言ってやると、娘は瞳孔を僅かに見開いて、首を傾げた。

 そんな娘に構わず、信長は馬を指差す。

「馬上に乗った賊を、馬も傷つけずにどうやって殺した?」

 そう問い詰めると、娘は、しばし馬の顔を見やって、

「馬に刃が当たると可哀想なので、とびました」

 と答えるなり、小さく跳びあがった。

 然るに、それは突拍子もない返答である。

「馬鹿をぬかすな、牛若丸でもあるまいし」

 気の短い信長は、冗談めいた娘の答えに、語調を少し荒らげる。

 すると、娘は少し考えたように顎に手を当てる。そしていきなり地を蹴ると、自分より一尺以上も背の高い信長を飛び越え、その背中の真後ろに軽々と降り立った。

「これで少しは、信じていただけたでしょうか」

 娘は高慢な態度をとるでもなく、ただ平然として、目の前の男に問うた。

 信長はしばし開いた口が塞がらず、

(忍びか)

 と、息を呑んだ。

 蘭丸も身軽ではあったが、伊賀で鍛え抜かれた忍びほどではなかった。あれらは人間の範疇を超えた力で高く跳び、巨城にも易々と出入りできる。

「ああとも」

 信長がそう答えると、娘は満足したように顎を引いて、

「それでは、急ぎの用がありますゆえ」

 と、一礼して踵を返した。

「急ぎの用とはなんだ」

 信長が問いかけると、娘はゆらりと振り返って、

「安土へ行きたいのです」

 と、小さな声でそう言った。

「なに、安土だと」

「はい」

「安土に身内でもおるのか」

「いいえ。本当に、ちょっとしたことなのですが」

 僧の恰好をした娘は、もったいぶったように口をすぼめると、しきりに刀の鍔を触った。

「安土に住んでいるという、第六天魔王を討ちに行こうと思って」

「はあ?」

 娘の言葉に、信長は思わず大きな声を出した。

 第六天魔王とはすなわち、この織田信長本人の異名である。第六天魔の異名を持つ者はなにも信長一人ではないが、少なくともこのご時世、第六天魔王と言って信長を思い起こさぬ者はいない。

(俺の首を狙っとったのか)

 信長は心の奥底で、あわよくばこの武術の達者な娘を味方につけようと考えていた自分を恥じる。先に自らの名前を名乗らなかったことだけは、正解といえよう。

「―――あのな小娘、第六天魔王はもうこの世にはおらんぞ」

 背中に冷や汗をかきながらも、信長は娘にそう告げた。

 世間では、織田信長はとうに本能寺で死んだこととされている。信長としても、死んだと思われていた方が身を隠しやすい。

 信長は通りすがりの物知りな旅人を装った。

「織田信長は本能寺で討たれたぞ」

「えっ……」

「明智光秀の謀反によって、焼き討ちで死んだ」

 信長の言葉を聞き、娘の眼がかすかに揺れた。

「第六天魔王というものは、焼き討ちで死ぬのですか」

「そりゃ、死ぬだろうよ」

「魔王なのに、死んでしまったのですか」

「魔王といっても人間だからな。―――よもや貴様、第六天魔王は魔物か何かとでも思っとったのか」

 信長が問いかけると、娘は悲しげにうつむき、小さくうなづいた。

「そうですか……第六天魔も炙れば死ぬ人だったのですね」

 敵を失った娘は、喪失感に声の調子を落とした。

信長の死から四年が経った今、本能寺の大事件は天下の知る所となっている。庶民でも知っているような話も知らぬとは、この娘は相当な大馬鹿者である。

(大馬鹿者、か)

 ふむ、と信長は考えてみる。

 この娘の話を聞くに、娘は織田信長という男をほとんど知らないらしい。第六天魔王と呼ばれているのを聞いただけで、化物と勘違いをしている。浮世離れをした様子から、世間の話には疎いと見えた。

「―――おい娘よ」

 信長は、路頭に迷ったようにうつむく娘に声をかけた。

「貴様、第六天魔の命を狙っとると言うたな」

「はい」

「まだ機会はあるぞ」

 信長の言葉に、案の定、娘は咄嗟に顔を上げた。前髪が切り揃えられて眉が隠れているためか、娘の表情は薄いが、それでも眼が僅かに見開かれているのは見て取れる。娘が反応を見せたのを感じて、信長は腹の底でほくそ笑む。

「第六天魔王は蘇る」

 信長は刷り込むように娘に言う。

「蘇り、また安土に戻ってくる」

 信長の言葉がその口から零れ落ちるたび、娘の眼が見開かれた。

(食いつきおったな)

 愚直な娘の反応に、信長は口の端を吊り上げた。 

 この娘は大馬鹿者だが、武の才は達者である。忍びのように身が軽く、華奢な腕で小岩のような男を斬り殺す。忍びと言えば、伊賀攻めの際にもその忍びの強さに苦戦したが、この娘はあの国の輩にも匹敵するやもしれぬ。

伊賀者はみな強く狡猾だったが、幸いにもこの娘には、考える頭が詰まっていない。こちらの使い方次第ではよい手駒になるだろう。

「どうだ娘よ、天魔を討ちたくはないか?」

 煽るように問うてやると、娘は大きくうなずいて、

「はい」

 と答えた。

「ようし」

 信長は胸を張り、娘の小さな頭に手を置いた。

 いかなる理由があるかは知らぬが、この惨状から見て娘の腕は信用できる。もし誰ぞが隠密や侍を差し向けても、この小娘がいれば時間稼ぎ程度にはなるだろう。

「では俺と共に来い。安土まで連れて行ってやる」

「貴方様も安土へ行かれるのですか」

「ああ、貴様と同じ目的でな」

 信長は呼吸をするように嘘をつく。

 人はえてして、群れたがる生き物だ。共通の目的を持った者が現れれば、共に行動しようとする。

 小さな娘に手を差し伸べ、信長はあたかも救い主のように、

「俺は清州きよすの吉法よしのりという」

 と、幼名から取った偽名を堂々と名乗った。

「貴様の名は何と申す」

 上から問いかけられると、娘は血を被った頭巾を外す。

夕立ゆうだちと申します」

 娘はそう告げると、ぎこちない様子で差しのべられた手を取った。


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