第六天魔の狩人

八重洲屋 栞

序章 比叡山炎上



 一五七一年の、長月の中。

 京と近江の間にまたがる比叡山から、ぼうぼうと火の手が上がった。その火の激しさは、京に住まう者たちからも鮮明に、よく見えるものであった。

 空を駆ける風は比叡山から舞い上がる灰と煙を巻きこみ、煙と共に上がる阿鼻叫喚を乗せて、京へと降りてきた。

 たびたび戦乱の焔を見てきた京の民ですら、比叡山からこだます悲鳴には背が粟立った。炎が上がっているのは、比叡山にある延暦寺えんりゃくじなる寺である。

 比叡山・延暦寺の焼き討ち―――。

 当時この延暦寺の僧も含め、僧侶という存在が武力で権威けんいを持ち、神仏に背く淫行や肉食に手を染めていた。由緒正しき寺である延暦寺の僧坊は、その時にはすでに平和よりも金と自らの利益を重んずる虎狼の輩に成り下がっていたのである。

 それをよしとしなかったのが、右府・織田信長おだのぶながである。

以前より、延暦寺の僧坊たちは敵対者である浅井あさいを庇護し、織田に対し反抗的な動きを見せており、加えて民の拠り所でもある神聖な寺に努める者として、延暦寺の坊主たちが日ごろ行っていた淫行は目に余るものだった。

 そして長月の中旬、山が色づくよりも早く、織田軍を含めた全九軍が焼き討ちに加わり、一つの寺を潰すのに万の兵が比叡山に押し寄せた。

 寺にいた僧兵はもとより、学僧から上人、稚児、さらには逃げ込んだ女子どもまでが犠牲となった。男はみな斬首となり、身ごもった女は腹の胎児を取り出され、共に釜茹でとされた。

 土は幾千もの人の血を吸い、焔はその血脂を餌にますます荒れ狂って、寺を焼き払う。

 地獄絵図をそのまま再現したような延暦寺の焼き討ちは、翌朝まで続いた。

 軍が上洛した後に残ったのは、山積みにされた死体と、焼野原のみである。

 業火が血の海を照らす中、空はみるみるうちに曇天が広がり、夕刻になると、鼠を敷き詰めたような空から大雨が降った。

 季節外れの豪雨は瞬く間に業火を呑みこみ、吹き荒れる風が黒煙を薙ぎ払う。慟哭のように降り続く雨粒が血の海と混ざり、比叡山には血の川が流れた。

 なんとか生き延びた僧兵たちが戻ってきたのは、雨が上がったその晩のことである。

 焔が消えたとはいえ、かつて延暦寺があった場所は、見る影もなかった。そこかしこで首を失った死体が積まれ寺は燃えて柱すら残っていない。そのうえ骸から出る死臭と血の臭いが辺りを漂い、悪臭が鼻をつんざく。

 あまりの惨状に、僧兵の中には嘔吐をする者もいた。

 眼前の現状に立ち尽くし、雨あがりの焼野原に吹き抜ける風が、雨水に濡れた体を冷ます。吐く者、なぜこんなことにと、泣きわめく者、絶望する者、ただただ呆然とする者。焼野原は、生き残った二十ばかりの僧兵たちの嘆く声であふれた。

風に撫でられた木が横に揺れ、葉擦れの音があたりをよりざわめかせる。

 ふとその時、僧兵の一人がはっと天を仰いだ。

「今……」

 呟いた僧兵の声に、他の僧たちもみな我に返る。

 人の声が消えた山の中、ひょうひょうと吹く風の音と共に、かすかな声が運ばれてきた。

 赤子の泣き声―――。

 甲高い赤子の声が、遠巻きに僧兵の耳に滑り込んだ。

「風上だ」

 最初に赤子の声を聞きつけた僧兵が、風の吹いてくる北の方角に足先を向けた。

 焼け焦げた木を目印に北へ進むと、やがて開けた土地に出た。ここに逃げ込んだ者たちも、みな殺されたらしい。山積みにされた骸の山がいくつもの柱を作っている。

 しかしそんな悲惨な光景以上に、僧兵たちの目を引くものが、そこにはあった。

 大きな熊が、子を連れて一点に群れている。熊だけでなく、山犬や狐狸、鹿、猪、猿、栗鼠までもが、身を寄せて大きな塊を作っている。

 異様な光景だった。ここに集まっている獣は皆、本来は『食う』『食われる』の関係にある。よって、熊や山犬が、鹿や猪と同じ場に居続けることはない。しかし今は、まるで同種の仲間で群れるかのように、互いを温め合っている。

 その獣たちの中心では、天を突くような声で赤子が泣いていた。

 まだ生まれたばかりらしい。へそからは紅い緒がずるりと伸びている。

 あたりをよく見てみると、骸の山から外れた、女の死体が一つ、無造作に転がっている。それは腹を食い破られ、もとは大きく膨らんでいたのであろう腹の皮がひだを作っていた。

 熊か山犬が、孕み女はらみめの腹を食い破り、赤子を取り出した。

 そこまでは、あり得ない話とは言えない。孕み女が獣に襲われ、腹の子もろとも食われてしまうことは、山沿いの村では無きにしもあらず、だ。

 しかし、ここに居る獣たちは、引きずり出した赤子を雨の寒さから守り、暖をとって温めているようだった。熊が赤子の血を舐めとり、鹿がその脇腹に赤子を寝かせ、山犬が我が子のように乳を飲ませている。

 僧兵たちはその光景の前に、瞬きすらできないでいた。

 獣たちは僧兵たちの存在に気が付くと、あたかも赤子を差し出すかのようにその場を退き、赤子を寝かせていた鹿だけがその場に残った。

 僧兵の一人が、自らの頭巾を外して、赤子の前に歩み寄った。

 赤子は、小さな女の子である。

 震える手で抱き上げると、赤子の右腕に小銭大の傷があるのが見えた。九字を切ったような網目型の四角い傷だった。

「仏じゃ……」

 僧兵はそのとき、言い知れぬ満足感と、高揚感に満ち溢れた。

「臨む兵、闘う者、皆陣列ねて前を行く―――」

 “臨兵闘者皆陣列前行”

 僧兵がぼそりと口にしたのは、延暦寺を含めた天台宗派のものが用いる、九字切りの祖にあたる呪である。

「ああ!」

 僧兵は何処を見ているとも知れぬ眼で空を仰ぎ、呵々大笑する。

「神仏が、第六天魔を討てと遣わした子じゃ」

 狂ったように叫ぶと、僧兵は赤子を強く抱き締めた。

人の血の浸み込んだ悲壮な土地に、不似合いな笑声が響き渡る。

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