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 杉本大学は地方の公立大学であり敬春はここに通う大学院生だ。彼女を始め、多くの学生が将来この国の科学技術を担うべくここで研鑽を積んでいる。杉本大学は杉本町駅から徒歩数分の場所に立っていて、キャンパスまでの道中には学生向けの飲食店や雑貨屋が立ち並ぶ。特に飲食店は安い・美味い・多いの三拍子揃っており敬春も常連の一人である。

 赤いレンガ造りの正門をくぐると杉本大学のキャンパスが眼前に広がる。半年前の正門は錆びた鉄の門と守衛室を名乗る小さなプレハブ小屋があるだけだったのだが、ここの理学部出身の教授がノーベル物理学賞を受賞した記念に新築された。

 正門から続く赤レンガで舗装された通りにはこの教授の名前が付けられている。道々に植えられた樹木はやはり杉なのだろうか。だとしたら花粉の季節は阿鼻叫喚の地獄絵図になるはずだがその記憶がない、ということはこれは杉ではないのだろうな、と敬春は一人納得した。

 通りを抜けるとまず目に飛び込んでくるのは、件の教授の受賞に合わせて大学が見栄を張ったのか、唐突に改築が決まり、あっという間に完成された新築の理学部棟。突貫工事にも関わらず人間やるときにはやるものだ、と敬春は感心した。

 壁面は重要な柱を残し全面ガラス張りで開放感に満ちており、エントランスの周囲にはお洒落なイタリアンカフェの如きテラスがある。理学部の学生はここでカプチーノ片手に学友と議論を重ね新たな着想を得ているに違いない。敬春は常々、環境こそが創造性の源泉であり、属人的な閃きはその切っ掛けに過ぎない、と考えている。どれ程素晴らしいアイディアも他者へ、外世界へ提示できなければ壊死するだけだ。

 敬春は工学部生なので、この理学部棟に行くことは滅多にない。彼女に限らず、新築された理学部棟に嫉妬している工学部生は多い。その理学部棟と通りを挟んで対面する建物こそ、壁面を走る亀裂が歴史と学部間の財政格差を連想させる工学部棟である。

 一階を占める化学バイオ学科のよく分からない実験設備などは中でマサキがポケモンと融合していても、電子物理学科の学生がタイムマシンを開発しボーアやマクスウェルと交信していたとしても何ら不思議ではない。まぁ、大学生にもなれば仰々しい装置など無くとも宇宙的手段で以って偉人達と交信することくらい訳ないことなのだろうが。

 先刻の車内での一件からか、敬春は無意識のうちに視界に入るあらゆるものに毒づきながら研究室を目指して歩く。もしかしたら、眉間にしわが寄っているのかもしれない。自覚の範囲では決着の付いた出来事だったが、無意識はそうもいかないらしい。

 そんな工学部棟五階、奥の一室こそ敬春が日々学業に明け暮れ研鑽を積む象牙の塔である。敬春の研究に化学科や物理学科のような大きな実験設備は要らない。彼女はここで、この小さな電子の箱庭から、彼女の内世界を提示するのだ。


 普段、研究室に一番にやってくるのは敬春である。しかし今日は敬春より先に研究を始めている者がいた。


「あら珍しい。おはようございます」

「あぁ、おはよう」

「またですか?」

「まぁね」


 伊豆見いずみは大きく欠伸をしながら答えた。敬春と同じく彼もまた、自らの箱庭の中で知能を弄んでいる。徹夜で研究をしていたらしく、伊豆見は細く黒いカチューシャと銀縁のシャープな眼鏡を外して背筋を伸ばした。

 真っ直ぐな黒髪が伸び放題なのは、対症療法に維持費を払うなど馬鹿げているという理由で、散髪を拒んでいるからだ。

 対症療法が散髪だとすれば根治療法はこれだ、と言って、伸び放題の黒髪をかき上げカチューシャで押さえている。彼にとって、髪の毛が伸びることは慢性的な病の一つらしい。

 学部四年生の間でカチューシャ先輩と呼ばれているのは、彼の耳にも入っているはずが一向に髪型を気にする素振りはない。今日も今日とてカチューシャで髪をかき上げている。


「ねぇ敬春、変な顔してるとこ悪いけど、このニュース見た?」

「え、そうですか?」


 敬春は慌てて目頭をマッサージする。伊豆見がくるりと敬春の方へ椅子を回転させ、ディスプレイに表示されたウェブサイトを指差した。そこには「ゲーム情報学研究会」と大きなゴシック体で銘打たれたページが映し出されている。

 敬春がディスプレイを覗き込んだのを確認して、伊豆見は最新の研究報告欄にある「仮想世界における死」のリンクをクリックした。

 論文にはタイトルと著者の次にその論文の内容をまとめた概要が書かれている。世の研究者はまず概要、次いで結論、そして序論という順に論文を読む。

 具体的で技術的なアイディアよりも冒頭のつかみで読むに値する論文かどうかを判断しているようだ。このあたりは、噺家の口上に近いものがある。

 彼らが見るのと同じように敬春はその論文に目を通した。「仮想世界における死」は、ゲームとプレイヤーの間に存在する死を分類し、考察する論文だ。

 概要によると仮想世界における「死」にはいくつかの形態が在るらしい。


 一、ゲームデザイン上のシンボル――バイオハザードでは治癒不可能な感染者達がプレイヤーに襲い掛かってくる。ゲームデザイン的には保菌者の代わりにコボルトやゴブリンでも良かったはずだが、開発陣はシンボルとして死を掲げている。他にも、俺の屍を越えてゆけは主人公の世代交代と子や孫キャラクターの鍛錬に焦点を当てている。このゲームでも、死は必須の要素ではない。しかし、デザイナーは死をテーマにすることで、ダービースタリオンを血の絆が巨悪を討つ壮大な感動巨編にしてみせた。

 二、プレイヤーに対する教育的機能――スーパーマリオブラザーズにおいてマリオの死はミスに対するペナルティであり、プレイヤーの操作技術の向上を促す。マリオにチュートリアルはあるか? 答えはノーだ。初めのステージでプレイヤーはクリボーを避けるためにジャンプを覚える。覚えられなければ死ぬだけだ。次に崖を飛び越えるためにジャンプを応用することを覚える。最後にジャンプを正しく応用できるかを底なしの崖によって問う。飛び越えられなければ? もちろん、マリオが死ぬだけだ。このようなデザインにおいて、死は明示的な教育である。彼だって無意味に殺されるのは御免被りたいはずで、彼とプレイヤーの利害は一致している。

 三、現実世界の代替表現――死は、あなたがザオラルやレイズが存在する世界の住人でなければ、人生でたった一度しか経験できない。そして、死があなたの下に訪れる刹那を、あなたは決して認識できない。魔大陸で死ぬシャドウを通して、プレイヤーは死の虚しさを学ぶ。ゲームは我々に死や喪失に伴う感情や経験を教えてくれる、何度でも。

 四、脱遊戯的な死――どんなゲームにも開発時点で潰しきれなかったバグが存在する。もしそれがゲーム本来の意図を粉砕するとしたら? 時のオカリナの数々のバグは、リンクの冒険をハイラルが渇望する伝説から競技性あふれるビンゴレースへと変貌させた。とある配管工は三次元オープンワールドゲームで、ケツ量保存の法則を見出した。バグなくして語り得ないゲームは、バグによって人気を博し、またバグによって本来の遊び方を奪われた。この種のゲームは、原理的に解決不能な二律背反を抱えている。

 五、プレイヤーの飽き――ゲームが提示する世界は有限だ。擬似乱数があるとはいえプレイの定石化は避けられない。それでもストⅡや桃鉄のような他プレイヤーと直接に競い合うゲームならゲームの外に楽しみを見いだせることもある。しかし、日本産ロールプレイングゲームJRPGに多いストーリー性を売りにするゲームほど、驚きの減少は深刻な問題である。そのゲームにハマればハマるほど、初めてそれをプレイした時の感動は上塗りされていく。全てを忘れもう一周したいと涙を零すファンは多い。しかし悲しいかな、我々は自分で思っている以上に忘れることが苦手なのだ。

 六、セーブデータの消失――プレイヤーは人間であり、忘れることが苦手だ。しかし、ゲームはデジタルであり、簡単にその世界を初期化できる。スーパーファミコンSFC版ドラゴンクエストⅢや星のカービィSDXのようにカートリッジの技術的な問題が原因であったり、プレイヤーが縛りプレイやタイムアタックのために自らデータを消去したり、様々な理由で彼らの生きる仮想世界は砂糖菓子のように粉砕される。


 哲学や文学と無縁な人生を送ってきた敬春は、見慣れない衒学的表現に目頭を押さえた。

 彼女の専攻はゲームAIだ。わかりやすく言えば、ノン・プレイヤー・キャラクターNPCの技術的実装である。探索アルゴリズムと評価関数を定義し、目的のゲーム上で上手く動くAIを実装すること、それが彼女の研究テーマである。このレポートのような、ゲームの死に関する哲学的探究は門外漢も甚だしい。


「大学に来て、徹夜してまで関係ないことばっかり調べてるんですか? ていうかこれ、有料ですよね? どこからそんなお金が」

「関係ないとは失礼な。世の中何が何と関係してるかなんて分かるもんか」

「確実に関係あることを優先して終わらせるべきでは?」


 敬春が反論のしようもない正論を伊豆見に投げつると、伊豆見はべぇっと舌を出しピーマンを口に入れた幼児のように苦い顔をした。

 敬春はそれに取り合わず、彼のマウスをひったくってレポートをざっと読み進めた。伊豆見はその様子を凝視している。


「へぇ、うふふ」


 彼の気色の悪い笑みに気付かず、敬春は一つの章に注目していた。

「プレイヤーの飽き」と題されたその章にはプレイヤーのゲームに対する飽きについて記述されていた。


 ――無限に遊べるゲームなど存在しない。プレイヤーは必ず飽きる。飽きの存在しないゲームは存在しない。もし不死のイモータルなゲームの存在を信じているプレイヤーがいたら伝えてほしい、それはまだ飽きていないだけだ、と。

 プレイヤーとゲームが一対一で向き合うタイトルでは、プレイヤーの記憶力故に、ストーリーの完成度とそこから生ずる感動とは一期一会だと割り切る他に術はない。

 不思議のダンジョンのようなローグライクであっても乱数の組み合わせは有限を越えられず、出現するアイテムの優劣なり攻略法の定石化によってプレイの作業化という魔の手から逃れることは不可能だ。

 ストⅡやカルドセプトなど、プレイヤー同士が向き合う対戦型ゲームでさえ、ゲームが定義するルールの上で、永パや壊れた動きはあっという間に発見されてしまう。開発側とコアゲーマーのいたちごっこが終わることはない。自分の尻尾を追って同じ場所をぐるぐる回り続ける馬鹿な犬のようだと侮るなかれ、彼らの旋回はZ軸の概念を持ち螺旋を描いている。すなわち、切磋琢磨という言葉が相応しい。

 世に言う無限とは畢竟、文学的表現に過ぎず、莫大な有限に過ぎない。特殊なツールを使えば次の展開を完全に予測することさえ可能だ。

 今ほどインターネットが普及する前の時代には、遊び尽くせ無いほどの有限を無限と表現することの誤謬は看過されていた。個人や少数のコミュニティにおいて、莫大な有限が暴かれる前に彼らはそのゲームに飽きてしまう。

 ひとしこのみは発売から十年経ってようやく発見された裏技だが、当時のプレイヤーの何割がこのニュースに懐かしさを覚えただろうか。懐かしさとは即ち、飽きの再認識である。あの時代、ゲームの寿命は文学的無限を体現していた。

 しかし、今やあらゆるゲームは公開から日を置かずしてあらゆるデータが暴き出されてしまう。

 ひとしこのみも執念深いプレイヤーによる人力の総当り的プレイの果てにではなく、コンピュータによる解析の果てに現れた。

 筆者に将来を予測する力は無いが、これだけは断言できる。

 もはや発売されてから十年後に新たな事実が発見されるようなゲームは発売されない。

 ゲームに詰め込まれた世界が薄っぺらくなったのではない。むしろゲームを記録する媒体の容量は今もって向上し続けている。

 問題は我々のゲームを解く速度がそれを上回っていることにある。我々が孤独に、独立にゲームを解いていた時代はもう終わってしまった。

 ゲームの情報が集積され共有される時代にあって、筆者のような独力でゲームを解くことを好むプレイヤーはとても息苦しい。見たくない情報を完全に遮断するために、現代が要求する犠牲は多すぎる。

 インターネットの登場によってゲームはゲームとしての鮮度を明らかに失い、その寿命を縮めた。もはやゲームそのものが一種の生命体の如く変化し続けでもしない限り、プレイヤーは便宜上の無限さえ経験することは不可能になった。

 対戦型のゲームや、競技性の強い遊び方が可能なゲームでは、インターネットの登場は追い風と言えるだろう。発見されたテクニックやゲーム上のグリッチは瞬く間に共有される。観衆を沸かせることが可能なゲームはeスポーツと呼ばれ、リアルなスポーツと同様、商業的にも成功している。

 プレイヤーとゲームが一対一で向き合うタイトルにとって、現代は厳しい時代である。しかし、「オンラインがゲームに齎した功罪」の章で取り上げるゲームでは様相が異なる。ここまでの悲観的な事実を覆す――


「じゃ、読んだら感想聞かせてね。よろしく」

「は?」

「僕には優先すべき仕事が残ってるから」


 それだけ伝えると伊豆見は資料を整えて教授室へ向かった。彼の背を見つめながら、敬春は眉を顰め顎に手を当てて彼の胸中を推量した。

 敬春自身、このレポートに、特に「プレイヤーの飽き」に惹かれていたのは事実である。

 それはそれ、敬春は呟きながら頬をぴしゃんと叩いて学生の本分たる研究活動へ戻った。

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