25
数ヶ月前。
アンヴェルダの閉鎖された地区は、低い建物、狭い路地、そして無数のゴミで埋め尽くされていた。街のどこを歩いても、形容しがたい腐臭が漂っている。
そんな不衛生な通りのことなど気にもせず、ハーフリンクは、小走りで人の波をひょいひょいとかいくぐって進んだ。
男性十人ほどの一団の傍を、さっと横切って……彼は、一気に方向転換した。
路地裏へ入る。
手のひらには、微妙に汗がにじんでいる。
が、それ以外の物――財布も、同時に握られていた。
思わず、口笛を吹く。
「……やりぃ!」
財布が手にずしっとくることを確認して、ハーフリンクはほくそ笑んだ。
「へへっ、さっすがおいらだね」
彼は、この閉鎖地区に居を構えている。
と言っても、ござ一枚と厚紙数枚で出来た、あばら屋とも言えないガラクタだったが。
そんなないよりマシ程度の我が家で、久しぶりに、金で買った食糧をほおばっていた。
口元を汚して……ふと顔を上げると、遠くに、彼の身長でも見えるほど高い壁がそびえていた。
そのむこうには、荒れた地区ではない、ごく"普通"の街々があるのだろう。
舌の上の味に反して、彼は苦々しい顔をした。
「ちぇっ。クソッたれが……」
その時、突然、背後から声をかけられる。
「やぁ。わざわざ、集団相手にスリなんて……いい度胸してるね、きみ」
「うぇっ……!?」
振り向くと、そこにいたのは
「ハーイ♪」
が、女性は、すぐにフードを脱いだ。 耳がとがっているので、エルフ族だと分かる。
「……おいらに何か用?」
エルフは、質問に答えなかった。
「分別がないわけじゃないだろうに。……きみは、刺激が大好きってわけね? なんだか、あたしと気が合いそう」
と、関係なさそうなことを言う。
「……なんのこと? おねえさんが何言ってんのか、わかんないや」
ハーフリンクは、とっさに笑顔を作った。
「じゃあね」
手を振って、駆け出そうとすると、
「ここらじゃあ、スリが上手くて有名なんだって? きみ」
「……」
ハーフリンクは、聞こえないふりをした。
が、
「このままタレこんだっていいんだぜ?」
エルフが、やや低い声ですごんでみせる。
ハーフリンクは、ぴくりと止まった。
「……へぇ、そうかい」
誰にも聞こえないくらいくらい小さくつぶやくと、彼は飛び掛った。
即座に、服からナイフを取り出し、エルフに向ける。
(そこまで言われちゃ、沽券にかかわる……)
「……んでねっ!」
が、
「え!?」
ナイフは肉を切り裂かず、激しい金属音をたてた。
ドラコが、腕でナイフを受け止めたのだ。
(……篭手? それとも……皮膚がバカ硬いのかな)
そんなことを悠長に考えながら、体をひねる。ドラコの腹を、かかとで蹴飛ばした。
見れば、彼らは清潔な服を着ている。ここの住人ではないだろう。とても、白昼堂々の喧嘩が似合いそうな人種ではなかった。
ハーフリンクは、なんだか無性に腹が立ってくる。
「……くそ! こんな肥溜めの住人だからって……舐めてんじゃねーぞ! バーカっ」
その隙に、彼は逃げ去ろうとしたが……
「
エルフが、呪文を唱えた。
とたんに、ハーフリンクの視界がくらくら揺らめき、猛烈な眠気に襲われる。
「自己紹介。あたしは、いちおう女王様。で、こっちは騎士団長様さ。ちょっと、きみをお仕事の勧誘に来てね」
ひとを強制的に昏睡させておいて、何が「勧誘」だ――と、ハーフリンクは、心の中で毒づく。
だがもう、それさえできないほどにねむい。
「さぁ、刺激的な冒険の世界へ、いっしょに帰ろうぜ? ハーフリンク」
エルフは片手を腰に当て、ニヤついている。
ぐにゃぐにゃとぼやけるエルフの笑顔に、彼は呪いをはきかけた。
(え、エルフの女なんて……だいっきらいだ……!)
ハーフリンクは、あろうことかこのスラム街の路上で、意識を失った。
「う~ん、ごちそうさま! いやぁ王宮のご飯っていいねぇ、エルフ女王様バンザイ!」
女神ロリの神託に選ばれたハーフリンクは、しばらく王宮で厄介になっていた。
食事も住居も、スラム街とは雲泥の差。
ダンジョンを冒険する仕事だというが、そういう危険なことも、とくに嫌いではない。
彼は満たされた。
そのはずなのに……まだ、満足しようとはしなかった。
食事には、デザートとスパイスが必要だ。
彼はそっと食堂を抜け出し、裏庭の樹の上によじ登った。
「へへへへっ……!」
赤い果実に、そっと手を伸ばす。
と……
「また貴様か、ハーフリンク!」
「うげっ!?」
するどい声がハーフリンクをつらぬいた。
恐る恐る、下を覗いてみる。
そこには、
あんなでかくて硬いのとやりあって、勝てる自身は、ハーフリンクにはない。彼は大人しく、ドラコの前でひざまずいた。
「い、いやぁ、ほんの出来心っていうかね?」
「……貴様、これで何回目の出来心か、分かっているのか」
「うーん……十回くらい?」
「その倍だ」
ドラコの鎧が、かすかに上下した。
それが、ため息をついているのだということに、ハーフリンクは十一回目あたりから気づいている。今回も、そうとうご立腹のようだ。
その証拠に、ドラコは抜剣し、切っ先をハーフリンクの首筋に向けた。
「ひぇっ……!? ちょ、おおげさだよ、ドラコのにいちゃん!? たかが果物一個で……!」
「おおげさだと? ……いい気になるな!」
ドラコが大喝する。ハーフリンクは、地面を掘ってモグラに生まれ変わりたくなった。
「たとえ女神の神託を受けていようと、果実一個の盗みであろうと、罪はけっして許さん。次に不埒な行為をはたらけば、あの肥溜めへ送り返されるものと思え」
「は、ははぁ~っ……!」
完全にびびってしまい、ハーフリンクは深く頭を下げた。
(やれやれ……)
そのまま、ドラコという名の嵐が過ぎ去るのを待つ。
だが、
「まったく……こんな救い様のない者を、冒険者に加えるとは。女神は、いったい何を考えておられる」
「……あ?」
ハーフリンクは、即座に立ち上がり、ナイフを抜いた。
ただ、ドラコは、すでにかなり遠くに行ってしまっている。ナイフはおろか、投石でも届かない。
ハーフリンクの耳が、良すぎたのだろう。
それでも彼は、ドラコの後姿を射殺すようににらみつけた。
「……騎士さまが、どんだけ偉いってんだい? くそっ!」
ハーフリンクは、樹にナイフを思い切り突き刺した。
刃がこぼれるのも構わず、むしろこぼしてやろうと、幹をえぐり、ぐりぐりと突き刺す。
「畜生、今に見てろよ。このトカゲ野朗……!」
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