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あの子がいない。
いつも一緒にいてくれた、あの子がいない。
船の中をどんなに探しても、あの子がいない。
昨日の俺と彼女の結婚式で、見事な踊りを見せてくれたじゃないか。笑って楽しそうにしてたじゃないか。
どこに行ってしまったんだ。
動揺する頭が、あの子との思い出を勝手に想起していく。
あの朝、あの子は俺の城の前に裸で倒れていた。
君は誰なのか、どこから来たのか訊いたけど、あの子は話せないようだった。
とりあえず城に入って、と伝えて階段を一緒に上った。俺の手にすがりながらも、軽やかに上っていく足取りが印象的だった。
あの子は誰よりも美しく、誰よりも踊りが上手だった。
俺はあの子のことがすぐに気に入って、一緒に馬に乗って森の中を散歩したり、山に登ったりした。
登山のとき、足から血が出ていたから心配したけど、あの子は笑って俺と共に歩き続けていた。
俺はどんどんあの子のことを好きになっていった。
優しくて、俺を大切にしてくれて、それに何よりも―
以前難破した船から投げ出され、浜辺に流れ着いた俺を助けてくれた、教会に仕える若い娘に似ていたから。
それでも、あの子を妃にしたいと思ったことはなかった。
俺がこの世で愛しているたった一人の人は、あの若い娘だけだったから。
そして教会に仕えるあの娘への想いは決して叶うことのないものだった。
ある時、両親に隣の王国の王女に会いに行くようにと言われた。
両親は俺にその王女と結婚して欲しいと思っているらしい。
でももちろん、俺の命の恩人であるあの娘以外との結婚なんてごめんだ。
だから、あの子にも言った。
「もしもどうしても妃を選ばなければならなくなったとしたら、いっそ君を選ぶよ」と。
そうしたら、あの子はとても嬉しそうに微笑んだ。
信じられなかった。隣の国の王女は、立派な王妃になる勉強をするために一時だけ教会に預けられていた、あの若い娘だった。
もう諦めていたのに、もう会えないと思っていたのに。
俺はあまりに幸福すぎる。そう思った。
誰よりも親身になってくれるあの子も、俺の幸福を心底喜んでくれているんだと思っていた。
結婚式の日、俺は妃のことで頭がいっぱいだった。
宴会の時に相変わらず踊りが上手いな、笑顔がかわいいなと思った以外に、あの子のことを気にかけもしなかった。
あの子は笑ってた。
いつもいつも、俺のそばで笑ってた。
俺の話を聞いてくれた。踊って楽しませてくれた。ずっと忘れられずにいたあの娘との結婚が決まった時も、祝ってくれた。
あの子はどんな時も一番に俺のことを―
もしかして。
ねえ、もしかして。
君って俺のことが…
甲板から海を見下ろした。
そこにはただ、いつもよりたくさんの、無数の泡が浮かび上がっているだけで。
どうしてか、あの子にはもう会えないんだと分かった。
話はできなくても、目で心を伝えてくれるあの子の気持ちを、全部分かってるつもりでいた。
でも、それは間違いだった。
あの子の「声」を、聴かなきゃいけなかった。
鼻の奥から海のにおいがする。
視界がにじみ始める。
もう遅い。もう遅い。
なんて卑怯なんだろう。今更気付くなんて、俺だけが泣くなんて。
そう思ったのに、溢れる涙は止まらなかった。
ごめんなさい。俺は、何も分かろうとしなかった。
柔らかく暖かな風が、まるで涙をぬぐうように俺の頬を撫でていった。
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