切れた糸

絶対に落とすまい、必ず救い上げると。そう誓っていたのに。

私の糸は、その瞬間にぷつりと切れた。




あのお方が悲しそうな顔で立ち去った後も、私は蓮の葉の上から、遥か下に広がる光景を見続けていた。

気味の悪い、どろどろと濁った赤い池。

私のいる水の透き通った池とは、対極のあの池。

死んだ悪人が行くのだという、あの世界。

生前良いことをした者が来るこの世界とは、対極のあの世界。




私がまだ生きていた頃のこと。私や私の仲間達を見つけた人間は、皆例外なく私達を叩いたり踏んだりして殺そうとした。

だから、人間は皆そういう生き物なのだとずっと思っていた。


でも、あの人間だけは違った。

あの日、林の中を歩いていた私は、あの人間に出くわした。

あいつは私を踏み潰そうと片脚を上げた。

怪我をしていて上手く走れなかった私は、逃げられないことを悟った。

嫌だ、嫌だ、まだ死にたくない。死にたくないのに…

頭上に迫り来る大きな影と、死への恐怖に怯えた。


が、人間は寸前で脚を止め、こんな意味のことを呟いた。

「いや、この虫も小さいが、命あるものに違いない。むやみに殺すのはかわいそうだ」

そうして、私を踏むことなく去っていった。


ほんの気まぐれだったのかもしれないが、そうだとしても私達を殺さない人間もいるということを、初めて知った。

同時に、とてつもない安堵感に包まれたのを覚えている。




あれからずいぶんな時が流れ、私は天寿を全うしてこの世界にやって来た。

ある日、蓮の葉に糸を吹きかけていたら、あのお方に頼まれた。

あの日あなたを殺さなかった人間を、あの世界から救い出すのを手伝ってほしいと。


あの日、私がほんの少しだけ、本当にほんの少しだけだが人間を好きになれた、その理由をくれた人間。

あの世界に堕ちたということは悪事を働いたに違いないが、そんなことは私には関係なかった。


あいつがすぐ気付くように、銀色に輝く糸を。

あいつが上れるように、丈夫な糸を。

私が口から吐いたそれを、あのお方があの世界にまで垂らしてくれた。


糸を見つけたあいつは、さっきまで苦痛にゆがんでいた表情をパッと輝かせて飛びついた。

両手でしっかりつかんで、懸命に、徐々に上がってくる。

そうだ、そのまま上って来い。お前は救われるんだ。


おや、なんだか糸が段々重くなってきたような…


よく見ると、あいつに続いて大勢の人間達がぞろぞろと糸を上ってきていた。皆、あいつと同じで必死の形相だった。

あいつは休憩のために一旦手を止め、ふと下を見たところでそれに気付いた。

大人数の体重で糸が切れるかもしれないという恐怖からか、「この糸は俺のものだ。お前達は下りろ」という意味のことを叫んだ。


その途端、私の糸はぷつりと切れた。




あいつは、他の人間達と共にあの赤い池へとまっさかさまに落ちていった。

よほどの深淵に落ちたのだろう。あれからもう数日は経つのに未だに水面に上がって来ない。


結局、あいつは自分のことしか考えられない悪人だった。だからこそ死後あの世界に堕ちた。それが真実だったんだ。




でも。

あの日のあいつの言葉が蘇る。

死なずに済むんだと、生きられるんだとほっとした気持ちが蘇る。

人間にも悪くない奴はいるんだと思った記憶が蘇る。




だから、それでも、私は信じたい。

あいつの優しいところはきっとまだ残っていると、信じたい。

いつか、助けられると信じたい。




今度こそちゃんと救い出す。だから―




今度こそちゃんと救われてくれ。

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