蜜柑


 銀二が膝から降りて頭で脇腹を押すと男は笑いながら立ち上がった。


「何だ。何処か行くのか?」


 男の声に応えるように銀二がみゃあと鳴く。その声には張りが戻っていて、男はほっと胸を撫で下ろした。

 立ち上がった男を見上げて、ついて来い、と言うように銀二が踵を返して歩きだす。その後をちょこちょこと子猫が駆けてゆく。男は汚れたハンカチを洗い直して子猫の後に続いた。それを追うようにぞろぞろと猫たちが続く。


 皆が去った駐車場には、猫たちの食事の跡が無残に散らばっていた。



     *



 その家の敷地は広く、庭には様々な木が植えられていた。その中にオレンジ色の実をつける蜜柑の木があった。

 他人の敷地に無断で入るなど常なら絶対にしないことだが、この町には住人が居ないのだと薄々感じ始めていたので、男は猫に続いて門を潜った。


 蜜柑は冬の食べ物という印象がある。こたつと蜜柑。そして猫。

 今は春。桜もそろそろ散ろうという時期だ。

 今頃、蜜柑? と男は思ったが、ぐううっと鳴る腹は蜜柑を歓迎している。


「ごめんなさい。いただきます」


 男は手を合わせてから蜜柑の木に手を伸ばした。



「うっっま」


 男が知っているよりも幾分ごつごつとしたその蜜柑は大層美味かった。

 腹が減っていることを差し引いても随分美味い蜜柑だと思う。

 剥いたときには普通の蜜柑だと思った。歪なのは商品として管理されていないからかと思った。しかしこれは別物だ。

 薄皮をうっかり破くと崩れてしまうほど果肉が柔らかい。種があるので少々食べ難いが、この濃厚な甘さと瑞々しさはそれを補って余りある。酸味が鼻を抜けるのもさっぱりとして清々しい。

 男は三つほどをぺろりと平らげ、幾つか捥いでポケットに突っ込んだ。この先食べられるものに出会えるかどうか怪しい。


 猫にも食べさせようとしてみたが、顔を顰めて拒まれた。匂いが厭なのか少し離れたところからこちらを見守っている。

 鯖トラの尻尾が満足気にぱしんと振られるのを見て男は笑んだ。


「ありがとうな」


「んにゃあ~ん」



 温かい春の庭で、白い蜜柑の花が風に揺れていた。

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