満る
鴉
何事も無かったかのようにのんびりと毛繕いをする銀二を男はおろおろと眺めた。
血っ。血が出ている。
銀二の背には、ざっくりと鴉の爪で抉られた痕が湿り気を帯びて赤くてかっている。しかし当の銀二はそれを気にする風もなく、痛がるでもなく、己の爪の間を濡らす鴉の血を舐め取ったり顔に浴びた返り血を拭ったりしている。
騒ぎの中心に飛び込んだ銀二は、男を威嚇したときとは比にならない程の形相であっという間に鴉たちを退けた。騒ぎは呆気なく収まったかに見えた。しかし、喜ぶ猫たちを上空から苦々し気に見下ろしていた鴉は少し離れた場所に新しい獲物を見つけた。騒ぎに巻き込まれないように駐車場の隅に身を伏せていた小太郎を。
急降下する鴉の爪から、すんでのところで銀二は小太郎を咥え上げた。小太郎に喰い込む筈だった爪が銀二の背を抉る。
「チッ」
舌打ちと共に、咥えた小太郎を男に向けて放る。小太郎が男の腕のなかに無事納まるのを確認すると、銀二は振り向き様、羽ばたこうと広げた鴉の羽に爪を立てた。飛び上がった勢いのまま体重をかけて引き倒す。腕を思い切り振ると、黒い羽根と紅い鮮血が舞い上がった。銀二は動きを止めることなく、怯んだ鴉の羽に噛みつきそのまま振り回す。地面に叩きつけると鈍い音がして鴉が悲鳴を上げた。
片羽を捥がれた鴉がもう片方で懸命に羽ばたこうとするのを、銀二は冷めた目で見つめた。にゃあと一声鳴くと、戦況を見守っていた仲間たちがのそのそと近づいてきて鴉を囲んだ。
*
「大丈夫か?」
男の足元から見上げると、小太郎は涙目で頷いた。
「そうか。なら好い」
銀二はふっと笑って腰を落とした。ゆったりと毛繕いを始める。
背後では哀れな鴉の断末魔の叫びが響き続けている。残忍な猫の習性が、獲物をひと思いには殺さない。しかしそれと知って仕掛けてきたのは鴉の方だ。恨み言を言われる筋合いはない。
ふと見上げると男が眉尻を下げてこちらを見下ろしていた。
「ああ、また怖がらせてしまったな」
銀二は申し訳なさそうに笑った。
体ばかりが大きいこの優し気な生き物を怖がらせるつもりではなかった。私を恐れて逃げてゆくだろうか。
これまで感じたことのない喪失感が胸に競り上がってくる。
行かないでくれ、と思いが漏れそうになり銀二は奥歯を噛み締めた。
たとえ言葉が通じずとも、将としてそのような弱音を吐くことは許されない。
銀二は黙って男を見上げた。
男が踵を返して歩き去ってゆく。
そうか。行くのか。
銀二は黙って男の背を見送った。
将として、いかなるときも強くあらねばならない。
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