知覚

違和感


 疲れた。



 男は公園のベンチに腰掛けてがっくりと肩を落とした。

 相当歩いたと思う。


 真っ暗だった世界は山のから溢れ出す陽の光を受けて輝き始めている。朝露の湿り気を含んだ空気はひんやりと清々しく、汗ばんだ男の頬を優しく包む。公園内に何本も植えられている桜の木は満開で、淡い紅色が時折り吹く風に揺れている。風に煽られた一片ひとひらが視界の端でひらりと舞う。

 美しい朝の風景。

 男のようにぞろぞろ猫を引き連れている者はもちろん居る訳がないが、飼い犬を散歩させる者の一人や二人居てもおかしくはない筈だ。住宅地の公園であれば、物好きな住人がラジオ体操やら太極拳やらに興じるものかと思っていた。



 しかし、誰も居ない。

 歩き回った道々にも、こうして休んでいる公園にも、人っ子一人居ない。



 そんなことがあるか?


 歩き回って気付いたのだが、無いのは人の気配だけではないのだ。

 車が一台も無い。

 走っている車はもちろんのこと、駐まっている車も無い。住宅の車庫にも、道沿いの駐車場にも、何処にも。

 それから、自販機が無い。

 日本にそんな地域があるだろうか。男の祖母が住んでいるのは辺鄙な田舎の孤島だが、その島にさえ自販機は在る。


 端的に言って、この町はおかしい。

 人と会わないのも、車が通らないのも、この町が既に棄てられた場所だからなのではないかと思わせる。理由は分からないが、それなら説明がつく。

 しかし、電気が通っている。

 家々に点る明かりも、夜道を照らす街灯も。通る者のない道路に据えられた信号機も。正しく明滅している。死んだ町に電気が通るか?



 男はひとつ息を吐いて空を仰いだ。桜の枝越し青く染まってゆくそれは見たこともないくらいに綺麗だった。


「そういえば、空なんか見上げたことなかったなあ」


 男の言葉に応えるように膝に乗せた猫がにゃあと鳴く。いつの間に上がって来たのか鯖トラの前足の間に二回りほど小さい子猫がちょこんと座っていた。


 か、かわ……っ


 胸がきゅううぅんと鳴る。

 白地の子猫は前足の先と右の耳の先が黒い。抱き上げてみると肩甲骨の辺りにも芋版で押したような黒の斑があった。


「なあ~ん」


 愛らしい声で鳴かれたら抱き締めずにはいられない。そうだろう?

 膝の上に仰向けにしてそっと擽ると小さな四肢でしがみついて甘噛みしてくる。その可愛さたるや殺人級である。そのうえ立ち上がった鯖トラが腕に体を擦り寄せてきた。


 何ここ。天国?


 怪しげな町への不安も忘れ、男は暫し愛らしい小動物の虜になったのだった。

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