願い その2

 屍鬼ドローン感染の疑いで病室から連れ出されたユノは、馬車で市街を抜けて、この地下施設へと辿り着いている。施設の名は彼女も知らない。

 通路は壁のランプで明るく照らされてはいるが、不穏だ。屈強な兵が四名、彼女の周囲を固めていた。


「遠い鉤爪のユノ。検査へのご協力ありがとうございます」


 先を歩く陰気な青年の名を、片割月のクエワイという。恐らくは、ユノよりも二つか三つ年上なだけだ――しかし黄都こうと第十八卿という彼の肩書きは、人族じんぞくの政治頂点の一角を意味している。


「検査結果が出るまではこちらの施設で待機していただくようお願いします。後ほど私共の兵が詳しい事情を伺いに参ると思いますが」

「……クエワイ様。この施設……は」


 ユノは、落ち着きなく左右を見渡す。彼女の危惧するような証拠を、どこかに見つけてしまわないように。


「り、留置場……じゃ……ないんですか。検査中というのも嘘で……本当は私の、こんなところに隔離を……」

「……」


 ユノも、末席ながら二十九官付きの書記の一名として取り立てられた人材である。

 十分にあり得る話だ――血鬼ヴァンパイアが根絶される以前の時代、感染に対して人族じんぞくがどのような対処を取っていたかを、ナガンで学んでいた。


「申し訳ありませんが私が同行できるのはここまでです。何か伝えたいことがあるのでしたら伺いますがいかがいたしますか」

「わ、私っ」


 ――今、クエワイに弁解しなければ、逃れる機会はないのではないか。


 だが、方法は。屍鬼ドローン感染の有無など、当人の言葉で証明できるものではない。


(違う……何かの間違いだ。私は血鬼ヴァンパイアに血を注がれてなんかいない。……そんなに簡単に、感染するはずがない。屍鬼ドローン化の疑いは私を連行するための、嘘……だとしたら。もしかしたら……私を捕らえて、追求することがある……)


 クエワイは弾火源のハーディの派閥の一人だったはずだ。

 ならば第三試合の最中に、影積みリノーレの潜入を見逃したことか。


 あの時、リノーレと共にハーディの書簡を読んだ。確かに一人の兵が倒れたのを見たのに、事件は一切表沙汰にならず、まるで兵士達からその記憶が消え失せてしまっているかのようだった。仮に事件の捜査が水面下で進行していたとして、今、ユノの関与に辿り着いたのなら……


「どうしましたか」


 クエワイは、微動だにしないままユノを見ている。まるで観察される実験動物のような薄ら寒い心地だ。


「いえ……何も……」


 ユノは首を振った。

 クエワイはただ立ち去っていく。何もできない。


 遙か高みの陰謀に支配された六合上覧りくごうじょうらんにあって、遠い鉤爪のユノは、無知なまま右往左往する人形だ。たとえあの日のことがなかったとしても、無秩序な復讐心に突き動かされた行動のいくつかは、こうして法に触れるものであっただろう。

 それでも、仮にあの時、リノーレを見逃さなかったなら――


(後悔を……してるわけじゃない。――そうしなかったら、に気付かずに終わっていた。私は、本当に無意味な人形のままだった)


 最初から、誰かに従うつもりなどはない。ナガンが滅んだあの日から、ユノはリュセルスとユノ自身の復讐のためだけに動いている。足掻かなければ。


 兵に促されて隔離室へと入る。表向きの理由が感染者の隔離であるなら、兵の何人かもそのように認識してる可能性があるかもしれない。クエワイの見ていないこの状況で、何か理由をつけてソウジロウへの言伝を頼むことはできないか。


「あの」


 口を開こうとする。だが、室内に既にもう一人がいることに気付いた。


「……あなたが、遠い鉤爪のユノちゃん?」


 誰かが、小さな机の向かい側に腰掛けている。

 縮れた毛先を極彩色に染めた、どこか退廃的な印象の女性だった。


 ユノを連行した兵は女性に目配せを向けて、彼女が僅かに頷いたのを確認して、部屋を後にする。ユノの背に、理由のない汗が浮かんだ。


「可愛い顔してるのね。お話は好き?」


 ユノは身を乗り出して叫んだ。


「すみません……私は、六合上覧りくごうじょうらん出場者、柳の剣のソウジロウの推薦者で……! 急なことでしたので、“客人まろうど”である彼に、私の隔離措置の説明を――」


 たん、と、木を打つような音があった。ユノが視線を下ろすと、果たしてその通りであったことが分かった。

 錐のような器具が、ユノの手の甲を串刺しにして、テーブルを打った音だった。


「え……!? や……やッ、ぐ……!」

「ふふ。あーんまり痛くはないでしょ? 神経、避けてるからね」


 錐を突き立てた女は、もう片手で頬杖を突いたまま、ヘラヘラと笑った。


「でもまだまだ。人間って、肘から先の肉がズタズタになっても、まだはっきり考えられるのよ。こういう場合って、普段のやり方の逆もできると便利なのよねぇ」

「な、何……を……!? ……ふぅうっ……ぐっ……」

「質問するのは私。拷問の有効な使いみちを知ってる?」


 たん、と音が続く。手の甲が縫い止められたまま、二本目の錐が尺骨の間を刺し貫いて、筋肉の筋に沿って開く。滑らかな肌が裂けて、赤い肉がめくれるのが見えた。

 信じられない、という驚愕が真っ先にあった。自分の肉だ。

 痛い。分からない。それ以上に、恐ろしい。


「やあああっ……ああああ……」

「――真偽を別として、。私の知りたい答えは二つだけよ、ユノちゃん。『1.あなたの仲間は何者で、どこにいる?』『2.それを今すぐ確かめる方法は?』」

「……そんな……」

「言っておくけどね。これが終わるのは、私達がユノちゃんの証言を確かめた時、だから。その辺は、よくよく考えて答えてね?」


 ユノの想像力が及ばなかったと言われれば、それまでの話なのかもしれない。

 だが……これは拘留や隔離などという段階ではない。ユノの罪がもはや断定されていたとしても、正式な司法手続きであるはずがない。


(つ、つまり、もう……取り繕う必要がなくなった……! ハーディ様は本当にを! 早く、ここから逃れ……)

「次ね」

「くぅあああっ、がはっ、あ……!」


 鋏のような鋭い刃物が、皮膚の内側に差し込まれる。ユノの体が壊されていく。

 あるべき秩序を捨て去った弾火源の業火が、彼女を焼き苛もうとしている。


(リノーレ)


 共犯者のことを吐けばいいのかもしれない。あの日に一度出会っただけの、美しい少女のことを。誰とも知れぬ彼女を探し出す手段を。

 次の拷問具が突き立つ。


「う、うううう……嫌……助けて……」

「私もそうしたいのは山々だけど、それはユノちゃん次第ね~。もちろん逃げても、この部屋の外には兵士が何人もいるのは分かってるわよね?」

(痛い。怖い。怖い。でも、駄目だ……これを……手放したら……)


 ユノには何もない。故郷も、友も失って、ソウジロウを殺すことの意味さえ見出せなくなった今、彼女にとって価値と思えるものは、何もなくなってしまった。


 だが、この一つの秘密さえあれば、彼女でもかもしれないのだ。

 ナガンの人々の仇――軸のキヤズナへの復讐を果たすまでが、光明すら見えない、どれほど困難な可能性でも。

 蝕むような痛みと、それ以上のおぞましい喪失感。


「ぐっ、うえっ」

(指、親指の付け根がねじれて……こ、こんなの、なんでもない……)


 言い聞かせる。親友に見捨てられて、恐怖の中で引き裂かれたリュセルスの苦しみに比べたら、何も。


「……っく、ご、ごめんなさい……もう、やめて……」

(駄目だ。私の戦いなんだ。誰かを二度も、捨てるものか……)

「はい、完成。ここから左脚をじっくり時間かけてやるからねー。その次は顔。脚をやっているうちに吐いたほうがいいって思わない? ん?」


 粗末なテーブルの上に広げられた、崩れ果てた左腕を見ている。彼女自身の腕だ。

 この拷問吏は、ユノの全身がなるまでやるつもりだ。


 分かっている。それどころか、それでいいと思っている自分がいる。


「リュセルス……」

「その人が共犯?」


 ソウジロウの末路を見て揺らいでしまった心を、今度こそ証明できる気がした。

 リュセルスがまだ消えていないことが分かる。たかが肉体の苦痛などよりもずっと強く、まだあの日の復讐を抱いていられるのだと。


「私、には、もう……一人も、仲間なんていない……!」


 ふと、部屋の片隅に影が舞った。


「……」

「……」


 拷問吏とユノの二人ともが、一瞬、動きを止めた。

 カラスの一種だろうか。扉の狭い鉄格子の隙間から、一羽の鳥が入り込んでいた。都市の只中、それも入り組んだ地下の最奥で、その侵入は、極めて珍しい偶然であるかのように見えた。


「へえ。初めてよ、こんなこと――」


 女の言葉は、息を呑む音で止まる。

 地下室に迫りつつある音の洪水は、まるで潮騒のようだった。


「え……」


 鉄格子の隙間から、恐るべき量の何かが雪崩れ込んだ。

 ユノが状況を把握する一瞬より早く、黒い翼の群れが眼前を横切っている。

 どう、と鳴る破裂が、壁のように空気を押しのけた。


 ユノの前にいた拷問吏だけが、狂った鳥の群れに『通過』された。

 羽音の内側で、液状の何かが散ってこびりつく音が聞こえた。


「な、なに……これ……?」


 その様を、ただ呆然と眺めていた。

 何が起こったのか。

 あらゆる物事が唐突で、実感がなく、悪夢じみていた。


「ユノさん。ありがとう存じます」


 控えめな澄んだ声すら、異様な夢の一部のように思えた。

 ユノは振り返る。


「――私の秘密を売らなかったのですね」


 少女がいた。黒い羽根と赤黒い血飛沫の散る中で、汚れ一つなく真っ白な肌で、締め切られていたはずの扉の内側に、淑やかに佇んでいる。


「リノーレ……」

「リナリスとお呼び下さい」


 どうやって。兵が守りを固めていたはずなのに。

 否。そんな問題ではない。今の物事が現実だったなら、鳥の群れに飲まれて生きていられる者など、存在できたはずがないのだ。


 ……その軍勢を操作した、誰かの他は。


 血と惨劇だけが飛び散る地下室の中でも……

 黒髪の隙間から見える金の瞳は、そんな魔力を信じてしまうほどに、美しい。


「ご恩はと申しましたね。助けに参りました。ユノさん」

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