穢れなき白銀の剣 その3

 大理石造りの広い一室は、実際の気温よりも僅かに肌寒い印象を与えている。


「――“本物の魔王”。今は懐かしい名だ」


 大机の向かいに座る老人は、戯言でも虚勢でもなく、それを本心から述べているようであった。


 “本物の魔王”を単なる過ぎ去った恐怖のように語れる者などあり得ないというのに、そう装うことができる。この声と語りこそが、元第五卿、異相のふみのイリオルデをかつて黄都こうとの中枢へと至らしめた力の一つだ。


「月日の流れはあまりに早い。今となっては、民はまた新たな脅威を恐れているそうではないか……。どのように彼らを宥めたものか、君も頭を悩ませているのではないかね。ロスクレイ」

「まさか」


 絶対なるロスクレイは、左右対称の笑みを浮かべた。

 彼の席の左には第九将たがねのヤニーギズが座し、イリオルデの一挙一動に、張り詰めるような警戒を向けている。


 六合上覧りくごうじょうらんの水面下に潜み続けてきた、現政権より追放された政治勢力である。

 彼ら黄都こうと二十九官が光だとすれば、イリオルデは黄都こうとの影だ。


「既に討伐されたドラゴンを恐れる者などいないでしょう」

「さすがは第二将。正しく……とても正しく、今の状況を理解しているようだね」


 純白のローブの袖から、イリオルデは節くれだった指先を伸ばした。


「無論、恐れるものなどいはしない。黄都こうとを……人族じんぞくの生息圏の全域を脅かしかねなかった最強のドラゴンを、討った。証拠も証言も揃った、確かな事実だ。……存在も定かでない“本物の勇者”などよりも」

「冬のルクノカの死は、試合の結果に過ぎません。彼女に打ち勝ったのは、無尽無流むじんむりゅうのサイアノプです」

「はて。誰がそれを信じる……? この期に及んで、まだなどと」


 彼らがこのような会合の席を持つことは、これまで一度としてなかった。

 互いに根深い敵愾も、理由の一つではあろう。

 だが、そうした敵の一人と接触した事実を作れば、それを種火として内への猜疑の炎を煽ることができる。イリオルデはそのような謀略を得意とするためだ。


 そのような中にあって、両者が直接顔を合わせる理由は一つしかない。

 イリオルデはあくまで穏やかに告げた。


「――もはや必要あるまい。“本物の勇者”を決める戦いは茶番だ」

「それが……。冬のルクノカ討伐の目的でしたか」


 ――即ち、政争の趨勢が決したということ。

 彼が告げているのは、黄都こうと政権に対する勝利宣言だ。

 ハーディの背後に潜んでいたイリオルデが狙いを定めたのは、六合上覧りくごうじょうらんの勝利などではなかった。それよりも遙かに直接的な手段で、“本物の勇者”に


 史上最強、災厄の具現である冬のルクノカは、確かにその功績に値しただろう。

 数百年、彼女を打倒できる存在などいなかった。“本物の魔王”よりも遥かに長く、伝説であったのだ。


「君は……まだ若い。それは素晴らしいことだ。だが故に、目先の利益に囚われすぎたかな、ロスクレイ。……ルクノカ討伐の指揮を執った男は、あの弾火源のハーディだよ。戦場の天才。最強の兵。狂気を呑んだ猛将。……たかが第三回戦を勝ち抜くために、無為に戦力を消耗する相手だとでも思っていたかね」

「お言葉ながら、イリオルデ卿。六合上覧りくごうじょうらんの継続の決定権は黄都こうと二十九官及び、女王陛下にあります。もはやどのような事態が起ころうとも、黄都こうとの威信に懸けて継続する。これは確定事項です」

「いや、いや、いや……くくく」


 老人は、心底から愉快そうに笑い、相手の言を繰り返した。


「『どのような事態が起ころうとも』」


 彼はそう装うことができる。どこに本心を置いているのか、対面するロスクレイすら洞察することができない。


「……思えばこの催しでは、そのような話ばかりをよく聞いたものだ。『無敵の』異能。『必殺の』絶技。『不敗の』神話。――『絶対なる』英雄。く、く。好ましい、空虚な言葉だな。まるでそのようなものがあって欲しいと、願っているかのようだ」

「……」

「『何が起ころうとも』。そう言ったな。果たしてこの戦い、全てが君の想定の内だったかね」


 騎士の赤い目が、僅かに細まる。


(世界詞のキア。あれは、そうだったか)


 脳裏に浮かぶのは、彼の計画を第一回戦から阻んだ想定外の少女だ。

 机上理論にすら実在し得ない、全能の詞術士。少女の僅か一言で破壊された彼の両膝は、治癒に重い代償を強いた。

 それがイリオルデの計略の内であった、と仮定する。


(否だ。……それは、違う)


 あの一件は、赤い紙箋しせんのエレアただ一人の計画であったはずだ。

 仮に他の者が背後にいたならば、灰境かいきょうジヴラートなどよりも遙かに手綱を握りやすい、表に立たせる最適な人材を即座に用意できたことだろう。

 この六合上覧りくごうじょうらんで最強の手駒を擁しながら、第十七卿が反逆に失敗した理由は、彼女がたった一人で……キア本人とすら共謀せず、個人の力で全てを為さねばならなかったからだ。ならばこれは、イリオルデの仕掛けた罠ではない。


(冬のルクノカの参戦が仕組まれていた可能性は?)


 続く想定外があったとすれば、冬のルクノカの力の絶大さであろう。

 黄都こうとを滅ぼしかねない彼女は、当初想定していた排除策――魔王自称者認定による討伐すら不可能な存在であった。

 この一件に、イリオルデの関与はなかったか。

 ハルゲントの探索行の裏から、何者かの後押しがあった可能性は。


「――それは、イリオルデ卿。あなたは全てを想定していた、とでも?」

「く、く、く。その手は喰わんよ……。私は破滅主義とは正反対の人間だ。黄都こうとを滅ぼそうなど、まさか夢にも思うことではない。冬のルクノカを招き入れたのは……ああ、何だったか……名前は忘れたが、ただの愚行だ」

「ええ。私もそう思います。あなたとて、全てを手の内に収められるわけではない」


 ロスクレイは、今後のイリオルデ陣営の行動を読むことができる。

 彼らは冬のルクノカに、人族じんぞくを戯れに滅ぼそうとした脅威として……“死せる魔王”としての役目を担わせるつもりでいる。

 彼女を討伐した勇者としての功績をより大きく育て、自らのものとするために。


 冬のルクノカを招き入れた責任を負う役目は、第六将、静寂なるハルゲントだ。

 あるいは最初から、彼を矢面に立たせるつもりであったのなら……


(いいや。嘘をついてはいない。……彼らとて、ハルゲントを操ったわけでも、冬のルクノカの存在を想定していたわけでもない……)


 ルクノカを探索させる役回りであれば、ハルゲント以上に優秀な者はいくらでもいた。彼が冬のルクノカを相手に交渉を成功させると、誰が想像できたというのか。伝説のドラゴンの脅威の程を正確に見積もることは、星馳せアルスにすら不可能だった。

 こちらの想定外も、当初から仕組まれたものではないと判断する。


 ならばイリオルデの、本命の作戦は何か。


「考えているな、ロスクレイ。君は素晴らしい思索の能力を持っている。それは……市民が君を評価する以上の力だ。“絶対”などより、ずっと素晴らしい」

「そこまでにしていただきましょう。無為な言葉でイリオルデ卿のお口を煩わせたくはありません」

「く、く、く。そう言うな。今なら君は、勝利の側につくことができる。私は、ロスクレイ……若い者に政治を任せたい。……心からそう思う。新たな国を始めなければならない。黄都こうとは一新されるべきなのだ」


 かつて王国があった時代とは違う。

 今を勝ち残れば、王族を廃し人族じんぞく全てを支配できる可能性が、現実にある。

 夢や野心に駆り立てられて、彼の下についた者達すらもいる。第二十一将、紫紺の泡のツツリ。第十八卿、片割月のクエワイ。


「絶対なるロスクレイ。名誉が空しくなったことはないか。愚かな市民を恨む心が、どこにもないと誓えるか。ロスクレイ。私達は、彼らに権利を与えすぎたのだ。……“本物の魔王”の恐怖。英雄への信仰。流入が続く一方の“彼方”の文化。異種族。“客人まろうど”。そのような混沌の全てが整理された未来は、きっと人工の英雄すら必要としない世界だ……」

「……黙って聞いていれば」


 苛立ちと共に、左の席を蹴って立ち上がった者があった。

 針金めいた体躯の将の名を、たがねのヤニーギズという。


 イリオルデを護衛する森人エルフ達の鏃が彼を照準したが、構わず言葉を続けた。


「軍も派閥もない、対等の立場すらない老いぼれが……なにか勝ちが決まったようにして、好き勝手喋りやがりますねェ……! アナタ如きにロスクレイが負けるとでも――」

「んん? 既に負けているだろう?」


 当然の事実を確認するように、イリオルデは返した。


「第二回戦でハーディと当たる組み合わせを選ばされた時から、とうに負けていた。……そうだろう、ロスクレイ」

「……それは」


 絶対なるロスクレイは、必勝の対戦組み合わせを決定する権利を持っていた。

 その事実こそが、尋常ならぬ怪物の集う六合上覧りくごうじょうらんにて、常人であるロスクレイが切ることのできた、最強の札だったのだ。


「く、く。私には……君の気持ちがよく分かるよ、ロスクレイ。成功し続けられる者など……過つことなく全ての選択肢から正解を選び取れる者などいない。にも関わらず、そこの彼の如く、完璧を無責任にも他者に求める愚昧のなんと多いことか――」

「会合は終わりです! イリオルデッ!」


 ヤニーギズは剣の柄に手をかけている。

 ロスクレイが制止しなければ、後先を考えず斬りかかりかねない様相であった。


「君を理解する者はいない」


 敵意を意に介さず、イリオルデはそれだけを言った。

 ゆっくりと立ち上がる。

 数多くの配下も、彼の動きに影法師のように従い、退室していく。


 同じく無数の手勢をこの一室に残しながら、沈黙を保ったままのロスクレイは、まるで無惨な敗者のようにも見える。


「ヤニーギズ」

「はい」


 だが絶対なるロスクレイは、いつでも必然によって勝ち続けてきた英雄だ。

 仮に今の会合が、調略の疑念の材料としてイリオルデが用いる以上に……何一つとして逆転の目を残さぬ、を敵に与えるためのものであったとしたら。


「いい演技だった」


――――――――――――――――――――――――――――――


 老いた第二十七将は、その日も兵舎の一室で、大柄な体を椅子に預けていた。

 背後には、中庭に臨む大きな窓がある。

 狙撃への備えのために決して見晴らしが良いとは言えなかったが、日当たりの良い部屋だった。彼はこの部屋を気に入っていた。


「ここの眺めも最後になるな」


 弾火源のハーディ。

 黄都こうと最大の軍閥を率いる彼こそ、異相のふみのイリオルデが擁する、最強の手駒である。

 

「首尾はどうだ」

「あまり、よろしくはありません。末端にはまだ命令の行き渡っていない兵も多くいます。本当に今でよろしいのですか」


 中年の女性参謀が答える。彼女も、老将の急な作戦決行に戸惑いを隠せていない。

 今の段階で行動を開始して、如何にハーディと言えど、十分に軍の統率を取ることができるというのか。


「いいや――俺が思うに、あまり猶予がない。兵の連中の証言の整合からして、ユノが書簡強奪事件の近くに居合わせたのは、ほぼ確実と見ていい。この敵の性質を考えるなら、敵は勿論予想できねェ電撃戦が必要ってわけだ……」

「遠い鉤爪のユノは今、第十八卿が拘束に動いているはずです。真相を確かめてからでも構わないのでは」

「……だからこそ、だ。俺はユノの関与を疑ってるんじゃない。確信している。ユノの確保に連中の目が向いた隙に動く」


 『見えない軍』は、確実に各組織の内側から情報を得ている。

 ハーディの本来の作戦を成し遂げるために、まずは彼らの目を欺く必要があった。


「なに、大した仕事じゃァない」


 軍勢が動く。これまでにない規模の血が流れる。


 差し迫ったその予感に、ハーディの唇は吊り上がっている。

 どれほどの地獄を見て、いくつもの悪夢を味わっても、世界が平和を取り戻しても、彼はその熱を忘れられずにいる。


 戦争の熱だ。


「たかが六合上覧りくごうじょうらんを潰すくらいだ」


 第二回戦、第二試合。

 それは人の極点に立つ人間ミニア人間ミニアの死闘であると同時に、その修羅の影にて動く黄都こうとの二大勢力が衝突する、まさしく人の戦いでもあった。

 最大規模のである。

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