第九試合 その7
真っ白な風景を、ルクノカは彷徨っている。
白く、全てが凍てつくような霧だ。
踏みしめる大地の存在すら見えないが、その中には、朧気な影がある。
いくつもの、見覚えのある……彼女の記憶に刻まれた英雄たちの影。
「エスウィルダ」
顔のない姿の一つに向かって囁く。
「……貴方なら追いついてくれるのでしょう? 他の誰も辿り着けなかったとしても……私を知り、それでも越えようとしてくれた貴方なら。貴方の成長を……ずっと待っているのですよ。私に挑んでくれることはないのですか?」
答えが返ることはない。とうに死んでいるからだ。ルクノカすらも数えるのを諦めるほど、遠い昔に。
彼女は霧の中を歩んでいく。
「ユシド。オルギス。……アルス。……私はもう一度会いたいのに」
それは夢であって、夢ではなかった。
誰にも並ぶことのできない彼女が生きた、長い――数百年以上もの、現実だ。
「本当に、貴方たちのことが好きだったのよ」
冬のルクノカの知る存在は、尽く死んだ。
一度死んだ程度で、彼らとは二度と話すこともできない。
数えきれないほどの強者がルクノカの前へと現れたが、幾星霜の時を重ねても、滅んでしまった者と同じ者が現れることだけはなかった。
彼女が勇気の美しさを見た者は、その勇気の故に。
――貴様は、何故強い。
彼女は生まれつき強かった。長い歴史の、一柱だけの例外であったのだろう。
力の理由を知るための戦いに明け暮れたが、彼女と戦った者は平等の弱者として死に、そうして積み重なった戦闘の歴史が、ますます彼女を強くするだけだった。
一柱が災害にも値する
「――たかが影法師に、どれほど言の葉を投げたところで」
白い霧の只中に胡座をかいて座り込む、一つの影があった。
「返る音は
「……」
乾燥しきった黒い皮膚は皺に覆われ、痩せさばらえた体躯は骨肉と見紛うほどだ。
一本の毛もない
全ての英雄を心に刻んだ冬のルクノカの知らぬ、異質な死者であった。
「……いつから、ここに来たのかしら?」
「クゥ、クゥ、クゥ」
「――いつから。この儂へと向かって、いつから彼岸に居ると問うたか。そうではない、冬のルクノカ。この儂の姿が見えたということは、まさしく貴様の方がここに来たのだ。もはや分かっておるのだろう」
「分からないわ」
彼の言葉の意味することを考えることはできなかったが、それでも冬のルクノカの心は無邪気に躍った。
もしかしたら。次に現れる何者かであれば。最後に辿り着く、誰かであれば。
「“彼岸”――貴方なら、私と戦ってくれるかしら」
「とうに戦っている」
そうであったかもしれない。今や全てが朧気だ。
「まさしく今、貴様は戦っている。喜ぶがいい。そうしてここに来たのだ」
「そう……そうだったかしら。私は、今」
先の見えない白い霧。誰も並び立つことのない頂点。
戦いすらをも許されぬ、それは一つの荒涼の光景であった。
「……ああ」
いつか終わりが来るのならば。
――――――――――――――――――――――――――――――
ルクノカは目覚めた。朦朧とした脳神経に走る、電光の一瞬が見せた夢であった。
だが、刹那にも満たぬ微睡みの間に。
「【
声は首元から響いている。
「【
焼かれた竜鱗の隙間に、今、一匹の
たった今、竜爪で叩き潰したことにも気づけずにいた、矮小な存在であった。
試合開始の時の如く、仮にそれが不死であったとして――どのようにして、凍土の地上から、再び彼女の首元へと届いたのか。
ひどく短い、微睡みの一瞬だったのだ。
ルクノカの爪は、首元から下がりつつあり――。
「【
極点の格闘家ですら、冬のルクノカの力を見立てることはできない。
だが、未来の演算が確かでなかったのだとしても、確かな事実を知っている。
一度、その身で受けた攻撃だからだ。
力を受け流す技を以てすれば、竜爪の一撃から内核を残して死ぬことができる。
残る三度の戦いで一度ずつ。計三回。残された最後の全再生を、今。
「き……貴様が……死の、宿命すら……蹂躙するのならば、そうしてやる」
確かな事実を知っている。
冬のルクノカは、かゆいと言った。彼女がそのように言った以上、それは悪意持つ
皮膚の刺激によって生じた掻痒感は、無意識の引っ掻き反射を引き起こす。
脳への打撃で朦朧とした意識で、左頸部のその弱点へと、自ら左の竜爪を接触させる。最後の一撃を受けたその時、内核の状態で竜爪へと取り付き――そして。
そして、サイアノプが狙う一点。
ルクノカ自身によって運ばれたその位置は、第一回戦――星馳せアルスのヒレンジンゲンの光の魔剣によって竜鱗を失った、ツツリの部隊の総攻撃によって痛痒を与えられた、彼自身が一度の必殺を打ち込んだ、最強の
「――一撃必殺を、二度呉れてやる!」
竜鱗に仮足を広げ、接地する。打撃の起点となる反作用は強固な土台から生ずる。
故にそれは横に突き飛ばす打撃ではない。体重の全てを用いて、斜め上方に打つ。
拳ではない。それは原形質の全身を広げた、人体ではあり得ぬ面積の掌打である。
接触。肉体表層の破壊は、破壊と同量の運動量の損失を意味する。故にそれは肉体を一瞬の内になすりつけるような一撃である。
“
「カッ――ク、フ――!」
首筋への一撃は大脳脚を破壊し、間脳にすら到達した。
「フ、フフ、フ……!」
冬のルクノカは笑った。
そのように見えただけであったかもしれない。
これまでがそうであったように、臨終の反射ですら、彼女は戦うことができた。
最強の
打撃を繰り出した直後のサイアノプに、竜爪が迫り――
「……“化……勁”ッ!」
偶然だったのだろう。それと同時に、爆光が閃いた。
「い、今だ……殺れェッ! サイアノプ!」
修羅の二名はついに気付くことはなかったが、蒸気自動車の光があった。
戦闘余波の殺戮圏内である。
紫紺の泡のツツリが、車上で機械弓を構えていた。
“彼方”において最強の携行兵器の一撃を受けて、爪の軌道は僅かにぶれた。
死の間際の一撃は、サイアノプに直撃した。
「……」
豪速に押し飛ばされ、
一度も敗北を知ることのなかった
――――――――――――――――――――――――――――――
「フ、フフ……ウフフフ……」
笑っていた。まるで少女のように笑っている。
冷えきった夜の天上から、二つの月が彼女を見下ろしている。
全てが、美しい夢のようであった。
「……サイアノ……プ。ああ……
それが英雄の名。忘れるはずがない。
最期の瞬間まで、彼女の愛した英雄の記憶は、彼女だけのものであるから。
「何を思う……冬の……ルクノカ……」
声があった。最後の一撃は、彼の命を捉えたのだろうか。
もはや目も見えてはいないが、そうではないと信じたかった。
「貴様は今、何を思っている……越えようのない、壁……敗北の時に、何を……」
戦い続ける限り、そこには必ず敗北の定めがある。
真に最強の存在であったとしても、鋼鉄の壁からは逃れることはできない。
ひどく無慈悲な真実がある。
冬のルクノカですらも、それを知っていた。
「ウッフフ……フ、フフ……」
「……」
「全ての……力で……死んでいったのよ……皆、そうして……」
その輝きを、自分に持ち得なかったものをこそ、焦がれ、尊いと思う。
絶対の強者へと挑む勇気と、無謀を。その心が何よりも美しいものだと、彼女は強く信じていたのだ。
彼らを愛していた。
「私も、同じ……皆の、ところに……」
「……貴様は……」
戦い続ける限りは、誰であろうと鋼鉄の壁へと到達して果てる。
――サイアノプが恐怖していたものに、ルクノカは救いを見ていた。
もはや二度と会うことのできない英雄たちが、そこにいるのだ。
全霊の闘争の末にしか見ることのできない景色へと、彼女は辿り着きたかった。
「……僕、僕は」
死にゆく伝説を前に、サイアノプは呻いた。
自らの手で殺めた、真なる最強。
「冬の……ルクノカ。貴様を……卑劣な策で謀り、殺した。一対一ではなかった。取り囲み、不意を打った。……正しき戦いではなかった。僕では……貴様を越えることは、できなかった……」
「……ああ――そうだったの。ウッフフフ……フフ……」
ルクノカは笑っていた。
「楽しくて……ああ、とても、楽しくて……楽しすぎて……フフフ……」
絶望の具現である冬が、そう思ったのだ。
「……そんなこと……全然……気づかなかったわ…………」
言葉は、それで終わった。
世界壊滅の暴威は、今はひどく静かだった。
夜の凍土に聞こえるのは、残火に乾いた風だけである。
一つの季節が終わった。
「……勝った」
残された僅かな命を引きずるようにして、一匹の
たった今終わった伝説と比べれば、ひどく矮小で、あまりにも脆弱だ。
……それでも、彼は。
「僕は……勝ったぞ。クウェル……」
第九試合。勝者は、
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