第九試合 その6
血液を侵す毒霧が噴き上がり、炎上する地形が足場と命を容赦なく削る。
完全に閉ざされた夜闇にあっては、
――それでも、先程よりは遙かに戦いになっている。
炎と闇でサイアノプが動きを制約される以上に、瀕死の――既に正常な知覚も運動機能も失われているはずの――ルクノカからも、足下の小さな標的が見えなくなる。その上で、ようやく生存の可能性が生まれる。
右方。頭上。地面を刳りながら斜め下方。
一撃ずつが致死の竜爪は最速の拳打よりも速く、絶え間がない。
跳躍し、這い、変形する。膨大な知性と不定の身体の性能を尽くして、
巻き上げる土礫に触れれば、全身が微塵と化して死ぬ。もしくは存在地点の付近を攻撃が通り過ぎる、その僅かな余波でさえ。
その上で冬のルクノカは、明確にサイアノプを照準しているのだ。
(もはや認めるしかない)
脳幹の広域を破壊され、平衡感覚を失い、狙い続けることのできる道理はない。
「フ……ウッフフフフフフフフフ!」
それでも、“彼方”の下等な原形質が、逸脱によってまるで
柳の剣のソウジロウ。厄運のリッケ。通り
冬のルクノカは、尋常の知覚とは異なる次元でサイアノプを認識している。
(……僕の見立てが、及ばなかったのだ。極限の身体能力と、天地壊滅の
数百年。あるいは千年。どれだけの数の英雄が、どれだけの手段を尽くして、君臨する真の最強を打ち倒そうとしたのだろう。
およそ知的生命体の考えが及ぶ手段の全てが、一柱の
“冬”の到来を止めることができた者はいない。
(僕は死ぬ)
既に二度死んでいる。ツツリの策がなく、身一つで彼女と相対していたならば、連撃の嵐は完全にサイアノプを捉えていたはずだ。
真の意味での死を未だ迎えていないのは、サイアノプ自身が炎と闇を熟知して逃れ、燃料の火炎に撒かれ続けるルクノカの姿を、一方的に目視できるためである。
「ウッフフフフ! フフフフフフ!」
(……だと、しても)
逃げ回っている。
全てを懸けた“一撃”を当てたサイアノプには、他に可能なことはない。
(僕はあの時も、その覚悟をしていた。“最初の一行”に追いつけなかったあの時。“本物の魔王”が心の底から恐ろしくても、避けようのない鋼鉄の壁が待ち受けているとしても……僕は)
竜爪が降る。大地の亀裂が電光じみて走る。サイアノプは回避している。
かつての記憶が、サイアノプの心を走っている。死が近くにある。
「ああ……すてき。ゴボッ、フフ、フフフフフ……!」
二十一年も昔の話だ。
悔恨が色褪せることがなかったのは、それが同時に誇りでもあったから。
(あの時、皆と共に行きたいと願うことができた。あの時だけは)
尾が大地を薙ぎ払う。逃げ場のない一撃を、先程ルクノカが割った亀裂の隙間で躱す。直後、蹴りの竜爪がその地点を深層まで吹き飛ばす。サイアノプは逃れている。
ルクノカの後肢が一歩を踏み出す。
見通すことのできない炎に包まれていても、相対する
爆裂音が地表を吹き飛ばす。炎の柱が噴き上がって、凍土を溶かす。
ツツリの埋めた大型地雷の埋設地点にまで、巨竜の一歩を誘導していた。
何も変わらないことを知っている。彼女にダメージはない。だが、それでも。
「グッ、あなたは……」
「――僕は“最初の一行”だ!」
地雷の爆発で、軸足が僅かに浮いた刹那。
蹴り足が着地する地点で、サイアノプは既に構えている。
「【
「させん」
平衡感覚を既に破壊された状態。爆破と蹴りの踏み足に重心が崩れる瞬間。
冬のルクノカに対してのそれは、寸分違わぬ機を捉えた全力の打撃で、ようやく可能となる。
極限に鋭利化された打撃が、ルクノカの着地を僅かに乱した。
「“出足……払”ッ!」
「……!」
地響きが再び鳴った。
冬のルクノカが、自らの巨重を支えられずに転倒したのだ。ついに復活しつつあった恐るべき
「……。【
――死んでいない。ルクノカはまだ戦おうとしている。
命尽きる瞬間の、最後の一呼吸までも
……何故。
「……」
天より与えられた全てを闘争に捧げて死にゆく、美しき
自分は、何故戦うのだろう、と思う。
最強の
勇者の栄誉を掴むために。そうではない。彼は、真に栄誉を掴むべきだった者たちを知っている。
自分ならば“本物の魔王”に勝てたのだと、矮小な意地を通すために。
彼自身がそう信じていても、そうではなかった。
……かつて、彼でも戦えた日があった。今のような武がなくとも、何も知らぬ弱者のままでも、戦えたのだ。
小さく儚い、何よりも誇り高い輝きを、確かに見た日があった。
「ああ……今だ……。……僕にとってのそれは、今なんだ! あの日と同じ心が欲しかったんだ!」
――勇気を。
「……撃て! ツツリ!」
――――――――――――――――――――――――――――――
ツツリは逃げていない。丘の上で観測し、指揮する者が必要だからだ。
自身が死ぬ恐怖と、敵が死なぬ絶望に苛まれながら、恐怖に竦んだ足のために、辛うじて踏みとどまっていることができた。
「サイアノプ」
彼女に認識できたのは、大型地雷の爆炎だけだ。
あり得ないものを見た。
「……サイアノプ!」
冬のルクノカが倒れている。
地雷どころか、毒も炎も通じることのなかった無敵の
「ちくしょう……お前、読んだのか……! 通信も届かない、指示する余裕もない……そんな有様なのに……あたしが、何をやろうとしているのか!」
自身すらその限界を把握していない伝説の
……だが、そうだとしても。
ラヂオへと指示を下す。通信先の部隊も見た好機に、確信を与えるために。
「機械弓部隊撃て! ……あいつ……あの野郎、なんて奴だ……! ルクノカの向きを誘導した! これだよ……この位置……! 竜鱗の隙間が、完全に狙える!」
必殺の狙撃を構える機械弓部隊の配置は、認知の盲点にある。
飽和射撃を続ける攻撃部隊の方向に紛れた広漠な闇の只中の、孤立した一点。
今しがたのサイアノプの“崩し”は、その方向を理解しているとしか思えなかった。
――極点の武闘家は、敵ではなく味方を見立てたのだ。
「第三波! 機械弓一斉発射!」
闇の中で、軍勢が構えた。
気配を感じさせず、死の射線は一斉にただ一点を狙った。
“機械弓”、と仮に呼称しているが、そうではない。
それは本来、この世界の誰も正式な名称を知らぬはずの兵器であるから。
だがそれでも、ツツリはその兵器の優位点を正確に認識している――即ち、この兵器を本来保有していたケイテの軍が想定していた運用を。
弓や
230m/sにも達するその初速は、冬のルクノカの反応速度を以てしても回避が困難であるということ。
その射出弾頭の一撃ずつが、
「今だ……今! 伝説を……殺せ!」
サイアノプの“一撃”すら、児戯だ。
それは最大の破壊力を誇る携行型対戦車兵器である。
“彼方”においての名を、“パンツァーファウスト3-IT600”という。
火と、音が走った。破滅的な流星雨のようであった。
真昼のような爆発が、首筋の竜鱗の間隙で立て続けに開いた。
それは気化した燃料に引火し、明るすぎる炎が倒れたルクノカを照らした。
「……ルクノカ」
斉射は終わりではなかった。
次の砲を構えた部隊が、再び破壊を撃ち込み続けた。
第二試合における星馳せアルスの攻撃は、決して闇雲な狙いなどではない。
「ルクノカ……待てよ、なあ」
……星馳せアルスが、全ての魔具を尽くして、絶対の伝説に一点の綻びを産んだ。
長き求道の末に辿り着いた
地平に二度と生まれぬ最強の英雄二名の命と、世界最大の軍の力を費やした。
だからこそ、今、この機会に――
「いや、いやいやいや……待て」
――殺せなければ、もう後はない。
「待てェッ!」
兵の目を憚らずに、ツツリは叫んだ。
……見間違いであってほしかった。
“彼方”のロケット砲の、数十発もの爆撃の中、ルクノカは身を起こしつつあった。
巨体が身動ぎする姿が、遠く丘の上からも見えた。
「ふざ、ふざけんな……! く……首にッ! 弱点に当てているんだぞ!?」
「【
囁くような弱々しい声は、遠く離れたこの丘の上にも聞こえた。
冬のルクノカにとって、距離は一切の障壁にならない。
「……やめろ、駄目だ、もうないんだよ! ほ、他にどうすればいいんだ! 死んでくれよ! 死ねよォッ!」
サイアノプの技が確かだったのなら、もはや呼吸も続かないはずだ。
毒と炎の煙が、呼吸器を焼き続けているはずだ。
何よりも“彼方”の兵器が、発音を行うべき器官を破壊したはずだ。
たった一呼吸の詠唱が終わるまでに、伝説の
「【
空気と大地が変動した。
全てが死んだ。
――――――――――――――――――――――――――――――
「冬の……ルクノカ……」
凍術の
それだけで活動不能の傷を負いながら、踏み止まることができていた。
仮足で地を噛み、低く重心を構え……だが。
そのようにして生き延びたところで、何になるというのか。
“彼方”の超常の兵器の全弾が、生身の頸部を直撃したのだ。
……血が流れている。それだけだ。
「ウッフフフフ! フフフフフフフフフ! フフフフフフフ! ……ああ、かゆい」
「……ッ、何故だ!」
唯一の誇りであった、サイアノプの技の最強が否定されていく。
あの絶妙の機会に、“
一撃を外したのか。鍛錬が及ばなかったのか。
命の終わりに、そのような錯覚すら生まれつつあった。
確実に脳幹を破壊されながら、動き、一方的に殺し続ける……
ただの、まったく単純な生命力によって。
「何故死なんッ! 何故……う……貴様……き、貴様は……!」
次の動きに移ることができない。
一匹の
「何故、強い……!」
「……どこ、ゴボッ、どこに、いるのかしら……」
天を衝く巨体が、首を巡らせていた。
――敵を探しているのだ。
微睡みの内で、その夢を見ている。
流れて溶けゆく過去の残影の中で、彼らはいつも、彼女に淡い期待を抱かせる。
無敗の強さがあれば。長き時の研鑽がそこにあれば。
それとも、時代の流れが彼女を越えるのか。そのどれでもない精神の輝きが起こす奇跡であれば、あるいはきっと。
きっと。もしかしたら、戦いになるのだと信じた。
「もっと……もっと強い英雄が、待ってい……でしょう……ハルゲント……」
「うあああああああッ! ああああああ!」
冬のルクノカに、サイアノプの声は届いていない。
彼女の目に映るものはない。
「僕は――」
故に、まったく無造作に、ただの
それが自身の求め続けていた強者であったと、気付くこともなかった。
――――――――――――――――――――――――――――――
「……まだ、ハハ……まだ、だろ……なあ……!」
陣地の将校は、半分が死んだ。
決して
紫紺の泡のツツリらが死に瀕しているのは、単に急激な凍傷と、
ただの
「サ、サイアノプ……あたしは……か、賭けてんだよ……。殺ってくれよ……あいつを……冬の、ルクノカ……」
「ツツリ閣下! もう分かるでしょう!? 作戦は失敗したわ! 無事な兵を集めて離脱するしかない! 次の
「……ッ、ふッざけんじゃねェーぞ!」
半身を凍えさせながら、ツツリはそれでも叫んだ。
それでも。それでも戦わなければならない。その責任がある。
「あたしはな……やるって言ったら、マジでやるんだよ! サイアノプより先に逃げるかよ! あの雑魚みたいな
「ツツリ閣下……ツツリ! もう勝ち目なんかない! サイアノプだって死んでる! 分かっているでしょう!?」
「……蒸気自動車を出せッ!」
「でも」
「あたしの命令に従え!」
覆しようのない鋼鉄の壁が立ちはだかっている。
結果という名の壁が。
もはや全てが手遅れであろうことは分かっていた。
ありとあらゆる仕掛けは、最強の生物に通ずることはなかった。
「や、殺ってやる……」
この作戦の全責任はツツリにある。
「サイアノプが死んでも……冬のルクノカ! あたしが殺ってやるよ!」
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