第九試合 その5

 爆発音の如き空気の破裂も、目に見える骨肉の飛散も伴うことはない。

 だが、仮足へと返る打撃振動が、その絶技の成功を告げている。


(――終わりだ)


 仮足を戻す動作よりも速く、首筋を蹴って跳び離れている。

 直後、彼が取り付いていた空間を、致死の竜爪が薙いだ。


 死線における予兆を感じ取っている。サイアノプに油断はない。


「グッ、ゴハッ、グッブ、ブブッ、ブ――」


 最強のドラゴンは、濁った、おぞましい音を発していた。

 首筋の異物を見失って、ルクノカは闇雲に爪を振り回し、地表を無意味に吹き飛ばした。本来の優美さとは程遠い、まるで詞術しじゅつの通じぬ獣であるかのようであった。


 翼を広げ、よろめき、前肢を突く。巨竜のあぎとが、何も存在しない空を噛んだ。


「――無駄だ!」


 夜の凍土に降り立って、サイアノプは叫んだ。


「脳幹と共に、骨半器官からの平衡感覚を伝達する索状体――下小脳脚を破壊している。飛行はおろか、上下の区別すらつくまい! 貴様のそれは、平衡感覚異常による嘔吐反射だ! 冬のルクノカ。貴様は……死ぬ!」


 全てを破壊する圧倒の身体能力があったとしても、狙いを定めることができない。

 近接戦闘を否定する高速飛行能力を、もはや制御することができない。

 さらに呼吸器を塞ぐ自分自身の吐瀉によって、ブレスを詠唱することもできない。


「ゴッ、グブッ、ブブッ、ブ、ブブ」


 ドラゴンは再び足掻いた。中途で千切れた尾が、狂った蛇竜ワームの如く大地を薙いで、そこに壮絶な破壊痕を刻んだ。

 神にも等しい力であったはずの、美しきドラゴンが地に堕ちる。

 酷く冒涜的な断末魔の光景であった。


(“嘯液重勁しょうえきじゅうけい”が完全に入った。生命活動の維持は不能。だが)


 頭上から莫大な質量が落ちる。

 練達の格闘家はその兆しを見ている。遙か手前の時点で跳び離れ、回避する。


「……まだ……動くか。動いて……足掻くか、ルクノカ!」


 この闇の中にあってサイアノプは、最大最強の敵のあらゆる動作を見逃していない。戦闘の行く末を、無限の戦闘分岐を演算し続けている。だが、それが可能か。粘獣ウーズと絶望的な尺度の差異があるドラゴンを相手に、読み続けることができるか。


 サイアノプが退避した地面には、飛散した原形質の染みが広がっている。

 奇襲の囮として使い捨てられた、名も無き粘獣ウーズだ。薬物で体の自由を奪われ、最強のドラゴンの前へと差し出されたか。


(……ツツリめ。卑劣な手を)


 無双の技術を極めたサイアノプであったとしても、ごく僅かの失着で、この粘獣ウーズと何一つ変わらぬ有様になり果てるのだろう。

 地面を這って迫る尾撃は、僅かな地形起伏を用いて回避する。雨の如き竜爪の打ち下ろしの中で、自身に迫る一撃のみを判別し、体ごと躱す。


 冬のルクノカの機能は既に殺した。超絶の暴力も遙かに弱まっているはずだ。

 僅か。サイアノプがあと僅かの時さえ稼げば、力尽きる。


(僅か)


 絶望的な鋼鉄の壁に目を背けることなく戦い、そして生き延びる。

 それだけでよかった。


(……僅か、が、これほど遠いのか……!)


 次なる竜爪の一撃が来る。回避の隙もないほどの連続攻撃であったとしても、受け手を構えるに十分な猶予を取っている。

 

(“化勁”)


 重心と運動方向の操作で衝撃を受け流す、敵の力の大小を問わぬ防御の技巧だ。

 左の爪が到達し、サイアノプは全力でその力を流す。接触。作用。


 ビシャリ、という音が鳴った。

 サイアノプの半身が千切れ飛んだ。


「……ッ、【満ちる大月p o r p u p e o n巡れp e r p i p e o r】……!」

 

 ――受け切れない道理などなかった。


 それは死に瀕した獣の単純な足掻きで、方向も直撃の瞬間も明白な、力任せの攻撃にすぎない。事実、そうであった。

 長い年月の果てに極めた技の極みが、一撃で。


「……莫迦な!」


 叫んでいた。防げたはずのたった一撃が、粘獣ウーズの余命を大きく刈った。

 かつて屠山崩流ラグレクスに繰り出したような、攻撃とは次元の異なる、それが冬のルクノカの本来の暴力であった。


「僕は……!」


 勝てるはずだ。今もその確信は変わらない。

 だが、殺滅の嵐を回避するサイアノプの動きには、今や切迫した恐怖がある。

 防御不能。致命傷の有無など一切関係なく、冬のルクノカの攻撃威力はサイアノプを跡形もなく殺して有り余るのだ。


 全再生を用いた直後の、朦朧とした意識で、なお予兆を見る。

 弧を描き振り上げる動き。軌道が見える。到達の時も。


 全身の瞬発でそれを躱


「かっ」


 再び両断された。辛うじて、内核を残したに過ぎなかった。


 ――二度。

 刹那の一瞬で、サイアノプは二度死んだ。


「【巡れp e r p i p e o r】……! こ、こんな……」

「グブッ、ガバッ、バ、バッ、フ、グググ」


 ドラゴンの呼吸器から漏れ続けるおぞましい音の正体を悟って、サイアノプは恐れた。

 笑っている。


 冬のルクノカは楽しんでいる。


――――――――――――――――――――――――――――――


「……サイアノプ。いい仕事だ」 


 遠方の高台で、ツツリは呟いている。

 ルクノカとサイアノプは試合開始地点での戦闘を繰り広げていた。大地に据えられたランプの光に照らされて、その様がはっきりと見える。


「十分だよ。冬のルクノカ相手に、そいつはちょっと期待以上だ。……悪いが、もう少しだけ持ちこたえてろよ」


 サイアノプが、彼の言う“一撃”を打ち込めたかどうかは分からない。それでもルクノカの狂乱を見れば、脆弱な粘獣ウーズドラゴンに与えた破壊の程は十分に想像がつく。

 彼はルクノカの注意を惹き続け、それどころか確かな有効打すら与えているのだ。


「下の連中の準備はどう?」

「いつでもいいですよ~。ってか、冬のルクノカ相手にサボれませんからね。あいつら、いつもこれくらい速く働いてくれりゃア、俺も楽できるんですけど~」

「機械弓部隊も配置完了よ。あとは狙いを定めるだけね……」


 将校らがツツリの問いに答える。

 彼らもまたサイアノプとの会議に参加し、これから先の作戦を共有している。


「……安心しろサイアノプ。お前だけに命を張らせやしないからさ。こいつが……人族じんぞくが滅ぶかどうかの瀬戸際なんだ……」


 爆裂音が連なった。別の丘にて戦列を組んだ砲撃機魔カノンゴーレムによる一斉射撃である。

 無論、竜鱗に対し人間ミニアの持ち得る火砲などはまったく意味を成さない。最初からルクノカへと当てるための砲撃ではない。


 闇に乗じた三個中隊。弾火源のハーディから借り受けた精鋭一個大隊。工兵を動員して埋設した仕掛けが三百。ケイテの軍より接収した、命令系統の改造が間に合った分の機魔ゴーレム六十一体に加え、彼らの保有していた“彼方”の機械兵器。


 紫紺の泡のツツリが動かせる戦力の全てを、この戦闘に投入している。

 ケイテの軍が解散した際、残されたほぼ全ての遺産がツツリの軍へと組み込まれた。他の二十九官から反対意見が出ることはなかった――この日に戦う役割が決まっていたからだ。


「第一波。左葉草精製薬による血液剤弾」


 ルクノカとサイアノプの戦う一帯は、白い薄膜の如き霧に覆われている。

 それは地面に穿たれた砲撃痕より発生したものだ。

 僅かな熱反応で塩化シアン系のガスを発し続ける特注の弾頭は、ドラゴンの呼吸を塞ぎブレスの脅威を無力化するべく、第二試合の直後より開発している。


「効いてますね~」


 単眼鏡を覗きながら、将校の一人が言う。

 巨体が痙攣して、サイアノプに繰り出していた竜爪の嵐が停止している。

 その痙攣が“嘯液重勁しょうえきじゅうけい”による運動中枢の破壊のためにもたらされたものか、今しがたの毒煙によるものかは判別不可能であるが……


「……どうだかね。どっちにしろ、粘獣ウーズに呼吸器なんてない。サイアノプが地面に釘付けにしてる限り、こっち側だけが一方的に毒を使い放題だ」


 ……当然、彼女の上方、気球からも毒物を散布している。空気よりも重い毒物だ。

 ルクノカだけが知らぬ間に、彼女は生物として逃れようのない殺戮の圏内にいる。


 本来のドラゴンであれば……これがでなかったのならば、敵はこのような策が効果を現すよりも早くその場を飛び立ち、逆襲に転じていたことだろう。冬のルクノカは、人間ミニアの掌握する時と場所へと自ら現れたのだ。

 砲撃の着弾地点を逐一確認しつつ、ラヂオへと向けて新たな指示を下す。


「ちょっと集中させすぎ! もっと広く撃てない? 多分、ルクノカも窒息したらそこから逃げようとすると思うからさ。周囲に散らして撃って! 煙を濃くして中毒症状を早めるより、常に呼吸を阻害させた方がいい!」

〈了解です! 射角を広げます!〉


 苦悶に足掻くドラゴンを観察し続けながら、それでも恐れている。

 ルクノカがほんの一瞬だけ口を開き、ほんの気まぐれでこちらを向いたなら、ツツリの命は終わる。それは多くの黄都こうと市民が同じ運命を辿ることを意味するのだ。


 紫紺の泡のツツリは、可能性に賭けることをしない。

 いかなる偶然も起こしてはならない。

 冬のルクノカは今、必然的に死ななければならない。


「死ねよ、ルクノカ……。なあ。頼むからさあ……死んでくれよー……?」


 光の線がルクノカの表面で閃く。

 ハーディの詞術しじゅつ中隊。このような夜間戦闘の場では、炎の光を発さず、熱した風そのものを発射する熱術ねつじゅつが有効である場合がある。


 気球から散布した燃料に引火して、ルクノカの竜鱗を火炎が包んだ。熱と煙によるパニック状態を狙ったこの手の戦術は、かつてはドラゴン相手にも用いられたことがあったのだという。


「第二波。熱術ねつじゅつによる注意の拡散……」


 ラヂオが、別の部隊の動向を伝えてくる。


〈ツツリ閣下。機械弓部隊、準備整っています! 今、目標を視認可能ですが……〉

「まだ待って……。方向的にさ……確実に、全弾叩き込める位置取りじゃあないと、全部無駄になっちゃうから! まだ……!」


 あの地で戦うサイアノプに状況を伝えたかったが、このような事態に連携できるほどの余裕などそもそも存在しないだろう。

 必殺の手筈は整っている。この巨獣を相手に攻撃を放ち、意識の誘導を担う部隊は、全てが決死だ。


 あと僅かだけ、体を詞術しじゅつ中隊の側へと向ければ。


「まだだ、まだ……!」


 果たして、ルクノカが詞術しじゅつ中隊の方向を振り向く。

 しかしその瞬間にツツリが認識したのは、好機とは異なる事実である。


(……重心を沈めている!)


 彼女はラヂオへと叫んだ。


詞術しじゅつ中隊退けッ! 攻撃がそっちに来る!」

〈見えています! しかしこの距離――〉


 咆哮の如き地響きだった。


 突如走った土石の奔流で、詞術しじゅつ中隊はまとめて轢き潰された。

 詞術しじゅつの射程圏内とはいえ、十分な距離を離していたはずだ。ルクノカに視認されぬよう、暗闇に紛れてもいた。


 しかし冬のルクノカは、瀕死の巨体で、凍土を

 それだけで、中隊が一つ消えた。


「……ハ、ハハ」


 致死の傷と毒をその身に負いながら、ブレスを封じられながらなお、これほどの。

 十分に理解していたはずの事実だった。


 安全圏などない。


「なんだそりゃ……」


 将校たちは、明らかに恐怖の面持ちを見せた。

 一つの終末に相対する人間ミニアとして、当然の反応であった。

 ツツリもそうだ。


「ツ、ツツリ閣下。やはり我々も撤退――」

「気球班! 地表照明に工術こうじゅつを作用! 真っ暗闇にしていい! 機械弓部隊は構えを継続、撃つ時は部隊長の判断に従え! 光も物音も絶対に漏らすなよ! ルクノカは……冬のルクノカは、熱術ねつじゅつの来る温度変化の方向まで感知してくる!」


 地表に据えられたランプが次々とその炎を落としていく。

 気球班の工術こうじゅつがランプの開口部を閉鎖し、空気を遮断したのだ。

 これが当初からこの地に仕込んでいた、光に慣れたルクノカの視界を閉ざす仕掛けの一つであったが。


(……この手にどれだけ効果がある!? 毒を吸わせて、火に撒かせて……サイアノプの一撃とやらを喰らって、死んでいないんだぞ……!)


 ルクノカの足元で爆炎が上がる。開始地点に彼女を釘付けにするために仕掛けた、建物を吹き飛ばす規模の大型地雷だ。

 それでも、僅かに平衡を崩しただけのようであった。負傷など望むべくもない。

 ツツリは掌中のラヂオを握りしめた。


「ふッざけんなよ……!」


 策謀は尽く発動していて、それでも殺す事ができない。

 絶望の具現。地上の最強種において、さらに最強たる個体。


 彼女はまだ地表に立っている。戦い続けている。


「誰が……この程度でビビってやるかよッ! 冬のルクノカ!」


――――――――――――――――――――――――――――――


 目に映る光景は朧な影のようだ。

 あのイガニアの凍土と同じようなマリ荒野には、彼女の辿ってきた過去が、幾多の英雄たちとの戦いが、チカチカと重なり合って過ぎる。


(サイアノプ)


 竜爪に迫るほどの身動きの速度でルクノカを翻弄した者もいた。

 幾度斬撃しても再生する不死身を以て伝説に対峙した者もいた。

 あるいはこのように、毒物や火を吹く武器を用いた者も。


(……あなたの名前は、サイアノプというのね)


 見えずとも気配を察知している。竜爪を薙ぎ払う。視野に影を捉えたように思えても、それはまるで夢の残滓であるかのように、彼女の手をするりと抜けていく。


 視神経異常による幻覚なのか、動きの精妙さを破壊されてしまったからだろうか。

 そうではないと、ルクノカは信じたかった。


(私の爪から、生き延びている――)


 僅かの不運で消し飛んでしまうような、儚い奇跡であるとしても――

 その奇跡は、この小さき粘獣ウーズの、果てしない研鑽の故であると。 


「ゲボッ、ゴホッ、グッ、グブブッ、ブブ」


 悶え、暴れ狂い、血と吐瀉物を吐く。

 それでも彼女は、朧な認識のままに戦い続けている。

 遥かな年月に刻み込まれた、恐るべき戦闘経験で、それを成し得ている。


 ――脳幹の呼吸中枢が停止した生物は、新たに酸素を取り込むことができない。

 心臓中枢に異常をきたしたならば、拍動は不規則になり、血流は停滞する。

 大脳へと向かう信号の遮断は、意識の喪失……昏睡状態を意味する。


(ああ。素晴らしい――)


 ならば……半ば以上昏睡の夢現にありながら、機能の死にゆく肉体にあって、その身体をなおも駆動出来る存在を、果たして生物と呼ぶことができるだろうか。

 手先の機能が停止したとしても、稼働の能う肩や背の筋力のみで爪を振るい、一軍を壊滅させて余りある暴力を行使する、最強の種を。

 彼女自身すら、その限界を知らない。


 ――“彼方”の長い歴史ですら、到来を止められた者は一人もいない。

 生物ではない。

 それは現象であり、摂理であり、絶望である。


「……ゴボッ、フ……フッ、フフフ……フフフ! フフフフフフ……! クッ、ウ……ウッフフフフフフフフフフフフ!」


 “客人まろうど”の来る“彼方”は、土地ではなく時によって気候の移ろう世界なのだという。

 そして一年を四つに分けた内の一つに、そう名付けられた時節がある。

 何もかもが静まり返り、美しい氷に閉ざされて、次の再生の時まで、植物も動物も、世界の全てが一度死ぬ時が来る。


 ――冬、という。

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